2020年8月21日。日本統治時代に創建された台北市内の仏教寺院の現在を訪ねて歩き回った(ただし、調査漏れもあるかもしれない)。MRT淡水信義線の圓山站からすぐ近い臨済護国禅寺は前日8月20日にすでに参観したので、こちらに関しては「【ふらり台湾】臨済護国禅寺」にすでに書いておいた。


■善導寺(旧浄土宗台湾別院)
  MRT板南線の善導寺站で下車。現在地は台北市忠孝東路一段 23 號、日本時代は台北市樺山町。ここにはかつて日本統治時代には日本の浄土宗知恩院派の台湾別院(台北開教院)があった。浄土宗は1895年に日本が台湾を領有した頃から布教活動を開始していたが、1929年になって世良義成と田村智学の二人が派遣され、ここに本堂を建立した。戦後は国民政府によって接収された後、国民党の政治家で太虚大師を信奉する李子寛に引き渡された。1954年に「財團法人台北市淨土宗善導寺」となって、現在に至る(善導寺のHPを参照)。


1 善導寺s


  現在では大型ビルに建て替えられて、日本時代の痕跡は見当たらない。日本時代に浄土宗の寺院であった寺が、戦後になってもやはり浄土宗となっているのには、何か関係があったのか興味が引かれる。ただし、日本の浄土宗は宗派的組織が明確であったのに対し、戦後に来台した中国仏教では浄土宗と禅宗との区別が厳密ではない。戦後は国民党の政治家によって接収され、中国から逃れてきた僧侶が導師とされた点を考えると、日本時代と戦後との連続性はないと考える方が妥当かもしれない。



■東和禅寺(旧曹洞宗大本山台湾別院)
  MRT善導寺站から南方向へ10分ほど歩いたところにあり、台湾大学医学部や中正紀念堂からも近い。現在地は臺北市中正區仁愛路一段21之33號で、日本時代の台北市東門町にあたる。曹洞宗もやはり日本が台湾を領有した1895年の時点で布教活動を開始していたが、ここに別院が建てられたのは1910年である。敷地の大部分は国民政府によって接収され、日本時代の建物としては鐘楼(1930年の築造)と東和禅寺とが残されている。


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 2


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 3


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 4


  鐘楼の裏手から細い道へ入って行くと、東和禅寺がある。これは曹洞宗台湾別院の観音禅堂であった建物である。日本時代に台湾籍僧侶の募金活動によって建てられ、1915年に完成した。戦後になって東和禅寺と改称された。観音禅堂の柱に刻まれた募金者氏名の中には士紳の黄玉階や台湾総督府の姉歯松平(裁判官)など、見覚えのある名前も見つかる。こうした名簿は研究の手がかりになる。


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 5


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 5-1


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 6


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 7


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 8


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 10


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 9


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 11


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 12


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 13


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 14


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 15


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 16


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 17


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 18


2 曹洞宗大本山台湾別院(東和禅寺) 19


  曹洞宗別院の敷地の大半は国民政府によって接収され、戦後は軍人や難民に占拠された。現在は台北市青少年発展処や警察の仁愛路派出所など新しい建物になっているが、このように公的施設が置かれているのは、ここが一時的に眷村的場所であったことの表われであろう。東和禅寺の方は台湾籍僧侶によって戦後も維持されたものと考えられる。


  台北市青少年発展処の一階にある怡客咖啡(IKARI Coffee)で鐘楼を眺めながら、昼食がてら休憩。再び善導寺站まで戻り、MRT板南線に乗って西門站で下車。北から南へ下る形で歩く。



■旧真宗大谷派本願寺(東本願寺)台湾別院
  現住所は萬華區西寧南路36號で、日本時代の台北市壽町にあたる。現在では西門町の映画館街であり、獅子林新光商業大樓、六福西門大樓、來來百貨台北店などが並んでいる。日本時代の東本願寺台湾別院の本堂は壮麗な建築で知られていたが、その痕跡は全くない。


3 真宗大谷派本願寺台北別院


  戦後は警備総司令部保安処に接収され、白色テロで捕まった政治犯がここに収容された。1960年代に取り壊され、商業施設に転用されたのは、白色テロの過去を打ち消そうとしているかのように思われる。忌まわしい過去そのものを消してしまおうという発想も含め、ここは白色テロを象徴する場所とも言えよう。本願寺の建物が利用されたため、当時は「本願寺」という名称自体が忌まわしい響きを帯びていたらしい(本願寺の人たちにとっては迷惑なことだが)。ここには幽霊話もあり、日本時代の処刑場だったという噂も広まっているが、白色テロ時代の記憶と混同されている。そもそも政治犯は新店渓沿いの馬場町処刑場で処刑されたのだが、西門町のここはその前に収容された場所、言い換えれば死を約束された場所であったがゆえにそうした噂が広まったのだろう(例えば、謝宜安『特搜!臺灣都市傳說』[台北:蓋亞文化、2020年]を参照→こちらでも取り上げた)。



■台北天后宮(旧新高野山弘法寺)
  現在地は台北市成都路51號で、やはり西門町の繁華街の真っただ中。ここはかつて真言宗の弘法寺であったが、戦後の1948年になって、もともと別の場所にあった天后宮(1746年創建)がここへ移転してきた。その際、旧弘法寺が祀っていた二体の弘法大師像も引き続き祀られており、現在ではある種の宗教的多元性を示しているのが面白い。


4 新高野山弘法寺(真言宗) 1


4 新高野山弘法寺(真言宗) 2


4 新高野山弘法寺(真言宗) 3


4 新高野山弘法寺(真言宗) 4


4 新高野山弘法寺(真言宗) 5


4 新高野山弘法寺(真言宗) 6


4 新高野山弘法寺(真言宗) 7


4 新高野山弘法寺(真言宗) 8


4 新高野山弘法寺(真言宗) 9


4 新高野山弘法寺(真言宗) 10


4 新高野山弘法寺(真言宗) 11


4 新高野山弘法寺(真言宗) 12


  下の写真は二階で祀られている玉皇大帝。


4 新高野山弘法寺(真言宗) 13


  政治家から贈られた扁額。


4 新高野山弘法寺(真言宗) 14


4 新高野山弘法寺(真言宗) 15


4 新高野山弘法寺(真言宗) 16


4 新高野山弘法寺(真言宗) 17


4 新高野山弘法寺(真言宗) 18


4 新高野山弘法寺(真言宗) 19


4 新高野山弘法寺(真言宗) 20


4 新高野山弘法寺(真言宗) 21


4 新高野山弘法寺(真言宗) 22


  二体目の弘法大師像。赤みがかっているのは、日差しよけに覆われた赤い天網のせい。


4 新高野山弘法寺(真言宗) 23


4 新高野山弘法寺(真言宗) 24


  日本仏教の真言宗の寺院が媽祖信仰の廟宇へと転用されたわけだから、厳密に考えれば宗教宗派的には日本時代と戦後とで断絶しているということになる。しかしながら、媽祖は観音様の生まれ変わりとして仏教信仰の中に取り込まれているという側面があり、その意味では台湾人にとって寺院を媽祖廟へと転用することは別に不自然には感じられなかったのかもしれない。弘法大師像を引き続き祀っている点も合わせて、ゆるやかな連続性が見られると言えようか。



■旧真宗本願寺派(西本願寺)台湾別院
  現在地は萬華区中華路一段で、日本時代の台北市新起町にあたる。東本願寺台湾別院と同様に、ここ西本願寺台湾別院も戦後は国民政府に接収され、一部はやはり警備総司令部となり、政治犯が収容された。中国大陸から来台した難民の集住場所ともなり、いわゆる「眷村」にもなっていた。居住環境が悪かったため、火災が発生して西本願寺別院だった建物の一部は消失してしまった。現在では「西本願寺広場」という公園として整備され、鐘楼、樹心会館、輪番所などがリノベーションされたほか、火災で焼失した本堂と御廟所は土台のみが残されている。西門站からも近いので、観光客にも見つけやすいスポットである。


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 1


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 2


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 3


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 4


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 5


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 6


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 7


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 8


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 9


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 10


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 11


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 12


5 真宗本願寺本願寺台湾別院 13




■日蓮宗法華寺
 現在地は萬華区西寧南路194號で、日本時代の台北市若竹町にあたる。西門町の繁華街より南の方に位置している。現在の正式名称は財団法人台北市法華寺である。日蓮宗は日本独自の仏教宗派であるが、この法華寺が日本統治時代の日蓮宗との連続的関係を有しているのかどうかはまだ確認していない。ただ、寺院前に「南無妙法蓮華経」と刻まれた石碑があるので、日蓮宗寺院としての性格は維持しているように思われる。

6 日蓮宗法華寺 1


6 日蓮宗法華寺 2


6 日蓮宗法華寺 3


6 日蓮宗法華寺 4



■十普寺(旧了覚寺、真宗本願寺派)
  現在地は中正區南昌路二段140號で、正式名称は財団法人台北市十普寺。もともとは浄土真宗本願寺派の布教所で、後に了覚寺と称される。戦後は十普寺と改称され、1948年に来台した白聖法師によって中国式叢林へと変えられた。そのため、現在では日本時代の痕跡は全くない。寺院という宗教空間は戦後も中国仏教に受け継がれたが、接収された後に中国仏教の僧侶によって中国化が進められたので、戦前の日本仏教との関係はいったん断絶したものと考えられる。ただし、1997年に開創された「台湾三十三観音霊場」に十普寺(了覚寺)も選ばれているので、戦後も半世紀以上経ってから関係を結びなおしたと言えるだろうか。なお、他にも護国禅寺が「台湾三十三観音霊場」に選ばれており、野川博之『台湾三十三観音巡拝』(朱鷺書房、2004年)を参照のこと。


7 了覚寺(十普寺) 1


7 了覚寺(十普寺) 2




■まとめ
  台北は日本統治時代の島都であり、植民地布教を目指した日本仏教各宗派は台湾での布教の中心を台北に設けた。そのため、台北には各宗派の寺院が集中していた。私自身の関心は、日本統治時代の仏教寺院の戦後との連続/断絶のあり方にある。建物、人脈、宗派の三点における連続性を基準として、試論的に整理してみる。

1.連続:建物が保存されており、人脈的にも台湾籍僧侶の存在によって継続性があると考えられる。例えば、臨済護国禅寺(臨済宗)、東和禅寺(曹洞宗)、法華寺(日蓮宗)。

2.断絶:寺院があったという宗教空間は戦後にも引き継がれたが、接収した関係者によって中国仏教式に改められたため、建物は新しいものに変えられ、人脈的な継続性も維持されなかったと考えられる。例えば、善導寺(旧浄土宗台湾別院)、十普寺(真宗本願寺派、旧了覚寺)。ただし、台北天后宮(真言宗、旧新高野山弘法寺)の場合は、仏教寺院から媽祖廟に代えられた点に着目すると断絶とみなされるが、弘法大師像は受け継がれ、媽祖信仰と仏教との関係性も考慮すると、宗教的連続性まで否定してしまうわけにはいかない。日本仏教を取り込んだ多元性が興味深い現象である。

3.消滅:旧真宗大谷派(東本願寺)台湾別院と旧真宗本願寺派(西本願寺)台湾別院という東西本願寺の場合、建物が警備総司令部に接収されたり、中国大陸から来台した難民が住み着いて事実上の眷村となるなど、仏教とは関係ない形で土地が利用されることになった。両本願寺の建物は大きかったからであろうか。とりわけ旧東本願寺別院は白色テロの舞台として強烈な印象を残し、政府はそうした負のイメージの払拭を図ったのであろう、1960年代に取り壊され、商業施設へと転用された。旧西本願寺別院は火災で一部が消失してしまったが、残った部分は近年になってリノベーションされ、公園として整備されている。


  考えてみたら、二年前の今頃は夏休みを利用して日本各地の媽祖神社を訪ねまわっていた。今年の夏は台北にある旧日本寺院を訪ね歩く形になり、こうした古来から現在に至る宗教を媒介とした文化交流関係は面白いと感じている。


(写真は2020年8月21日に撮影)