1940年、高雄・大港埔の地に浄土真宗本願寺派(西本願寺)第22世法主・大谷光瑞(1876-1948)によって別荘「逍遥園」が建てられた(着工は1939年)。戦後は国民政府が接収、軍病院関係者の宿舎にあてられ、いわゆる「眷村」となった。その後、長い年月を経る中で老朽化し、眷村建て直し政策の一環として、かつて「逍遥園」だった建物は解体の危機にさらされる。そうした中、史蹟として保存しようという運動が沸き起こり、2017年より高雄市政府は修復工事に着手、新たに公園として整備されることになった。そして2020年、逍遥園はその面目を一新して、11月1日に開園式典が行われた。この日付は80年前の1940年11月1日に逍遥園が開園したことに合わされている。



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  私は2014年3月に来台したが、その年の11月に逍遥園を見に来たことがある(こちらのエントリーに書いた)。当時、旧逍遥園の住民はすでに退去した後であったが、その崩れかかった様子は明らかに廃墟そのもので、周囲にはフェンスがめぐらされていた。2010年には高雄市歴史建築に指定され、現場にも大谷光瑞別邸という歴史的背景について簡単な説明プレートはかかっていたものの、それがなければ誰にもこの建物の歴史性は分からなかっただろう。それがこのたび、こうして新たに生まれ変わった姿を目の当たりにすることになり、非常に感慨深かった。


  開園式典では逍遥園前のスペースにパブリック・ビューイングも設営され、それなりに資金が投じられた様子である。ただ、私は来賓席に座らせてもらったのだが、来賓席は炎天下に椅子が並べられており、式典開始前、参加者はみんな日陰に避難していた。園外の一般参観者席には屋根があり、あちらの方が居心地良さそうだった。ドローンが飛んでいたので、空撮するために炎天下に座らせたのかもしれないが…。



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  式典は地元・高雄市日僑学校(日本人学校)の生徒さんによる和楽器(太鼓と横笛)演奏から始まった。続いて来賓あいさつとして、初めに加藤英次・日本台湾交流協会高雄事務所長(総領事に相当)が祝辞を述べられた。さらに李永得・文化部長、陳其邁・高雄市長がそれぞれあいさつに立たれた。次に、逍遥園修築の経緯が大型スクリーンで紹介された後、日本側関係者のビデオ・レターも映し出された。そして、陳其邁市長と加藤英次所長の二人によって記念プレートの開箱が行われ、続けてくす玉が割られた。締めくくりとして台湾人音楽家によって三味線演奏と日本語の歌が披露された後、来賓は三グループに分かれて館内を案内された。



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  来賓の面々を見ていると、高雄市長や文化部長ばかりでなく、高雄選出の立法委員(管碧玲、趙天麟、劉世芳、いずれも民進党)や高雄市議会議員など政治家の姿も目立つ。台湾ではこうした式典において政治家の姿はよく見られるが、そればかりでなく、逍遥園の保存運動においては政治家を動かしたことも成功の一因だったという背景もあるのだろう。第一に、文化部から予算がつけられた。第二に、旧逍遥園は眷村として国防部の管轄下にあったので、高雄市政府が修復工事を進めるにしても国防部と折衝する必要があり、その際に立法委員が間に立ったようである。2016年に旧逍遥園を視察した政治家の中には当時、高雄選出の立法委員だった陳其邁・現市長の姿もあった。



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  ただし、李永得文化部長にせよ、陳其邁市長にせよ、そのあいさつでは同様に次の二点を強調していた。第一に、逍遥園の保存はまず民間運動として始まった。第二に、修復工事にあたって日本から建築の専門家が招聘され、その技術指導の下で作業が進められた。つまり、文化資産の修復を機縁として日台交流が進められたのである。陳其邁市長が、「もちろん逍遥園が生まれ変わったという結果も重要だが、こうした民間運動や日台交流によってここまで進められた過程も大切である」という趣旨のことを述べられていたのが印象に残った。



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  大谷光瑞といえば中央アジア探検隊を派遣するなど海外進出に熱心だったことでも知られるが、ここ高雄の逍遥園のほか、中国やインドネシアにも別邸を所有していた。高雄では逍遥園を建てると同時に農園の開墾も行われた。ここでは南方への派遣を前提として学生が集められ(マレー語の授業もあったらしい)、熱帯性作物の試験的な栽培も進められた。光瑞は近衛文麿政権の内閣参議、台湾総督府熱帯産業調査委員会委員、大東亜建設審議会委員といった肩書を持ち、逍遥園の建設は、単に本願寺派の布教拠点にするためというだけでなく、国策としての南方進出とも密接な関わりがあったことがうかがわれる。


  大谷光瑞と逍遥園については以下の諸著作を参照されたい。
・柴田幹夫『大谷光瑞の研究──アジア広域における諸活動』(勉誠出版、2014年)「第一部第五章 大谷光瑞と台湾──「逍遙園」を中心にして」/中文版:『興亞揚佛:大谷光瑞與西本願寺的海外事業』(博揚文化、2017年)
・柴田幹夫編『台湾の日本仏教──布教・交流・近代化』(『アジア遊学222』、勉誠出版、2018年):柴田幹夫「大谷光瑞と『熱帯産業調査会』」、黄朝煌「台湾高雄『逍遥園』戦後の運命」、加藤斗規「台湾の大谷光瑞と門下生『大谷学生』」、三谷真澄「仏教徒農業のあいだ──大谷光瑞師の台湾での農業事業を中心として」、菅澤茂「西本願寺別邸『三夜荘』の研究──大谷光尊・光瑞の二代に亘る別邸」
・陳啓仁『逍遥園與大谷光瑞──二十世紀初的東亞與高雄』(玉山社、2020年)


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※会場で配布された陳啓仁『逍遥園與大谷光瑞』のオビには「高雄一百」(高雄一周年)と書かれている。「一百」の部分は高雄市制百周年を記念してデザイン化されており、ここには日本時代の高雄市の市章も組み込まれているという。



  逍遥園はMRT美麗島駅と信義國小駅の間に位置しており、台湾鉄路高雄駅からも歩いて行ける範囲内である。高雄駅も実は1939年に現在の場所へ移転して1941年から開業しており、そうした利便性も立地条件として考慮されていたのかもしれない。


  逍遥園は和洋折衷の建築様式を特色とする。淡い青緑色は当時の建築によく見られた、いわゆる国防色である。同時期に建設された高雄市役所庁舎(現在は高雄市立博物館)も同じ色をしている。


  一階の大食堂では逍遥園の来歴を示す展示が行われている。車寄せから二階へ上がると、順番に応接室、小食堂、広間、書斎、製図室、炊事場、大谷光瑞の寝室・浴室、畳敷きの座敷部屋を参観できる。1940年の開園当時に製作されたという台湾のイメージで象られた清水焼の皿(開箱式で用いられた記念プレートはこれをもとにしている)が別府市の大谷記念館から貸与され、これが二階の広間で展示されている。広間や書斎では他にも関連展示が行われている。



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※書斎や製図室の壁面を彩った青白の市松模様が鮮やかであった。


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※炊事室の洗い場とコンロは機能的に作られており、隣の小食堂との間には料理を送り出す小窓も設けられている。


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  館内展示では日本側関係者についてもそれぞれ紹介されている。新潟大学の柴田幹夫先生は大谷光瑞の研究者であり、2017年8月の修復工事開工式にあたっては西本願寺僧侶として祈願を行われた。二角龍蔵氏は逍遥園建築当時の現場監督・二角幸治郎のご子息である。一級建築士の菅澤茂氏は西本願寺の飛雲閣を修復した経験があり、技術面での指導で大きな貢献をされた。掬月誓成・大谷記念館副館長は開園当時の記念皿の貸与などの形で台湾側と交流を進められた。



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  前述したように、逍遥園は戦後、国民政府によって接収され、「國防部陸海空軍第二總醫院」関係者の宿舎にあてられた。ここにいわゆる「眷村」が形成され、「行仁新村」と名付けられた。その後、1996年に発布された「國軍老舊眷村改建條例」に基づき、老朽化した建築物の建て替え政策が進められるが、そうした中でこの逍遥園も解体される可能性が出て来た。そこで、高雄市民の間から保存を求める声が高まり、それを受けて高雄市政府は2010年に逍遥園を歴史建築に指定する。従って、逍遥園の古蹟指定にあたっては、まず民間から古蹟保存の運動が始まり、それを受けて政治家が動き、現在では「高雄一百」の記念事業の一環として、いわば高雄アイデンティティーに逍遥園も組み込まれるようになったという経緯が確認できる。


  逍遥園は、日本統治時代の建築が台湾郷土文化の内部に位置づけられるようになった顕著な事例として考えることができるだろう。その場合、上水流久彦「台湾の植民地経験の多相化に関する脱植民地主義的研究──台湾の植民地期建築物を事例に」(三尾裕子・遠藤央・植野弘子編『帝国日本の記憶──台湾・旧南洋群島における外来政権の重層化と脱植民地化』慶應義塾大学出版会、2016年)の議論が参考になる。上水流論文では、「台湾の日本植民地期の建築物は中国で日本軍と戦った外省人にとっては否定・破壊の対象であり、本土派推進派の本省人にとっては自らの歴史であり、これらとは無関係にその場を単純に楽しむ者も存在する。そこに日本人側から、日本の過去を見出すまなざし、それを観光として楽しむ姿、自らの所有物とみなす意識が混在する。このように複数のまなざし、意識を重ね合わせる場として、日本植民地期の建築物がある。」(同書、267頁)とその複雑さを指摘した上で、次の四つの段階に分けて分析が進められる。


1.外部化:日本建築は自分たちの意識の対象外に置かれ、破壊・放置の対象となる。
2.内外化:日本建築を自分たちの歴史の枠内に位置づけるが、負の歴史、否定の対象として提示する。
3.内部化:「日本」イメージは肯定的に位置づけられ、他者と差異化して自己表象の道具とされる。例えば、中華民国政府の公定史観に対抗して、本土派の歴史観を強調する際に「日本」イメージが利用されるケースがこれにあたるだろう。
4.溶解化:台湾の文化に溶け込んでいる段階。日本建築の歴史的な出自がそもそも意味を持たず、「カッコいい」「オシャレ」といった形で消費の対象となる。


  国民政府に接収され、「眷村」となったときの住民たちは大陸から逃れてきた外省人であり、彼らには抗日戦争の記憶があったはずである。従って、日本建築に住むということには心理的に何らかの矛盾があったかもしれない。また、近年の古蹟化にあたって国防部との折衝には厳しい局面もあったらしいが、国防部としては日本建築の保存には積極的な意義を認めることはできなかったであろう。こうした態度は、上記で言うと外部化もしくは内外化の段階にあったと言える。


  対して、建築の歴史的意義を積極的に認め、保存に向けて熱心に働きかけた人々の場合、本土派としての政治的・社会的意識が明確な場合は内部化と言えるし、その歴史的出自に関係なく、建築そのものの魅力を重視しているなら溶解化の段階と位置付けられる。開園後は観光スポットとして集客が期待されるだろうから、これからは完全に溶解化の段階へと入っていく。


  今年は高雄市制百周年にあたる。逍遥園の再開園も、そうした関連イベントの中に位置づけられている様子であった。会場で配布された記念品には「高雄一百」(高雄百周年)のコンセプトを表現したデザインがほどこされているし(このデザインには日本時代の高雄市の市章も組み込まれているらしい)、開園式典でくす玉を割る時にも、みんなで「高雄一百」と叫ぶよう促された。


  逍遥園という日本統治時代の建築を積極的に保存しようとする動きがあるからと言って、それを単純に「台湾は親日」というイメージで括ってしまうわけにはいかない。台湾は歴史的な多元性にこそ魅力がある。高雄の観光スポットとしては、例えば、打狗(高雄)英國領事館も人気がある。かつて領事館に勤務していた博物学者ロバート・スウィンホーの姿を車体にプリントしたバスを高雄市内で見かけたこともある。言い換えると、旧イギリス領事館もすでに高雄の歴史に組み込まれ、観光地として定着している。逍遥園もまた、高雄においてそうした歴史的多元性の一コマとして組み込まれ、今後も高雄市民に親しまれるスポットになっていくであろう。


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(写真は2020年11月1日に撮影)