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台湾をめぐるあれこれ

カテゴリ: 人物

  章子惠編『臺灣時人誌 第一集』(臺北市:國光出版社、1947年、94頁)によると、陳天階は臺南出身で、1947年時点で46歳とされているから、生年は1901~1902年ぐらいであろうか。東京へ留学し、中央大学法学部を卒業した(『臺灣民報』1927年4月3日付第4面の記事「東京臺灣青年會畢業生送別春季例會」に陳天階の名前が見えるので、1927年3月に卒業)。信用組合勤務、嘉南大圳嘱託を経て、臺南新報社に日本語記者として入社した。日本統治下における台湾人の日本語記者としては最初の人だったとされる。「日文採訪記者」と記されているから、おそらく社会部所属で、台湾語で取材して日本語で記事を書いていたのだろう。1934年10月に臺南新報社を辞して、臺灣新民報社に移る(「臺南新報和文部記者陳天階氏」『臺灣日日新報』1934年10月12日夕刊、第4面;「元臺南新報和文記者陳天階氏」『臺灣日日新報』1934年10月16日夕刊、第4面。同記事によると、10月13日に臺南市内の新聞記者たちが寶美楼に集まって送別会を開いたという)。最初は新民報社本社(台北)に勤務し、半年後、嘉義支局長に転任。二年後、本社編輯部に戻る。その後、『大阪経済新聞』で数年を過ごしてから、再び台湾へ戻って『臺灣日報』(『臺南新報』の後身)や『臺灣新報』(1944年に臺灣の主要紙が合併して成立)で編輯に従事した。戦後は高雄に駐在し、『臺灣新生報』(『臺灣新報』の後身)分社主任を務めた。『臺灣時人誌 第一集』に記載された1947年時点での肩書は「高雄市政府秘書」となっている。


  林冠妙「悼228受難學長 日中央大學附中學生獻千羽鶴致哀」(『民報』2017年2月27日)という記事では、日本の中央大学関係者が来台し、二二八事件受難者となった中央大学卒業生を追悼したことが報道されているが、その受難者リストに陳天階の名前も含まれている。二二八事件では高雄市政府も国民党軍から攻撃を受けているので、陳天階もおそらくその折に命を落としたのであろう。二二八事件受難者で日本留学経験を持つのは114人おり、中央大学出身者は合わせて11人で最多だという。その中には湯徳章も含まれている。
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  台湾における最古の博物館は、臺南州立教育博物館とされている。「臺南州立教育博物館の沿革」という一文に基づいてその由来をたどると、明治32年(1899年)、台南市永楽町(旧名・北勢街、現在の神農街)に開かれた臺南縣物産陳列所に求められる。同所は明治34年(1901年)9月に閉鎖されたが、明治35年(1902年)2月26日に北白川宮御遺跡地神苑(後の臺南神社、現在の臺南市美術館一館のあたり)の建物を改築して臺南博物館が開館し、物産陳列所の展示物はそこへ移された。大正11年(1922年)に臺南神社が建立されるにあたって、台南市幸町一丁目六番地の両廣會館(現在の臺灣文学館から南門路を挟んだ向かい側)に移転した。大正12年(1923年)4月、同博物館の展示品を半分に分けて、それぞれ教育博物館、商品陳列館とされたが、昭和2年(1926年)に商品陳列館は別の場所(現在の臺灣高等法院臺南分院のあたり)に建物が新築されて移転し、臺南州立教育博物館は旧両廣會館に残った(「臺南州立教育博物館の沿革」『科學の臺灣』創刊號、1933年11月、8頁)。


  同館の展示内容について上掲文では、「陳列品は自然科学に属するもの大部分を占め、特に臺灣鳥類に於ては恐く総督府博物館にも増して本館の特色を示して居る、外に風俗及玩具機械模型等を合して総数七千點に達してゐる」と記されている(同、8頁)。また、「始政二十年記念臺灣勧業共進會」(1916年)の機会に来台した鳥類学者の黒田長禮は台南博物館を見学した際の印象として「規模は小さいが、台北博物館にもないような珍しい鳥が集められ」と記している(黒田長禮『旅と鳥──鳥とともに六十年』法政大学出版局、1958年、56頁)。つまり、臺南州立教育博物館は鳥類関係の展示に特色があったようである。鳥類標本の充実に尽力したのは、同博物館の主任として運営の責任を担っていた風野鐵吉(1882-1945)である。


  風野は明治15年(1882年)12月8日、栃木県に生まれた(ただし、明治45年に島根県浜田町に転籍)。松江農林学校(おそらく島根県農林学校を指す)に学び、明治36年(1903年)に卒業した。島根県那賀郡技手を経て、明治42年(1909年)に渡臺して臺南廳・臺南州技手となる。大正13年(1924年)に退官したが、その後も臺南州立教育博物館主任(臺南州内務部教育課・勧業課嘱託)として博物館業務に従事した。とりわけ鳥類研究に専念し、日本鳥学会の学会誌『鳥』にもたびたび寄稿している(台湾総督府職員録系統;風野鐵吉「其の頃の臺南の面影」『臺南新報』1934年6月17日朝刊、10面;『自然科学と博物館』第9巻第4号、1938年4月、53頁;島洋之助編『人材・島根:県人名鑑』島根文化社、1938年、113頁)。


  1945年、臺南州立教育博物館はアメリカ軍の爆撃を受け、その収蔵品のほとんどは灰燼に帰した。黒田長禮は上掲書で「きくところによれば、太平洋戦争中、台南博物館は直撃弾を受け、風野氏は自ら長年の間、苦労して育て上げた館と運命をともにし、その生涯を閉じられたということである」(57頁)と記している。


  林文宏『台灣鳥類發現史』では風野について次のように記されている。「於1916年加入日本鳥學會,為台南博物館動物部之負責人,兢兢業業於充實該館之鳥類標本,除親自採集外亦多方收購,使得1939年時該館的鳥類標本逾250種,成績可觀。多次為文報導該館所得之稀有鳥類標本記錄,增加許多台灣新記錄,是日人時期後葉對台灣鳥類發現史貢獻最卓著者。曾負責創辦阿里山高山博物館,於達邦發現林鵰,為台灣留鳥的發現史劃下完美句點」(林文宏,《台灣鳥類發現史》,台北:玉山社,頁50)。私自身は鳥類のことは全く分からないのだが、台湾での鳥類発見史における風野の貢献が高く評価されており、とりわけ林鵰の発見が重要とされている。林鵰は日本語で「カザノワシ(風野鷲)」という。


  台南にある私立の博物館「奇美博物館」を創立した実業家の許文龍(1928-2023)は幼い頃、この臺南州立教育博物館に通いつめていたという(「奇美博物館 創館故事」)。奇美博物館は美術・楽器・武器の展示で知られているが、自然史展示も充実している。風野がまいた種が許文龍の心の中で育ち、新たな博物館として開花したというのも一つの機縁であろう。
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  釈星雲(星雲法師・大師、俗名:李國深、1927~2023)が2月5日の午後に亡くなられた(仏教的には「圓寂」と表現すべきか)。享年97というご高齢であった。星雲法師が開いた「佛光山」は現代台湾における四大仏教教団(他に證嚴法師の「慈濟」、聖嚴法師の「法鼓山」、惟覺法師の「中台山」)の一つに数えられ、その事業規模は極めて大きく、「国際佛光會」を組織して海外展開を積極的に進めたほか、教育・文化・慈善活動などの公益事業にも力を入れ、傘下には五つの大学(台湾の佛光大学・南華大学、アメリカの西来大学、オーストラリアの南天大学、フィリピンの光明大学)も持つ。その社会的影響力の大きさから、台湾各メディアは星雲法師の圓寂をただちに速報で流した。なお、佛光山は企業経営をモデルとして高度に組織化が進められているので、星雲がいなくなったからといって教団が揺らぐことはないと見られる。


  星雲が開山となった「佛光山」は、釈太虚(1890~1947)以来の「人間仏教」と呼ばれる近代中国新仏教の潮流の中で位置づけられる。「人間」という語彙は日本語と中国語とで語感が異なり、ここでは「社会性」というニュアンスを帯びる。従って、中国語で「人間仏教」と言う場合は、旧来の仏教における出家者中心の脱世俗性・停滞性の克服を図り、積極的に一般社会の中へ入り込んで働き掛けようとする志向を持つ仏教運動ということになる。星雲自身は次のように語っている。


「過去佛教給人的印象是山林的佛教、寺院的佛教、出家人的佛教、老人的佛教、經懺的佛教、消極的佛教、出世的佛教……,今後我們要從山林走上都市,從寺廟推動到家庭,從僧侶擴大到信眾,以出世的思想,做入世的事業,這是人間佛教的精神,也是佛陀的本懷。」(高希均、王力行總策畫《星雲大師與佛光山弟子們》、台北:遠見天下文化、2020年、30-33頁)


  社会性を志向する「人間仏教」は、旧来型の消極的な殻から外に出て、信徒数を拡大し、教団を組織化し、新たな事業を起し、仏教的理念に基づいて社会の改良を図ろうとする。他方で、星雲は政財界の著名人との交流も深く、国民党の党務顧問・中央常務委員・中央評議委員を務めたことから分かるように藍系の政治色を持つ。後述するように両岸交流にも積極的であったため、緑系には警戒感を持つ人もおり、「政治和尚」と揶揄されることもあった。彼の回想を読むと、陳水扁や余陳月瑛(元高雄県長)など緑系の政治家の名前を出して藍緑の別は関係ないと自ら強調してはいるが、言及されているのは圧倒的多数がやはり国民党関係者である。


  星雲は外省人であり、1927年、江蘇省の貧しい家庭に生まれた。学校へ行く機会はなかったので独学せざるを得ず、少年時代に出家した。初めて読んで最初に影響を受けたのは岳飛の伝記であり、「精忠報國」の四文字が深く印象に残ったという。少年時代に独学ながらも学問を志した時のことを次のように回想している。


「有一次在路邊,見到一本不知道是誰丟棄的《精忠岳傳》小書,彩色的封面,畫著岳飛跪在地上,他的母親在他背上刺了四個子「精忠報國」。這四字,好像觸動了我的心弦,我覺得做人應當如是。後來,我把「精忠報國」的理念用於生活,忠於工作、忠於承諾、忠於責任、忠於信仰。現在回想起來,《精忠岳傳》就是當初第一本對我啟蒙的書籍了。」(星雲大師《啟動斜桿人生:星雲大師的自學之道》、全新修訂版,台北:臺灣商務印書館,2021年、17頁)
「少年的我,也可以說藉由這些中國古典小說,如《岳傳》、《荊軻傳》、《三國演義》、《七俠五義》,及歷代高僧傳記、歷史典籍等,培養了我許多觀念。歷代多少的英雄好漢,經歷艱難困苦,無形中都激勵我要立志、要奮發向上。」(同上、頁164)


  英雄の物語を読みながら彼の胸に刻み付けられた「精忠報國」という言葉から、主に二種類の心性が見て取れるだろう。第一に、志を立てて艱難を克服する勇気と向上心。第二に、「報國」は素直に読めば愛国主義だが、より広く社会のためにと拡大解釈できるだろうか。このように自らの向上と国家社会の問題とを結びつける心性は明治期の日本人に見られたのと同類のもののようにも思われる。


  いずれにせよ、星雲が素朴な意味で愛国主義者・中華民族主義者であったのは確かである。例えば、次のように語っている。


「我們本山認同中國的歷史,在任何的情況下,我們都是中國人,當然,佛光弟子也有來自其他的國家,我們也尊重不同國家的人,大家可以互相移民,但是不要彼此敵對,要友善、友愛對方。什麼制度都能改變,歷史文化、民族血統不能改變。」(《星雲大師與佛光山弟子們》、34-35頁)


  星雲は自らの「中国人」アイデンティティーを率直に語っている。佛光山は台湾から外に向けた発信力を強化していくが、とりわけ力を入れていたのは両岸交流である。他方で、上記の引用個所から分かるように、教団内には外国人も含まれており、他者を尊重すべき点も彼は強調している。星雲は教団の国際展開にあたって土着化を重視し、言語の習得、相手文化の理解、現地人住職の育成といった方針を示していた。もちろん台湾での布教に当っても閩南語や客家語を排斥することはなかった。「中国人」として両岸統一を祈念するナショナリズムと、仏教教団の国際展開における土着化・多元化とが彼の脳裏の中でどのように位置づけられていたのかは興味がひかれるところである。


  愛国主義者としての星雲は、若き日の抗日戦争を経て、国共内戦では戦傷者の看護にあたる「僧侶救護隊」に参加した。国民党の敗色が濃くなると、1949年、救護隊は孫立人の計らいで台湾へ渡り、その中に星雲の姿もあった。ただし、台湾到着後、救護隊はバラバラになってしまったので、彼は転々と流浪した後、中壢(桃園県)圓光寺の妙果和尚の世話になった(なお、妙果和尚の母語は客家語であり、国語=中国語は分からない。星雲も客家語は分からなかったが、何となくコミュニケーションはできたという)。


  当時の台湾では白色テロが吹き荒れていた。大陸から逃れてきた貧乏僧侶たちにも疑惑の目が向けられ、星雲も短期間ながら逮捕されたことがあるという。さらに問題となったのは、彼は台湾の入境証を持っておらず、戸籍登録ができなかったことである。そこで、台湾省参議員で警民協会会長だった呉鴻麟が保証人になってくれた。呉鴻麟は呉伯雄(後に台北市長・内政部長・国民党主席を歴任)の父親であり、この縁から呉一族との家族ぐるみの付き合いが始まる。呉伯雄は後に國際佛光會中華總會總會長も務めた。星雲の交友関係には他にも李登輝、郝柏村、陳履安など国民党関係者が目立つ。


  星雲は1953年春から宜蘭雷音寺の住職となり、その頃について次のように語っている。
「初到宜蘭時,我除了每期為《覺群》與《菩提樹》雜誌個寫二篇文章以外,其他大部分時間都是應邀到臺中、雲林、虎尾、嘉義等地的城隍廟、媽祖宮布教。後來慢慢的,我透過成立國語補習班、文藝寫作班、青年團、組織佛教歌詠隊等方式,接引了一批有理念、有熱情的年輕人到雷音寺學佛」(《啟動斜桿人生:星雲大師的自學之道》、54頁)。


  ここで二つの点に私は興味を持った。第一に、当初は「城隍廟、媽祖宮」で仏教の説法をしていたこと。仏教と民間信仰とが混淆している社会状況の中から信徒を拾い上げようとしていたと言える。第二に、「國語補習班」で中国語を教えながら布教を図ったこと。これは、日本統治時代初期に来台した日本仏教各宗派が「国語=日本語学校」を設立したのと同じである。布教活動は必ず言語的コミュニケーションの問題に行きつくわけで、似たような行動パターンが見られるのはおかしいことではない。


  1967年、高雄県大樹郷に土地を購入して「佛光山」を創設。1989年3月にアメリカの組織「國際佛教促進會弘法探親團」の一員として戦後初めて北京へ行った。その後、許家屯(新華社香港分社長、1990年3月にアメリカへ逃亡して共産党除名)が訪ねてきたことから、彼との関係を疑われて中共側のブラックリストに載せられてしまったが、1993年になって探親を許され、ようやく南京で老母に再会した(「我與大陸各階層的領導人們」,頁38-48)。こうして両岸交流の機会を掴んだ一方、1991年にはアメリカで西来大学を設立し、1992年には「国際佛光會」が成立した。1993年には宜蘭に佛光大学を創設した。


  私が星雲と佛光山について関心を持っているのは次の二点である。第一に、日本との関係についてである。彼は仏教の学術研究では日本が先進国であるという認識を持っており、台湾へ来てから間もない1951年には日本語文法を学び始め、後に森下大圓『観世音菩薩普門品講話』を自ら中国語訳した。本当は彼自身が日本へ留学したかったが、信徒たちから引き止められたのでやむを得ず断念した。その代わり、多くの弟子を日本留学に派遣し、彼らを通して日本の仏教学者と関係を築き、台湾での講演に招聘している。本人も留学はかなわなかったにせよ、1963年以降、しばしば訪日している。1974年から星雲は「中日佛教關係促進會」会長となり、曹洞宗の丹羽廉芳が会長となった「日華佛教關係促進會」をカウンターパートとして交流を深めたという。


  佛光山の対日交流について、弟子の一人である滿潤法師(佛光山法水寺住持)は次のように語っている。

「大師跟日本佛教界,早年就有往來,他還擔任過中國佛教會赴日本訪問團的團長,他了解日本佛教的學術研究,大概比全世界的水準要超前五十年,那時日本就編有《大藏經》。但同時他也觀察到,日本人結婚到教堂,往生才找佛教,佛教與人們日常生活還是距離遙遠,人間佛教應該要去日本。到日本弘法,當然要克服語言問題,也需要更深入了解日本文化,所以第一步大師是派弟子到日本留學,大概從五十年前開始,大師就陸續送慈惠、慈怡、慈莊、慈容法師到日本深造,一方面結識日本的佛教學者、社會人士,一方面也培養未來需要的師資。所以佛光山跟日本的往來,應該是那個時候就開始了。但後來因為政府跟日本斷交,中間就停了一段時間。」
「直到一九九一年,大師在東京的信徒西原佑一,他是台灣人,到日本留學後就長住規劃日本,他在美國去聽了師父的一場演講,覺得日本需要人間佛教,就很積極的表示,希望在東京能夠有佛光山道場。在他努力奔走下,先成立了「東京佛光協會」,然後準備籌建東京佛光山。」(《星雲大師與佛光山弟子們》、282-283頁)


  星雲は日本における仏教研究の水準の高さを認めつつも、他方で日本社会では一般人の生活において仏教が疎遠になっている状況を見て、「人間仏教」を広める余地があると判断した。1972年の日華断交で交流事業は中断を余儀なくされたが、西原佑一という日本に帰化した台湾人が熱心に活動して、「東京佛光協會」が成立した。1993年に東京佛光山が成立し、その後、群馬県に法水寺が創立されて、これが日本の本山となった。


  星雲が日本側との交流について書き記した文章から一部を以下に抜粋しておく(「我與日本佛教的友誼」、蔡孟樺主編,《星雲大師全集 第219冊 第六類【傳記】14 百年佛緣9 道場篇①》、高雄:佛光出版社、2017年)。

「先是一九六三年,我代表中國佛教會到日本訪問,承蒙全日本佛教會派遣國際部長柳了堅、組織部岩本昭典先生全權負責,接待我們訪問日本所有佛教宗派的大本山,讓我認識了東本願寺的大谷光暢、西本願寺的大谷光照、高野山的高峰秀海、臨濟宗妙心寺的古川大航、臨濟宗大德寺的小田雪窗、曹洞宗總持寺的岩本俊智、金剛秀一和丹羽廉芳,東大寺的狹川明俊、四天王寺的出口常順等許多管長級的佛教人士。」

「除了這些諸山大德之外,和我們友好的旅日華僧,就屬東京的清度和神戶的仁光兩位法師了。清度法師是東北人,一口標準的日本話,個子很高、很莊嚴,一路上對我們都很照顧。仁光法師是神戶關帝廟的住持,曾經送我們《鐵眼大藏經》,後來也交往多年,是一位很有德的仁者。他在日本雖沒有什麼事業,但是人在日本,心在中國,這在當時是很難得的。」

「自由活動的時候,日本學者塚本善隆先生感念我是從中國到台灣的出家人,特地請仁光法師陪同,我們三個人就在京都一個大飯店裡,吃了一桌日本人做的中國料理,相當豐盛。在日本,塚本善隆教授是研究中國佛教的權威,也是京都大學人文科學研究所所長、京都國立博物館館長,京都千年古剎清涼寺的住持。後來我們佛光山的慈惠法師赴日留學,還曾經親近他學習,可以說是稀有難得的因緣。」

「一九六四年,我在高雄建設壽山寺,舉行落成典禮的時候,日治時代駐台灣負責傳教的布教師東海宜誠,也來參加我們的典禮。他以一口流利的台灣話致詞,在當時,很能引起台灣人對日本人的好感。」

「由於早期和日本佛教界的一些友好因緣,戰後不少的新興宗教,我也樂於和他們來往。最初是「創價學會」,我們對這個新興的教派寄望很高,後來發覺他們和佛教漸行漸遠,慢慢轉而從政去了,所以創價學會沒有成立佛教會,而是成立了「公明黨」,成為日本的政黨之一。由此也可以看到,佛教太熱衷政治,會冷卻一切智慧的發展。現在的創價學會裡,佛教所占的分量也不知道剩下多少了。」

「還有立正佼成會,除了早期有個「青年之船」和我們交往,幾年後,他們要召開世界宗教大會,主動向我們表達希望在佛光山舉行的意願。佛光山「破船多攬載」(揚州歇後語),但也不計較,所以二〇〇六年三月二十六日,「國際自由宗教聯盟第三十二屆世界大會」就在佛光山舉行了。」

「此外,「靈友會」、「生長之家」都是我在訪日期間參觀拜訪過的新興教團;還有橫濱的孝道山,也和我們有過交流。孝道山的創始人岡野正道伉儷,太太能幹,先生老實,其實教團主要還是太太在經營。他們曾在橫濱舉辦過花車遊行,不亞於美國洛杉磯的玫瑰花車遊行,也不亞於我們台灣過去國慶花車遊行的盛況,一場盛會,總有數百萬人參加。」

「我對於這些新興的教團,也曾寄予佛教未來的希望,但是日本傳統佛教界警告我,要我少和他們接觸,我想,這大概就是佛教裡,傳統不容易接受新思潮,不求改變、不容易見人好的心態吧。我為了避免被他們認為佛光山參與新興教團的活動,後來就沒有和他們做進一步的交往了。」


  以上を見ると、日本仏教各宗派のほか、創価学会、立正佼成会、霊友会、生長の家などの新興宗教団体とも分け隔てなく交流していたことが分かる。もう一つ目を引いたのは、1964年、高雄の寿山寺の落成式典を行なった際、日本時代に当寺に駐箚していた東海宜誠も招待していたことである。東海は流暢な台湾語で挨拶して台湾人から好感を持たれていたと星雲は記している。東海は臨済宗妙心寺派の布教師として、後述する旧斎教系の吸収を成功させた人物であり、以前にこちらのエントリー「臨済宗妙心寺派布教師・東海宜誠についてメモ」に記したことがある。


  こうした星雲法師及び佛光山と日本仏教側との交流において、どのような日台間の人脈がパイプとなったのか? そして、宗教活動以外の政治・社会・文化的交流において佛光山はどのような役割を果たしたのか?というのが私の第一の関心である。


  第二の関心は、佛光山と台湾在地仏教勢力との関係についてである。台湾の仏教寺院はおおまかに言って、伝統的な在地の小規模な寺院と、佛光山のような外省人主導の巨大教団系統とに大別できる。台湾在地仏教勢力として私が関心を持っているのは、「斎教」である。斎教は仏教・儒教・道教的民間信仰が混淆した諸教派に淵源を持つ。そのうち龍華・金幢・先天の三派が清代に台湾へ流入し、日本時代になるとこの三派はまとめて「斎教」と総称された。そして、日本側から「在家仏教」とみなされ、植民地統治期に来台した日本仏教各宗派に取り込まれた。戦後、日本仏教が台湾から撤退すると、残された旧斎教系の台湾人信徒はどうしたのか? 戦後に来台した「一貫道」は斎教と同じ淵源を持つので、その類似性から旧斎教系の信徒の一部は一貫道に吸収されたとする見解もある(宋光宇『天道鉤沈:一貫道調査報告』、台北:元祐出版社、1984年)。私がもう一つの可能性として想定しているのは、旧斎教系の信徒の一部は、佛光山のような外省人系巨大仏教教団にも取り込まれたのではないか?ということである。


  日本時代における斎教の特徴は、第一に素食(仏教的ベジタリアン)、第二に出家者ではなく、在家信徒が中心になった(それゆえ「在家仏教」と呼ばれた)、第三に女性信徒が多かったという点に求められる。ところで、星雲の思想を弟子の釈満義が解説した『星雲大師の人間仏教』に記された次の一節が私の目を引いた。


「佛光山僧団にありましては、独身の在家者たる「師姑」・「教士」もともに出家者たる比丘・比丘尼と同等の権益を享受でき、宗務委員会にあっては定員が保障されているのみならず、さまざまな事業を発展させるうえでも、同様に主管者となることが認められております。」
「とりわけ、師姑の活躍を提唱されたという点は、大師の仏教史上における一大貢献でありましょう。大師は、台湾仏教が出家者の指導者を有せず、金幢派・興田派・龍華派といったいわゆる斎教の聖職者(斎姑)によって主導されてきた歴史に照らし、佛光山によって台湾仏教の新たな風貌が描き出されたとはいえ、在家者の仏教に対する貢献が決して見落とせないことをよく認識されていました。だからこそ、「師姑」は佛光山にあって、従来ずっとその歴史的な地位を保持しているのであります。」(釈満義『星雲大師の人間仏教』、野川博之訳、山喜房佛書林、2007年、322頁)


  ここでは、台湾仏教における「斎教」の存在に言及したうえで、在家信徒と女性聖職者(斎姑→師姑)の重要性に注目している(仏教なのだから素食にはわざわざ言及する必要はない)。少なくとも、星雲が台湾における旧斎教系の人々と接触して、その考え方を取り入れていたことが分かる。例えば、星雲は他の文献でも、台中の斎堂(斎教の廟堂)・慎齋堂の堂主であった女性・張月珠(德熙法師)との交流について思い出を記している(『星雲大師全集 第225冊 第六類【傳記】20 參學瑣憶1 宗教人士』)。


  それでは、佛光山の信徒にどれだけ旧斎教系の人がいたのか? 他の巨大教団(慈濟、法鼓山、中台山)ではどうだったのか? そうしたあたりを調査して、旧斎教系と戦後仏教との連続性を検証してみたいというのも将来的な課題の一つである。これは視点を換えて考えると、台湾における旧斎教系信徒の動向を主軸として日本仏教・中国仏教との関わり方を検証したいということで、東アジア近代史における仏教の動態を台湾を中心に考えてみるという問題意識につながる。
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  戦後台湾における知日派の系譜というテーマに関心があって、いずれ関連する論文も書きたいと考えている(博論も進んでいないのに別のテーマで調査をしているというのも効率が悪いが、将来的な研究の種を播いておくという意味で)。一言で戦後台湾における「知日派」と言っても、その内実は複雑で、大雑把に言うと二つのタイプに分けられる。第一に、植民地統治時代の本省人知識エリート。第二に、戦後、国民党と共に来台した外省人の日本留学経験者。日本側との人脈や対日認識のあり方について双方が何らかの形で影響し合ったのではないかと思われるが、その具体的状況を分析し、現在の台湾における対日認識にどのような影響がもたらしたのかを検討したいというのがその趣旨である。


  ただ、戦後の国民党政権下では、外省人系の日本留学経験者の対日認識が主流となり、本省人系知識人がそれに異を唱えることはできなかったであろう。「外省人系の日本留学経験者」とはすなわち、日本留学経験を持つ「中国人」のうち1945年以降になって来台した人々である。当時の中国人留学生の動機は、新国家建設に役立つ知識や技術を習得したいが、西洋は遠くて費用がかかるので、近場の日本を選んだという点にある。歴史や文化に関心を持つ留学生でも、近代化要因の探求や日中交流史が主たる対象となった。つまり、「中国」本位で日本を理解するというスタンスであって、日本の歴史・文化・社会そのものの内在的理解を目指す研究は、もう少し後の世代の登場を待たないといけない。戦後の国民党政権においてもこうした対日認識が顕著であり、冷戦という戦後の時代環境のもと、日本を如何に自陣営へと引き付けるかという政治工作の観点から日本に関する知識も動員された。従って、戦後台湾における「知日派」の主流には対日工作という任務が与えられた(例えば、以前にこちらのエントリーに書いた陳固亭もそうしたタイプである。)。


  先日、邱永漢を研究されている和泉司先生がFBで、1972年に台湾へ戻った邱永漢の写真を掲示された。空港への出迎え者の中に正体不明の人物がおり、私も気になって調べたところ、方治(1895~1989)という人物だと分かった。「中國大陸災胞救濟總會秘書長」という肩書を持っている。初めて見る名前で気になり、彼の自伝『我生之旅』(台北:東大圖書、1986年)を図書館で早速借り出して目を通した。


  方治の経歴について、同書に附された大事紀要から下に抜き書きする(頁297-298)。褒賞の部分は省略した。


方治:民國前十七年十一月二十三日出生 中華民國安徽省桐城縣人
一、學歷:
民國八年(大正八年)東渡日本留學
民國十年考入東京高等師範(特別預科一年本科四年共五年)
民國十四年(大正十四年)畢業在高等師範升格之文理科大學研究二年
民國十六年冬回國
二、經歷:
中華民國國民革命軍獨立第四師政治部主任(北伐時期)
福建省黨部委員兼宣傳部長
安徽省黨部委員
青島市黨部兼宣傳部長
南京市黨部委員
中國國民黨中央委員會執行委員
中國國民黨中央委員會宣傳部副部長代理部長
安徽省政府委員兼教育廳長
國民政府教育部訓育委員會主任委員
重慶市黨部主任委員
上海市黨部主任委員
民國三十八年任福建省政府代理主席
三、現任:
中國國民黨中央評議委員
總統府國策顧問
國民大會代表、國民大會主席團主席
中國大陸災胞救濟總會副理事長(民國三十九年三月奉先總統 蔣公之命為救總創始人之一,初任總幹事,後改總幹事為秘書長,後任副理事長)
中琉文化經濟協會理事長(民國四十七年奉先總統 蔣公之命創設,連任理事長迄今)


  方治は若い頃、日本に九年間留学しており、日本語や日本事情には精通していた。彼の自伝によると、日本留学帰りの知人から官費留学できると勧められて1919年に東京へ行ったが、最初は受験に失敗して一年間浪人。翌年、東京高等師範学校に入学。在学中に同校は東京文理科大学へと昇格。卒業後はさらに「研究班」(大学院を指すのだろう)で二年間学び、1927年の冬に帰国した。なお、ウィキペディア(中国語、英語)では「帝国大学」卒業とされているが、自伝にそうした記述はなく、根拠が不明である。あるいは、当時の日本の学制をよく知らない人が「東京文理科大学」を「東京帝国大学文科大学/理科大学」と誤認して書いたのかもしれない。


  方治は日本留学の直前に中国国民党に入党しており、東京留学中は反共主義の立場から国民党のアクティブな党員として活動していたようである。1927年、国民党の北伐にあたり、革命軍總政治部の章伯鈞から連絡を受けて帰国を決めた。中国へ戻ってからは、国民党中央宣伝部や教育関係部門に従事する。抗日戦争が始まると、東北地方で政治工作をした後、重慶へ行った。国共内戦で国民党の敗色が濃くなり、彼は1949年5月25日に台湾へ移った。同年9月には福建省政府主席となった湯恩伯を補佐するため、命を受けて1949年9月に厦門で職務に就いた。


  1949年、中華民国の駐日軍事代表を務めていた朱世明が共産党に通じているという疑惑があり、方治はその調査のため東京へ派遣された。留学生活以来、22年ぶりの東京で、感慨深かった様子がうかがわれるが、この時は任務を終えるとすぐに台湾へ戻った。


  1950年には蒋介石の肝いりで「中國大陸災胞救濟總會」が成立し、方治が総幹事(後に秘書長、副理事長)となった。これ以降、共産党政権統治下の中国から国外へ流出した難民問題への対処が方治の主要な任務となる。蒋介石の許可を得て1952年7月27日から香港を訪問して難民救済活動にあたり、とりわけ愛国精神を持つ志願者を募って1953年2月4日から金門島へ送り出した(頁100)。方治の難民救済活動は反共工作と連動していた様子が分かる。朝鮮戦争が勃発すると、中共軍捕虜慰問のため、1953年8月26日に台北を出発して鹿児島の米軍基地経由で韓国へ飛び、同年9月24日に日本経由で台北へ戻った(101-107頁)。1957年には国連総会へ中国代表団顧問として出席し、難民問題について議論(頁116)。さらに、中国から流出した難民問題で東南アジア各国(タイ、ミャンマー、ヴェトナム)を歴訪し、華僑とも接触している。


  方治の主要な任務は難民問題(反共工作と連動)であったが、さらに沖縄との交流事業も任される。1958年2月、蒋介石が方治に中琉文化経済協会の組織を命ずる意向があると聞かされ、同年3月10日に同会が正式に発足、方治が理事長となった。その際の事情について、自伝で次のように記している。


「蔣公深知日本雖屬短時亡國(遭受共管為時僅六年),未來仍將恢復獨立。對琉球地區,日本政府難以忘懷,勢必再作佔有企圖。惟琉球位於臺灣東北,相距咫尺,由臺北乘機到琉球那霸,不過四十分鐘,而與那國島與臺灣宜蘭可以隔海相望,漁船僅二、三小時即可達到,且日共、中共、臺獨互相勾結,以琉球為對臺活動之跳板,自屬意料中事,吾人又不能配備軍隊以供防範之需,則其地等於不設防之真空區域矣。以此必須趁美國託管之際,設立民間機構,以國民外交方式,加強雙方聯繫,建立親善友好淵源,故組織中琉文經協會之主張,實乃計之得者。」(頁136-137)

「當前吾人以臺灣為光復大陸基地,更希望以琉球為我東北安全屏障,兼以贊助其繁榮發展。組織中琉協會,實乃當務之急。因以個人在琉觀察所得:第一要爭取琉球社會工商界四大金剛之向心力,即國場組之國場幸太郎,大扇會之大城鎌吉,琉展會之宮城仁四郎,啤酒大王之具志堅宗精。第二要爭取大眾傳播之報社電視及琉球大學、沖繩大學、國際大學等文教人士對華之友好。第三要大量交換中琉留學青年,培植下一代親善種子。第四要注重琉球政治首長之聯絡,增進彼此間友誼。第五要設立琉球華僑總會,團結在琉二千一百餘名僑胞,就地籠絡琉方人士,建立友好情感。以上五點,編擬計畫,以作中琉協會工作之指針,經呈報中央及政府核准後,並於民國四十七年三月十日正式成立此協會,本人被推為理事長,又多一責任矣。」(頁137-138)

「雖然琉球部分愛國有志之士,會組織琉球獨立運動委員會,奔走呼號,抗議反對,但不敵琉球左傾份子深受日本共產黨及左派人等慫恿利用,盲目的、忘本的,高呼返回祖國日本懷抱,反對獨立,釀成慘局。」(頁138)

「琉球自遭遇日本此種奴視行為之後,身為左派人員,亦有大大深呼高呼「復歸」之謬誤,其主張獨立者,痛心疾首,更無論矣。幸我中華民國政府於日美片面協定,違背國際會議決議,對琉球復歸日本,正式聲明不予承認,道義主張,琉球各界無不感激,親華者眾,職是之故耳。」(頁139)


  第一に、蒋介石は安全保障の観点で沖縄との交流事業を位置づけており、方治はその意向を受けて沖縄工作に取り組んでいた。「日共、中共、臺獨互相勾結,以琉球為對臺活動之跳板」という記述からは、日本共産党・中国共産党・台湾独立派を一体のものとみなし、彼らが沖縄を踏み台として台湾工作を進めることへの警戒感が示されている。そこで、沖縄がアメリカ統治下にある間に民間交流の方式で沖縄の人々の気持ちを繋ぎとめるのが目的とされていた。


  第二に、沖縄工作の具体的目標として、①沖縄財界四天王(建築業者・國場組の國場幸太郎、建築業者・大扇会の大城鎌吉、製糖業・セメントの宮城仁四郎、オリオン・ビールの具志堅宗精)、②メディアと大学(琉球大学、沖縄大学、沖縄国際大学)関係者、③交換留学、④琉球政界、⑤在沖縄華僑、以上五項目を挙げている。政財界とマスメディアや文教関係者をおさえた上で、交換留学生によって将来の種を播き、華僑を使って側面支援させるという構図が見て取れる。


  第三に、方治の沖縄工作の主眼は琉球独立にあり、「琉球左傾分子」に対しては共産党や左派から唆されて日本復帰を目指しているとして批判している。そして、中華民国が琉球の日本復帰に反対したのは道義によるとしている。つまり、方治の沖縄認識においては、政財界─琉球独立派─親中華民国派/左傾分子─日本復帰派─反中華民国派(中共派)という構図になっている。


  方治にとって沖縄交流事業は難民工作と並ぶライフワークとなり、自伝では「第二の故郷」とまで記している。生前墓を沖縄に用意するほどの熱の入れ方であった。沖縄側からもそうした気持ちに応える形で銅像が建てられ、「琉球之友」の扁額が贈られた。その扁額には稲嶺一郎、西銘順治、國場幸昌、國場幸太郎、宮城仁四郎、大城鎌吉、山里永吉、有村喬、尚詮、竹内和三郎、仲田睦男、増茂昌夫などの署名が入れられており、彼の沖縄人脈の一端がうかがわれる。


  方治と日本との関わりでもう一つ目を引くのは、日本の右派系人脈とのつながりである。彼は日本に留学していた頃から安岡正篤と面識があったという(227頁)。陳立夫から頼まれてその著作『四書道貫』の日本語訳者を探した際、東京にいた張棟材という人物に紹介状を持たせて安岡を訪ねさせ、その門人の池田篤紀が推薦された。同書は張と池田の共同作業で翻訳が進められ、安岡からは序文をもらったという。なお、張棟材には『野坂參三與毛共:對日共與毛共結合史實之剖視』(中華民国国際関係研究所、1969年10月)という著作がある。


  方治は公的任務の必要から世界中を飛び回る生涯を送り、それが自伝の『我生之旅』というタイトルに比喩的に表わされているようにも思われる。彼の戦後における主要任務は中国から流出した難民問題への対処と沖縄交流事業の二つであった。いずれも冷戦体制下における安全保障の観点から蒋介石の意向に基づいて取り組まれた活動であり、反共工作と連動していた(方治の情勢認識では台独と左派は結び付けられており、邱永漢の「国府帰順」も反共工作の一環であったと考えられる)。


  自伝では沖縄関係の人脈は詳しく記されている一方で、その他の日本関係の人脈については、安岡正篤関係を除くとあまり出てこない。例えば、『四書道貫』日本語訳出版記念祝賀会に出席したことは記されているので、東京を訪れる機会はそれなりにあったはずだが、その折にどんな人物と会ったのか、詳細が書かれておらず、沖縄関係と比べて濃淡が際立つ。政治工作の裏面に関わるから敢えて記述しなかったのだろうか? その辺りが気になる。自伝に書かれていない日本関係の人脈については別の資料を使って調査する必要がある。


  例えば、こちらのウィキペディアの記事「Anna Sui」(英語)によると、方治はファッション業界で有名なAnna Sui(蕭志美/アナ・スイ)の外祖父にあたるという。そして、彼女の外祖母、つまり方治の夫人はMasue Ueki(植木?)という日本人だという(中国名は方易之)。こうした自身の家族背景について自伝には一切書かれていない。


  方治の活動履歴から見ると、第一に国民党への忠誠心、第二に若き日の留学時代に身に付けた日本語と日本事情への理解が蒋介石から見込まれて、対日(琉球)工作に起用されたと考えられる。その点で、彼もまた戦後台湾における「知日派」主流(「外省人系の日本留学経験者」)の典型例と言えるだろう。
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  必要があって戦後台湾メディア史について調べていた。戦後台湾におけるメディア研究の総本山は国立政治大学新聞学科及び同新聞研究所である。戦後における初代同学科主任兼所長となった曾虛白(1895~1994)は戦前から活躍していたベテランのジャーナリストだが、同時に三民主義イデオロギーに基づいて国民党によるメディア統制を正当化する論陣を張っていた人物でもある。政治大学とはそもそも国民党の中央政治学校に由来を持つので当然と言えば当然だが、政治大学新聞学科の教授陣は海外留学経験者を集めて海外のメディア理論の吸収に努める一方、むしろそうしたメディアに関わる学知を党国体制維持のための道具に転化しようとしていた点に発足当初(台湾における政治大学の「復校」は1954年)の特色があったと言えるだろう。


  政治大学新聞学科は当初より海外から知名の学者を招聘しており、その中に日本の小野秀雄(1885~1977、初代東京大学新聞研究所長、初代日本新聞学会長)と小山栄三(1899~1983、立教大学教授、国立世論調査所長、日本広報協会理事長)が含まれているのが目を引いた。小野は1959年の3~4月にかけて政治大学で新聞原論と日本新聞史、世界新聞学院(現在の世新大学)で比較新聞史の講義を行い、1963年には政治大学から名誉博士号が授与された。政治大学新聞学科の年譜では曾虛白の招聘によるとされているが、実際に仲介したのはやはり政治大学で教鞭をとっていた陳固亭(1904~1970)である。陳にとって小野は日本留学時の師匠にあたり、小山ともその頃から知り合っていたようである。


  陳固亭の履歴を通観してみると、第一に篤実な研究者(日本研究、メディア研究)、第二に行政官(考試院委員)、第三に国民党の政治工作者という三つの側面が浮かび上がる。


  陳固亭が死去した翌年に刊行された記念文集『陳固亭先生哀思錄』(1971年6月)をもとに彼の生涯をたどってみる。陳固亭は1904年、陝西省藍田県に生まれた。師範学校本科を卒業後、地方教育に従事する。(ネット上の記事ではこの頃、中国共産党に入党して藍田県での活動を指導したが、離党したという記述も見られる。)1928年、中央党務学校(国民党)に入学。同校は中央政治学校と改称されるが、ここを卒業後してから官費で日本へ留学した。留学前には薩孟武(京都帝国大学出身、戦後は台湾大学教授)から日本語の手ほどきを受けたという。


  日本留学にあたり、まず明治大学新聞科に入ったが、ここで小野秀雄の面識を得る。日本では中国国民党駐東京支部常任委員となった。陳固亭は中国革命派の刊行物に関心を持っていたが、東大の明治新聞雑誌文庫に関連史料が多数所蔵されていることを知り、東京帝国大学新聞室の研究員となった。研究テーマは「中日両国新聞歴史発展比較研究」である。研究のかたわら、雑誌「留東學報」を創刊したが、同誌に掲載した記事が警察に目をつけられ、入獄したが、幸い大使館参事の王芃生の尽力で助けられた。1937年、盧溝橋事件が勃発すると、警察の監視の目をかいくぐって中国へ帰国した。


  帰国後はまず西安師範学校長となったが、陳果夫の命により延安へ潜り込んで情報活動にも従事したという。その後、中央政治学校(後の政治大学)新聞系教授となる。1941年夏には西北地区へ派遣されて党務工作を行い、陝西省党部委員、陝西省政府社会処長となる。戦後の1946年5月、中国国民党中央委員。1947年、陝西省政府委員。1949年、国共内戦で国民党が破れると陳固亭も国民政府に従って来台した(家族も帯同したが、三男・四男・三女は中国に残った様子である)。


  1949年から大学で教鞭をとり始め、同年には『日本新憲法釈義』を刊行。1952年夏には革命実践研究所で訓練を受けた。1954年春、日本を訪問して孫文関係史料を収集。同年、森正蔵『戦後日本』を翻訳したほか、『戦後日本共産党的透視』を刊行する。1954年8月に考試院委員。1959年8月、日本航空の招聘により日本へ人事制度の視察に赴き、戻ってから『考察日本人事制度紀要』を著す。1963年7月、中国文化学院創立にあたって東方語文系が設立され、陳固亭が初代主任となり、翌年には同学院日本研究所長。1965年、亜細亜大学の招聘で日本へ行き、日本地区国父誕辰紀念會の準備に奔走し、合わせて日本の人事制度の視察も行った。この時の陳固亭歓迎会の世話人として渡邊鉄蔵(自由アジア協会理事長)、井口貞夫(元駐華大使)、宮元利直(日本中正會顧問)の三名の名前が見える。日本滞在中の12月6日には佐藤栄作首相と会食した。1970年6月3日に死去。


  陳固亭の著訳書は次の通りである(現時点で把握しているもののみ)
陳固亭『戰後日本共產黨的透視』(中日文化經濟協會研究所、1954年)
森正藏著、陳固亭譯『戰後日本』(中華文化出版事業委員會、1954年)
小野秀雄撰、陳固亭譯『各國報業簡史』(正中書局、1959年)
陳固亭『考察日本人事制度紀要』(考試院、1960年)
陳固亭『國父與亞洲』(政工幹部學校、1965年)
陳固亭『國父與日本友人』(三民主義研究所主編、幼獅書店、1965年)
陳固亭等撰『國父學術思想研究』(國父遺教研究會、1965年)
陳固亭等撰『健壽文粹』(中華民國健康長壽會編、正中書局、1966年)
陳固亭主編『日本人事制度』(考試院考銓研究發展委員會、1967年)
實藤惠秀撰、陳固亭譯『明治時代中日文化的連繫』(中華叢書編審委員會、1971年)
陳固亭『日本論叢』(中華叢書編審委員會、1971年)
陳固亭『中日韓百年大事記』(中華叢書編審委員會、1971年)
小野秀雄撰、陳固亭譯『日本新聞史』(中華叢書編審委員會、1971年)
陳固亭『國父與亞洲』(黎明文化、1980年)
(詳細不明)
『日本新憲法釈義』
『国父学術思想研究集』
『考試院的地位與職権』
『華僑志』


  陳固亭はまず篤実な学者であり、その研究領域は多岐にわたる。第一に日本研究で、その関心においては孫文を中心とした日中交流に関する研究も大きなウェイトを占める。日本訪問では孫文関係の資料収集を進め、日本での孫文生誕百周年記念大会の準備にも奔走した。第二にメディア史研究であり、革命派の東京における刊行物の調査を行ったほか、戦後は師匠にあたる小野秀雄の著作の中国語訳も行った。小野の著作において中国メディア史に関する部分は陳固亭から情報提供を受けている。第三に広義の社会科学的研究として日本の現状分析を行っており、具体的には日本の憲法や人事制度に関する著作を刊行している。


  また、彼は行政官としての姿も持つ。中国にいた頃は故郷の陝西省で行政関係の仕事に就いていたが、来台後は考試院に勤務した。人事制度の研究は職務上の要請によるものであろう。なお、孫文の息子である孫科は考試院院長であり、陳固亭の上司にあたる。


  それから、無視できないのは忠実な国民党員としての政治工作者という側面である。戦争中、彼は陳果夫の命で延安へ行き、共産党の調査を行っている。戦後、日本を視察した後には『戰後日本共產黨的透視』という著作も出しており、共産党関係の調査研究も彼の仕事の特色である。後述するように、陳固亭の日本人脈には右翼系人士も含まれており、日本での反共工作も彼の任務の一つであったと考えられる。


  陳固亭の出発点には愛国主義的な政治意識があり、それが学術・行政・政治活動のいずれにも通底している。そうした点から考えると、彼の日本研究とは、第一に国家建設に必要な海外知識の吸収(メディア論、人事制度)、第二に日中戦争という状況下では敵を正確に認識するという要請(歴史研究、現状分析)、第三に反共主義の立場による政治工作という三方面にわたるものであったと整理できる。


  彼の日本人脈もこうした彼の課題意識に連動していたと考えられる。『陳固亭先生哀思錄』で夫人の回想や弔電からうかがえる日本人との交友関係は次のように分けられる。

1.メディア論関係
・小野秀雄
・小山栄三

2.法制度関係
・津曲貞春(人事院研究部長。1954年、1959年に人事制度視察で来日時の関係)
・渡邊哲利(人事院)
・三潴信吾(憲法学者、高崎経済大学長)

3.中国史・中国問題関係
・島田正郎(明治大学法学部長)
・永井算己(信州大学教授)
・木下彪(岡山大学教授、漢学者)
・波多博(東亜同文書院出身、元上海日報社長)
・山田順造(山田純三郎の四男)

4.右翼系人士
・安岡正篤
・太田耕造(國本社、亜細亜大学学長)
・宮元利直(日本中正會顧問)
・世界救世教(大治安彦)
・日本郷友連盟(会長・有末精三、副会長・笹川良一)
・日本民主同志会(会長・松本明重、副会長・石申経秀?)
・日本伝統芸能連盟(近紀秀広?)


  『陳固亭先生哀思錄』には蔡茂豊からの弔電も掲載されている(当時は天理大学に滞在中)。蔡茂豊は東呉大学教授として戦後台湾における日本語教育の第一人者であった。中国文化学院(現在の中国文化大学)日本語学科の東京留学第一期生からの弔電もある。また、論文指導した学生の名簿も掲載されており、その中にはメディア研究の石永貴(政治大学)、日本史研究の李永熾の名前も見える。戦後台湾における日本研究、メディア研究にとって陳固亭が大きな存在であったことがうかがわれる。


  陳固亭はその経歴から見て「親日派」とは言い難いが、「知日派」としての存在感は大きかったであろう。台湾へ逃れてきた国民党政権関係者には、(それこそ蒋介石も含め)かつて日本へ留学した経験を持つ者も多く、陳固亭はそうした中においても学識面で一定の役割を果たしていた。


  他方で、当時の台湾にはまた別種の「知日派」がいる。日本統治を体験した台湾人エリートには日本で高等教育を受けた知識人も多く、彼らはほぼ例外なく日本事情を熟知していた。台湾本土派エリートの「知日派」と中国から来台した「知日派」、この二種類の来歴の異なる「知日派」が戦後の党国体制の中でどのように関わり合っていたのだろうか、というのは私がずっと気にかけている問題の一つである。


  『陳固亭先生哀思錄』に弔問・弔電等の形で名前の出ている人々の大半は外省人系と考えられるが、台湾人の著名人では次の名前が見られた。謝東閔、邱創煥、魏火曜(医師、台湾大学)、連震東、高玉樹、黃朝琴、黃啟瑞、吳三連などである。こうして並べるといわゆる半山(中国帰りの台湾人)、もしくは国民党と協調した政治家が中心で、陳固亭と台湾本土派人士との関係はあまり見えてこない。従って、1950~60年代において、陳固亭のような外省人知識エリートと本省人知識エリートとの間で日本認識に関して何らかのすり合わせが行われた形跡は、少なくとも表面的には見えてこない。


  他に、呉友仁という人が目を引いた。陳固亭が編纂に関わった『中日文化論集』(中国文化学院日本研究所・中華大典編印會、1967年)という論文集がある(陳は「孫中山先生與日本朝野友人的關係」を寄稿)。日本人から寄せられた論考の訳者の中に呉友仁(台湾省菸酒公賣局課長)という名前があり、学術論文集とこの人物の肩書とが見合わないので気になっていたのだが、弔問客の中に彼の名前もあり、陳固亭と一定の関係を有していた人物と見られる。少なくとも最近までは存命していたようで、郷里・台南の母校(協進国小)に寄付をしたことがニュースになっていた(「90歲老校友路過校門慨捐1100萬 校長:以為在作夢」自由時報、2018年3月29日)。この記事によると、呉友仁は裕福な家庭に生まれたが、戦争の混乱で学業を中断し、家も没落してしまった。菸酒公賣局に職を得たが40歳過ぎで退職して創業、色々うまくいかなかったが、日本相手の輸出工業関係の仕事を始めてようやく安定したという。協進国小は台南五条港のすぐ近くだから、旧家の出身で若い頃は好きな勉強ができた人なのかもしれない。
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