山田孝使『臺南聖廟考』(1918年/復刻版、2021年)


  台南孔廟は、その由来をたどると鄭氏政権時代に建てられ、清代・日本統治時代を経て現在に至るまで改修を繰り返しながら残った、いわばこの土地の歴史の生き証人と言える。台湾府学、つまり科挙受験生が集まる台湾の最高学府でもあったため、「全台首学」と呼ばれた。1895年、台湾は日本の植民地統治下に入り、日本の軍隊や官員が来台、台南孔廟も接収される。当初は台南民政支部職員の宿舎に充てられ、1898年からは台南第一公学校がここに置かれた。宿舎や学校として使用するにあたって一定の補修工事は施されたものの、その落魄ぶりは否めなかった。そこで1917年になって公学校は移転、改めて大規模な修築工事が実施されて翌1918年に完成する。本書『臺南聖廟考』は、この修築工事を記念して執筆された。


  本書の復刻版を製作された佐伯伸治氏よりわざわざご恵贈いただきました(ありがとうございます)。著者の山田孝使(のりよし)は、佐伯氏の縁戚にあたる方だという。山田孝使は1874年、岡山生まれ。1902年、28歳のときに来台して総督府に勤務。復刻版のあとがきを読んで初めて知ったのだが、山田家は代々、篤学の家系で、閑谷学校の関係者もいたらしい。閑谷学校にも孔廟がある。山田孝使の来歴の詳細は分からないが、儒学を介したつながりが想像される。


  清代において、台南孔廟は官廟であった。造営費は公費負担が原則で、その後、改築・補修が必要なときは地方士紳の義捐金によって賄われた。府学が孔廟に置かれたので、学官及び雑役などが日常的な管理を行ったが、こちらは孔廟そのものとは財政基盤が異なり、台湾府の戸粮房(租税部門)から公金が支給されたほか、府学に附属する学田からの収入によって支えられたという。祭祀は台湾府から公費が出されたが、それだけでは足りないので、楽局の田園(楽田)からの収入にも頼ったらしい。


  ところが、日本統治下に入ると、制度が全く異なるので、孔廟の運営は公費には頼れなくなった。1897年、当時の磯貝静蔵・台南県知事の指示により、楽局大租権地(清代台湾の土地制度は複雑なので、説明は省略)の収入で祭祀の費用を賄えるように措置が取られ、祭祀の継続が可能となった。その際、楽局の関係者は離散していたので、当時の台南で文名の高い人物を中心に董事8名が選任された。すなわち、蔡國琳(挙人)、蔡夢熊(廩生)許廷光(廩生)、商朝鳳(増生)、黃修甫(生員)、楊鵬搏(生員)、陳慶霟(生員)、陳脩五(胥吏)である。ほとんどが科挙受験資格者で、挙人は郷試の合格者、廩生・増生・生員は府学在籍経験者ということになる。なお、このうち陳脩五は科挙関連の資格を有していないが、清代台南府の胥吏として実務知識に詳しく、日本統治下に入った後も引き続き公務に従事していた(陳脩五については新田龍希「胥吏と台湾の割譲──南部台湾における田賦徴収請負機構の解体をめぐって」[『日本台湾学会報』第21号、2019年]を参照)。


  ただし、楽局大租権地の権利が確保されても、滞納者が多かったらしく、1901年から台南県学務課が管理事務を行うようになった。さらに、台湾総督府が土地の確定・買収事業を進めた際に、楽局附属の土地も買収され、交付された公債証券は学租財団によって管理された。こうして孔廟の楽局から、その本来、所有していた土地の権利は切り離されたが、祭祀・補修等の必要経費は学租財団から支出されることになったという。それでも、大規模修築工事を行うには資金が足りないし、公的施設ではないから台南庁が負担するわけにもいかない。そこで、1917年、台南庁長・枝徳二の主唱により、資金集めが行われることになった。


  本書は、孔廟の歴史的由来や祭儀の細目が整理されているほか、修築事業に関わる具体的な記録が収録されている点でも貴重な資料である。私自身は日本統治時代初期台湾の人的ネットワークに関心を持っているが、その観点からも実は面白い。修築事業の発起人や関連事務の分担者の名前が逐一記載されており、そこには日本人か台湾人かを問わず、当時の台南における有力者の名前がほぼ網羅されている。寄付金取纏者の一覧(36~44頁)には寄付金集めの責任者となった人の名前が列挙されており、大半は台南庁の役職者、各支庁長、各学校長で、台湾人の場合は各区長である。中には、台南庁長・枝徳二が他にも台南博物館長/台南庁土地整理組合長/台南庁公共埤圳組合聯合会長/台南庁防疫部長/台南慈恵院長といった複数の肩書で名前が記載されているようなケースもある。つまり、台南庁の指揮系統を通じて職域ごとに資金集めが実施されたと考えられる(中には半強制的なケースもあったかもしれない)。それとは別に、巻末附録として高額寄付者の名前が金額別に掲載されており、これは当時の台湾南部地域(屏東から嘉義まで含まれる)における有力者リストとして見ることもできる。


  個人的な関心では、修築事業関係者のリストの中に、劉瑞山、顔振聲、高再得、林茂生などキリスト教徒の名前も見られるのが気になった。長老教会は孔廟との関係をどのように考えていたのだろうか? 彼らはそれぞれ地域の有力者であったから、そうした立場的なことから名前だけ貸したのだろうか?


  中国の伝統的な統治体制においては、儒学の祭儀は官府と一体となって執り行われていた。そうした伝統は現在でも続いており、例えば、台南孔廟には歴代総統から贈られた匾額が掲げられているし、確か孔廟の祭儀では台南市長が主催者になっていたように思う。


  では、日本統治時代の台南孔廟はどうであったかと言うと、本書によれば、「台南聖廟の祭事は、固より官府の主る所なりしも、本島改図後は、諸般制度の変に由り、此廟の如きも官施の祭式なきに至れる」ので、明治30年に磯貝知事は上述した董事や本島人紳士に協議して祭事を行わせたという。「祭儀に与る者」としては、「台南に在住せる本島人にして、(一)参事区長の職に在る者、(二)旧制の文武挙人・廩生・秀才等の学芸素養を有する者、(三)学校の教職に在る者等」が挙げられている(179~180頁)。つまり、祭事の主催者はあくまでも現地台湾人有力者であった。そして、祭日前五日に「台南に在る文武官街長、学校長、文武高等官、文武判任官の主なる者、及び内地人本島人の民間有力者等に対し祭典参列案内状を発す」(181頁)とされている。


  台南孔廟修築・再興にあたっては様々な思惑が絡まっていたのだろうと想像される。孔廟が荒れ果てた状況に心を痛めた台南現地知識人には孔廟再興の要望があったであろう。日本人官員には漢学の素養の深い人々も含まれていたから、孔廟への敬意が当然あったろうし、他方で広義の「同文」イデオロギーを利用して現地知識人懐柔という意図もあったかもしれない。儒学的伝統観念からすれば官府が孔廟の祭儀に関与するのは当然であったが、他方で日本統治下では制度的に行政の関与はできなかったようである。こうした様々な思惑のベクトルがどのように絡まり合っていたのか、自分なりに整理して考えてみたい(おそらく先行研究もあるはずだが)。本書『臺南聖廟考』はそうした作業のための貴重な手引きとなる。


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