1871年、宮古島の島民69人を乗せた船が大風のため遭難、台湾南東岸の八瑤湾に流れ着いた。上陸する際に3人が溺死し、残った人々は現地のパイワン族に助けられたものの、言語不通から疑心暗鬼を生じ、逃げ出してしまう。彼らは山中で追われて54人が殺害された。残った12人は現地漢人に救助され、台湾府を経由して琉球へ帰ることができた。この事件は本来、琉球‐パイワン族間の問題であるが、当時、日清両属にあったとされる琉球王国の帰属に関して日本政府は自らの支配権を主張しており、琉球漂流民殺害について清朝政府に対して抗議をしたところ、清朝政府から「原住民は「化外の民」である」という言質を得て、1874年に日本政府は派兵の準備を進める。政府内は賛否両論であったが、最終的に台湾蕃地事務都督に任命されていた西郷従道が独断で出航し、同年5月、台湾西南部に上陸、牡丹社へ向けて進軍する。これがいわゆる台湾出兵、もしくは牡丹社事件の経過である。同年5月22日には石門へ到達し、ここでパイワン族と交戦した。


  海沿いの車城から台26線に沿って四重渓温泉を過ぎ、さらに牡丹郷へ向かう。険しい山あいを四重渓が流れており、その脇を台26線が通っている。石門古戦場は車城郷と牡丹郷の境界あたりに位置しているが、見学スポットは道路に沿って3ヵ所に分かれている。



石門古戦場17-1




石門古戦場17



石門古戦場33



  四重渓温泉方面から来て最初の石門古戦場。ここは小山の上に記念碑がある。工事中と書かれており、嫌な予感がするが仕方ない。階段は長くて少々険しい。蛇がいたら嫌だな、と思いながら一歩一歩踏みしめて登る。



石門古戦場1



石門古戦場2


石門古戦場3


石門古戦場4


石門古戦場5


石門古戦場6


石門古戦場7


石門古戦場8




  小山の上には日本時代に建てられた記念碑が二つある。一つ目は1936年に建てられた「西鄉都督遺績記念碑」である。戦後、この碑文は削られて「澄清海宇 還我河山」と書き換えられた。ところが、2016年になって屏東県政府文化処が古跡碑文の本来の姿を確認するという考え方から戦後に書き換えらえた部分も削り取り、私が2020年9月に訪れた時点では、削られた部分がむき出しのままであった。二つの異なる政府に支配され、それぞれの公定史観に翻弄されてきた中、日本時代の碑文を残すのか、戦後の中華民国において書き換えられた部分を残すのか──ここには単純に歴史の問題へは還元できない政治的複雑さが表われている。両方が削り取られた部分をそのままむき出しにしておくのは、ある意味宙ぶらりんな感じもするが、どちらにも定位し難い葛藤が如実にうかがわれる。



石門古戦場9



石門古戦場10



石門古戦場11


石門古戦場12



  ここにはもう一つ、日本側の戦病没者547人を祀った忠魂碑が建てられていた。戦後、忠魂碑は撤去され、現在では基壇のみが残されている。



石門古戦場14



石門古戦場13



石門古戦場15


石門古戦場16



  石門古戦場からさらに進むと、牡丹郷へと入る所にもモニュメントがある。ここが2ヶ所目である。弓矢を構えたパイワン族戦士の勇壮な像と、その後ろには外敵に対して示した勇気を讃える碑文がある。



石門古戦場18


石門古戦場20


石門古戦場23


  
  ここでは、山脇にひっそりたたずんでいる小さな祠が目を引いた。「山神祠」「山留牡丹気」「神護石門人」と記され、福徳正神などを祀っている。見た感じ、比較的新しい。どのような由来があるのかは分からない。



石門古戦場21


石門古戦場22



石門古戦場24



  さらに進むと、「牡丹社事件紀念公園」がある。山の斜面を利用した公園内には木々が鬱蒼と茂り、イベントが開催できる広場も設けられている。



石門古戦場25


石門古戦場25-2


石門古戦場25-3



石門古戦場26



  広場のすぐ脇には、日本語で「愛と和平」と記された石碑がある。石碑の上半分にはパイワン族と琉球人と思しき二人の人物が肩を組み、一緒に酒を飲んでいる姿がかたどられている。



石門古戦場31




石門古戦場27


石門古戦場28



石門古戦場29



石門古戦場30


石門古戦場32



  いわゆる牡丹社事件は、日本の帝国主義的膨張という脈絡で考えると日清関係に局限されてしまうが、実際の当事者はパイワン族と琉球漂流民である。しかしながら、その後の政治的展開の中で、琉球漂流民を殺害したパイワン族に対する膺懲→日本帝国の琉球に対する支配権を主張、パイワン族の果敢な抵抗→中華民国の抗日史観──といった形で、当事者の思いとは離れたところでストーリーが組み立てられてきた。このような公的史観から脱した地点で和解を模索することができるのか──そうした難しさについては、例えば、平野久美子『牡丹社事件 マブイの行方 日本と台湾、それぞれの和解』(集広舎、2019年)で描かれている(こちらのエントリーに書いた)。


(写真は2020年9月13日に撮影)