私が「悲情城市」を最初に観たのはもう15年くらい前であろうか。台湾に関心を持ち始め、旅行者として時折台湾へ来ていた頃である。「悲情城市」は台湾現代史を象徴する名作とされていたから、ビデオを借り出して半ば義務的に観たような気もする。2時間半以上の長丁場なのでその後また観ることはなかったが、ずっと気になる映画であったことは確かである。


  二二八和平紀念日に合わせ、4Kデジタル・リマスター版が劇場公開されたので、この連休期間中に再びこの作品を観る機会を得た(2023年2月26日、台南・真善美戯院にて)。ポスターには「身為台灣人 一生必看的電影」と大きく書かれている。二二八事件は戦後台湾社会における様々な矛盾が凝縮された事件である。二二八犠牲者の復権要求が民主化運動の一つの源流となっており、それが現在の民主的社会の実現につながった点を考え合わせると、「必看=必見」というのもあながち誇張とは言えないだろう。


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  ただ、台湾では一部の知識人や映画ファンを除くと、侯孝賢の映画は一般的にはあまり観られていないという話も聞く。作品の良否や好き嫌い以前に、彼の映画では動きが少なくて退屈だから、ということらしい。例えば、私が侯孝賢作品では「咖啡時光」が一番好きで、江文也のこともこの映画をきっかけとして初めて知った。静かな映像美を通して、私自身がよく見知っている東京の街並みの息遣いが叙情的に浮かび上がってくるのが素晴らしいと思っていたのだが、複数の台湾人の知人から「退屈」の一言で瞬殺された。「悲情城市」も二二八事件を題材としているが、やはり激しい場面はほとんどない。あるとしてもヤクザの喧嘩や憲兵隊の山狩りシーンぐらいであり、事件そのものの描写はない。


  私が15年前に見たときは、台湾現代史を学ぶという姿勢だったので、二二八事件を描いた映画という視点で観ていた。それからだいぶ時間が経過する間に私自身の見方が変わってきたからだとも思うが、今回は事件そのものよりもむしろ、作品世界の奥行きの広がりの方が強く印象付けられた。


  台湾は南北で植生に大きな違いがあり、私は台南にすでに長く住んでいるので、九份周辺の緑に覆われた山並みや高台から海が望める風景はみずみずしく感じられる。この作品が撮影された1980年代末当時における九份近辺の風景はどのようなものだったのか、という関心も私にはあった。そうした山や海をバックとして大きく俯瞰する中で登場人物の動きを捉えるカメラ・アングルは、それ自体が物語構造の奥行きの広がりを感じさせる。同時に、冠婚葬祭、酒場の喧騒、買い物をする街並み、家族の食卓の光景、そうしたディテールの描写は、生活世界の広がりの中でストーリーが生起していることが実感される。


  それから、家族一人一人の来歴もまた、それぞれが別個のストーリーを作れるぐらいの広がりを持っている。この映画の主役となる林一族は地元ヤクザの親分格(角頭)であり、隠居した父親(李天祿)は自らを「流氓」と言う。一族で経営する料亭「小上海」のある基隆の田寮は港町の歓楽街であり、一家の支柱である長兄・林文雄は利権目当てで来台した上海ヤクザに殺される。港町の歓楽街には、日本時代には日本人ヤクザがいたであろうし、戦後は中国人黒道が来た。権力者との関係も含め、時代の転変の中で台湾地元ヤクザはどのような動きを示したのか。次兄は戦争で南方に行ったまま行方知れず。いわゆる台湾人日本兵の問題である。三男の文良はかつて上海で日本軍関係の仕事をしていたようで、漢奸として密告された。汪兆銘政権下の中国へ渡った台湾人の複雑な立場が戦後も彼の経歴に影を落としている。四男の文清(トニー・レオン)、妻になる寛美(辛淑芬)及びその兄の交友関係を通しては、台湾知識人における日本的教養と進歩派意識のあり方、それと同時に日本と中国の双方に対する複雑な感懐が垣間見える。このように、様々な現代史的モチーフが織り合わせられながら作品世界が構築されており、二二八事件の経過のみならず、それを俯瞰する形で時代的前後の脈絡に位置づける視点を持っていることが分かる。


  もう一つは、よく指摘されることだが、言語的多重性の問題。15年前に観たときはまだセリフがうまく聞き取れなかったが、今回の鑑賞にあたっては言語的多重性の描写がかなり意識されていることは実感された(今の私は標準的な中国語は聞き取れるし、台湾語も意味は分からないにせよ、その発音的特徴は聞いて分かるので、客家語、広東語、上海語など他の言葉が混じると、その異質性にはすぐ気づける)。例えば、ラジオの政府広報における中国語(国語)にもだいぶ訛りがあった。映画館で観ていて、私にとって印象的だったのは、病院で看護婦さんたちが中国語を学ぶシーンである。外省籍教員の発音自体も訛りがきつく、それを看護婦さんたちが一生懸命復唱しているのを見て、観客席の私の周囲から失笑がもれてくるのが聞こえた。当時は台湾語/日本語→中国語という「国語」化が政策として進められたが、大陸から来た外省人ですら出身地域ごとのなまりがきつかった。そうした言語的転換の困難を我々は知識として知ってはいるが、現在の台湾における一般的観客の反応として、それが滑稽な場面と捉えられるということは、つまり標準的「国語=中国語」の発音を当然とする発想が無意識のうちに浸み込んでいるのかなあ、とも思われた。


  なお、日本語の発音についても、本来なら俳優さんをさらに訓練する必要があったのだろうな、とも感じた。皇民化教育期には徹底的な日本語教育が推進されたし、高等学校や日本留学の経験がある台湾人知識人であればなおさらのこと正確な日本語を話していたはずなので、たどたどしい発音だと、観ていて居心地が悪くなってくる。まあ、言語的訓練は一朝一夕では無理だから、仕方ないのかもしれない。


  四方田犬彦『台湾の歓び』で読んだ気がするが、ある日、侯孝賢や呉念真らが酔っ払って四方田の家へ来た時、呉は侯を指して「こいつは二二八事件を知らなかったんだ」と言っていたという。戦後の情報統制で、外省人子弟はもし一般の本省人と付き合いがなければ、二二八事件について知る機会はなかった。眷村育ちの侯孝賢と朱天文が脚本を書いた(台湾語のセリフは呉念真が脚色)ということ自体が意義深い。


  前述したように、侯孝賢の映画は必ずしも台湾の一般的な人々に観られているわけではないが、メディアを通してその知名度は拡散されているため、「悲情城市」という作品タイトルは誰でも知っている。33周年の今回のリマスター版をきっかけに初めて観る若い人もいるだろう。海外ではこの映画を通して二二八事件が知られたと言っても過言ではない。二二八の持つ意味合いを内外に知らしめたという意味で、「悲情城市」は一つの「国民」の物語になっている。宣伝ポスターに見られる「身為台灣人 一生必看的電影」というキャッチコピー自体にそうした意識が表われている。