章子惠編『臺灣時人誌 第一集』(臺北市:國光出版社、1947年、94頁)によると、陳天階は臺南出身で、1947年時点で46歳とされているから、生年は1901~1902年ぐらいであろうか。東京へ留学し、中央大学法学部を卒業した(『臺灣民報』1927年4月3日付第4面の記事「東京臺灣青年會畢業生送別春季例會」に陳天階の名前が見えるので、1927年3月に卒業)。信用組合勤務、嘉南大圳嘱託を経て、臺南新報社に日本語記者として入社した。日本統治下における台湾人の日本語記者としては最初の人だったとされる。「日文採訪記者」と記されているから、おそらく社会部所属で、台湾語で取材して日本語で記事を書いていたのだろう。1934年10月に臺南新報社を辞して、臺灣新民報社に移る(「臺南新報和文部記者陳天階氏」『臺灣日日新報』1934年10月12日夕刊、第4面;「元臺南新報和文記者陳天階氏」『臺灣日日新報』1934年10月16日夕刊、第4面。同記事によると、10月13日に臺南市内の新聞記者たちが寶美楼に集まって送別会を開いたという)。最初は新民報社本社(台北)に勤務し、半年後、嘉義支局長に転任。二年後、本社編輯部に戻る。その後、『大阪経済新聞』で数年を過ごしてから、再び台湾へ戻って『臺灣日報』(『臺南新報』の後身)や『臺灣新報』(1944年に臺灣の主要紙が合併して成立)で編輯に従事した。戦後は高雄に駐在し、『臺灣新生報』(『臺灣新報』の後身)分社主任を務めた。『臺灣時人誌 第一集』に記載された1947年時点での肩書は「高雄市政府秘書」となっている。
林冠妙「悼228受難學長 日中央大學附中學生獻千羽鶴致哀」(『民報』2017年2月27日)という記事では、日本の中央大学関係者が来台し、二二八事件受難者となった中央大学卒業生を追悼したことが報道されているが、その受難者リストに陳天階の名前も含まれている。二二八事件では高雄市政府も国民党軍から攻撃を受けているので、陳天階もおそらくその折に命を落としたのであろう。二二八事件受難者で日本留学経験を持つのは114人おり、中央大学出身者は合わせて11人で最多だという。その中には湯徳章も含まれている。