飯島渉『感染症の中国史──公衆衛生と東アジア』(中公新書、2009年)は19~20世紀にかけて主に中国と日本を中心とする東アジア世界において、感染症対策がどのように社会的な影響をもたらしたのかを手際よく概観できる良書である。本書の内容は、同著者による『ペストと近代中国』と『マラリアと帝国』のダイジェスト版としての性格も持つため、それぞれについて私の関心(台湾史)に関わる部分を以下にメモしておく。
飯島渉『ペストと近代中国』(東京:研文出版、2000年)の主要論点は、東アジア世界における感染症の拡大に対処するため、国家による医療・衛生事業の制度化が進められた過程を明らかにする点にあり、さらには衛生制度の背景にある「近代性の構造」に中国社会はどのように向き合ったのかというより大きなテーマにつなげようという問題意識が示されている。「ペストの流行が顕在化する中で、近代中国は、欧米や日本の植民地主義的な進出の中で展開された衛生事業を通じて、「近代性の構造」に直面し、結果として衛生の「制度化」を選択した」(『ペストと近代中国』10頁)。本書では、19世紀末の腺ペストの流行(19世紀末に広東、1894年に香港で流行)、1910~1911年の満州での肺ペストの流行、1917~18年の山西省での肺ペストの流行、1919年のコレラの流行といった段階を選び、それぞれに対応する中で衛生の制度化が模索された様子が描かれている。私自身の関心は台湾における感染症の歴史にあり、台湾史に関心のある人の間では衛生行政を確立させた後藤新平の手腕への評価が高いが、本書ではむしろ衛生行政こそ植民地統治権力が現地住民の生活領域へ介入・浸透していく制度的装置として作用したと捉えられる。
本書での時代区分は次の三つの段階に分けられている。
・第一の時期:「中国医学の展開の中で、キリスト教会の医療伝道によって近代西洋医学が中国内地にも展開されはじめ、近代西洋医学にもとづく衛生事業が、植民地(香港)、租界(上海など)に展開されることになった一九世紀の時期」(同書、14頁)→条約港での検疫。
・第二の時期:「清朝政府によって、衛生の「制度化」が開始される二〇世紀初頭から一九二〇年代後半の時期」(同書、15頁)→1902年の天津衛生総局から衛生の制度化が始まる。
・第三の時期:「国民政府によって中央集権的な衛生行政機構と制度が整備される1920年代末から1949年の中華人民共和国の成立までの時期」(同書、16頁)→検疫権を回収。
・第一の時期:「中国医学の展開の中で、キリスト教会の医療伝道によって近代西洋医学が中国内地にも展開されはじめ、近代西洋医学にもとづく衛生事業が、植民地(香港)、租界(上海など)に展開されることになった一九世紀の時期」(同書、14頁)→条約港での検疫。
・第二の時期:「清朝政府によって、衛生の「制度化」が開始される二〇世紀初頭から一九二〇年代後半の時期」(同書、15頁)→1902年の天津衛生総局から衛生の制度化が始まる。
・第三の時期:「国民政府によって中央集権的な衛生行政機構と制度が整備される1920年代末から1949年の中華人民共和国の成立までの時期」(同書、16頁)→検疫権を回収。
ペストの起源に関しては諸説あるらしいが、本書の関心は近代東アジアにあるので、そこはとりあえず問わない。雲南省の地方病であった腺ペストは、19世紀後半にまず広東省で流行し始め、さらに1894年に香港へも伝染し、世界的な腺ペスト流行の契機となった。ここで第一に注目すべきなのは、人的ネットワークのグローバル化がペスト流行拡大と関わり合っている点である。香港はイギリス帝国経済圏の東アジアにおける橋頭堡であると同時に、東アジア海洋世界における華人ネットワークにも接続しており、つまり両者の連結点であったことから人の移動を媒介として感染症のグローバル化につながっていた。1910年代の満州での肺ペスト流行では、整備が進められていた鉄道網が媒介経路となった。
第二に、どのような対応が図られたのか? 清朝はもともと異民族として漢民族を統治する上で介入コストを低減させるため、末端社会の行政は在地コミュニティーに委ねていた。つまり、事実上の「小さな政府」であったため、伝染病対策は地方の善堂など民間団体が中心になって図られることになった。しかし、それでは不十分であるため、租界の外国政府は清朝政府に対してより具体的な対策を取るよう要求し、場合によっては外国政府が直接、現地社会に介入して反発を受けることもあり、感染症が政治・外交問題化するようになる。こうした中で、「小さな政府」であった清朝政府も中央集権的な衛生行政機構の整備へと舵を切り始める(1902年、天津衛生総局が最初)。ここで注目されるのは、清朝政府がモデルとしたのは衛生行政を警察が担当する日本モデルであった。
第三に、衛生の観念が浸透し始めると、そこに一種の価値観念も付与されるようになってくる。つまり、衛生/不衛生という基準が、文明/野蛮、富裕/貧困という二分法と連想的につなげられていく。当時、租界や植民地では外国政府が自前の検疫体制が取られたが、その方法の一つは外国人居住区と現地住民居住区とのゾーニングであった。現地住民居住区に対して貧しく、汚くて不衛生という差別的な眼差しが向けられることになり、価値優劣的序列意識に組み込まれてしまう。
日本は1899年の条約改正によって検疫権を回収し、自前の「帝国」秩序の中で検疫を実施するようになる。「他方、中国は、検疫制度からみたとき、1920年代までは主権国家と植民地の狭間にあった。しかし、その存在は、中国社会が歴史的に蓄積してきた商業や労働力移動のネットワークを通じて、一貫して、東アジア・東南アジアに大きな影響を与えてきた。ここに、周辺地域にとっては、中国からの伝染病の感染をふせぐことが現実的な課題となったと同時に、中国にとっては、検疫制度の確立が、対外的な意味において『国家建設』のための政治的課題となった」(同書、263-264頁)。
「検疫の実施主体は、開港場に設立された海関であったが、その運用には外国領事が関与していた。1842年に締結された南京条約の規定に検疫権の制限が明示されていたわけではなかった。しかし、治外法権の拡大解釈によって、外国領事が検疫を管轄し、海関監督と交渉のうえ、開港場の海関が個別に検疫規則を制定し、検疫を実施するようになった。日本における検疫権の制限もこうした中国の制度が適用されたものであった」(同書、265頁)。
台湾についての議論では、まず日本の衛生制度の沿革から説明される。日本での衛生行政はもともと教育行政の管轄であったが、1893年の地方官管制改正によって地方衛生行政は府県警察部衛生課に移管され、中央の内務省衛生局が統括する中央衛生行政が展開されることになる。1897年に伝染病予防法が制定され、さらに1899年に治外法権及び居留地が撤廃されたことで検疫権を回収、海港検疫法が制定された。日本でこうした衛生行政機構が確立されつつある時期に台湾は植民地となった。日本統治開始の時点で腺ペストの流行が脅威となっていたため、こうした衛生制度は台湾へも適用されていく。「一九世紀末、台湾を植民地とした日本は、中国南部で顕在化し、世界化しつつあった腺ペストの台湾での流行に直面し、腺ペスト対策を進める中で、衛生行政を台湾に導入した。台湾総督府は、腺ペスト対策の中で、衛生組合制度を台湾に導入し、それを通じて台湾人社会に介入し、植民地統治を浸透させていったのである」(同書、125頁)。また、後藤新平の衛生政策においては、現地社会の在来秩序を自治的な機関として読み替え、保甲制度や衛生組合として衛生行政に組み込んでいった点も特徴として指摘される(同書、113頁)。いずれにせよ、こうした衛生行政の台湾における実践経験は、その後、関東州にも応用される。
日本の熱帯医学の発達には台湾総督府が大きな役割を果たしていた。台湾総督府医学専門学校に熱帯医学専攻科を設置(1919~1923年)。「こうした中で、台湾総督府は、中国南部の福建省に、厦門博愛会医院(1918年3月)、福州博愛会医院(1919年7月)、広東省に、広東博愛会医院(1919年3月)、汕頭博愛会医院(1923年12月)及びタワオ病院(英領ボルネオ、1917年5月)を設立した。「各博愛会医院は、自ら南支に於ける医療衛生の指導者を以て任じ、外は我国医術を紹介し、一般の啓蒙に資するのみならず、常に慈善公益を旨とし、医療を通じての日支親善に邁進し、内は専ら在留邦人の保健衛生に心を致し、以て邦人の海外発展に資せんことを目的とし」として、台湾総督府は、医療・衛生事業に中国南部や東南アジアにおける勢力の伸長の役割をもたせた」(同書、268-269頁)。
以上のように『ペストと近代中国』ではペスト対策として取られた衛生行政が制度化していく過程が描写され、植民地においてはそうした衛生行政の制度化そのものが植民地権力の現地社会へ浸透していく装置となっていたと指摘された。次に、『マラリアと帝国─植民地医学と東アジアの広域秩序』(東京大学出版会、2005年)では、マラリア対策の諸相を描き出しながら、台湾をはじめとした植民地・占領地での医療経験が学知・人脈として戦後日本へ還流していることが指摘されている。
日本の台湾統治が始まったときはちょうど感染症の多くのメカニズムが解明された「熱帯医学の黄金時代」にあたっており、そのため日本の台湾統治は医療・衛生事業を中心に据える形になった(『マラリアと帝国』25頁)。日本の台湾統治が始まり、最初に直面したのは腺ペストの流行であり、海港検疫制度を整備して衛生事業の制度化が推進された(『ペストと近代中国』)。腺ペストの抑制に成功した1910年代以降は本格的なマラリア対策に着手する。腺ペストが船舶を通した感染病なので港湾での検疫が主となった一方、マラリア対策は農村部や山間部での衛生事業の契機となった(『マラリアと帝国』、26頁)。
台北医専、台北帝国大学、中央研究所を拠点として、高木友枝、堀内次雄、木下嘉七郎、羽鳥重郎、小泉丹、森下薫などの示した対策や研究を紹介。後藤新平との関係から、北里柴三郎の伝染病研究所・北里研究所や慶應義塾大学医学部との関係が深く、これらの人脈が台湾におけるマラリア研究へ人材を供給する形になり、熱帯医学を中心とする植民地医学の学知と人脈が蓄積される。こうした台湾経験に基づく医学的知見は、1920年代になって八重山のマラリア対策へ導入された。
「近代日本の植民地医学・帝国医療、就中、マラリア研究は、台湾で蓄積された熱帯医学を基礎とし、関東州、朝鮮、満州への進出の中で、植民地統治を支えるツールとして機能した。植民地医学研究の中心となったのは、伝染病研究所・北里研究所そして慶應義塾大学で、そうした人材が配置された台湾総督府中央研究所や満鉄衛生研究所などの研究機関や台北・奉天・京城に開設された植民地医学校が重要な役割を果たしたのである」(同書、305頁)。
「近代日本の植民地医学・帝国医療は、1945年の敗戦、植民地の喪失によって、その構造を崩壊させた。しかし、植民地医学は、実学としての体系を有しており、植民地帝国としての近代日本の崩壊と同時に崩壊したわけではなかった。」「重要なことは、植民地医学を支えた組織は崩壊したものの、その学知と人材は、日本に引き揚げ、新制大学医学部で研究が継続されたことである。こうした学知と人材は、戦後、主として国内の感染症対策に振り向けられるようになった。その結果、国内の感染症研究、特に、フィラリアや日本住血吸虫病などの地方病研究は急速な進展を見せることになった」(同書、332-333頁)。
本書では、植民地統治における肯定面として医療・衛生行政の近代性を強調する捉え方には異議が唱えられている。「帝国医療の現実とは、医療・衛生行政の進展によって植民地社会への介入が進めば、ある種の感染症は管理されるようになるが、他方、そのことによって植民地政策がより浸透度を高めるというような構造を持っていた。それこそが、植民地医学・帝国医療の歴史的性格なのであり、植民地医学・帝国医療は、けっして、プラスとマイナスというような二項対立的な枠組みからは理解することができないのである」(同書、344頁)。
各書それぞれで台湾に関わる部分は次の通りである。
『感染症の中国史──公衆衛生と東アジア』(中公新書、2009年)
第Ⅱ章 近代中国と帝国日本モデル
1 公衆衛生の日本モデル──植民地台湾と租借地関東州
第Ⅲ章 コレラ・マラリア・日本住血吸虫病
2 台湾のマラリア──開発原病
第Ⅱ章 近代中国と帝国日本モデル
1 公衆衛生の日本モデル──植民地台湾と租借地関東州
第Ⅲ章 コレラ・マラリア・日本住血吸虫病
2 台湾のマラリア──開発原病
『ペストと近代中国』
第三章 日本の台湾統治と腺ペスト・マラリア
第一節 近代日本の衛生行政
第二節 腺ペストの流行と日本の台湾統治
第三節 台湾統治とマラリア
第七章 一九一九年のコレラ流行
第一節 コレラの流行、一九一九年
第八章 衛生の「制度化」の国際的契機
第二節 国際連盟とシンガポール伝染病情報局
補論 近代東アジアにおける伝染病の流行
第三章 日本の台湾統治と腺ペスト・マラリア
第一節 近代日本の衛生行政
第二節 腺ペストの流行と日本の台湾統治
第三節 台湾統治とマラリア
第七章 一九一九年のコレラ流行
第一節 コレラの流行、一九一九年
第八章 衛生の「制度化」の国際的契機
第二節 国際連盟とシンガポール伝染病情報局
補論 近代東アジアにおける伝染病の流行
『マラリアと帝国──植民地医学と東アジアの広域秩序』(東京大学出版会、2005年)
第一章 日本の台湾統治とマラリア
第一節 台湾出兵、日清戦争とマラリア
第二節 植民地化とマラリア対策
第三節 マラリア研究と植民地医学・帝国医療
第二章 二〇世紀前半、八重山のマラリア対策──台湾経験の位相
第三節 台湾経験の導入
第三章 近代日本の衛生学と植民地医学・帝国医療──伝染病研究所・植民地医学校・社会医学
第二節 植民地医学校の軌跡──台北、奉天、京城
第四章 戦争と植民地医学
第三節 戦争と植民地医学
第一章 日本の台湾統治とマラリア
第一節 台湾出兵、日清戦争とマラリア
第二節 植民地化とマラリア対策
第三節 マラリア研究と植民地医学・帝国医療
第二章 二〇世紀前半、八重山のマラリア対策──台湾経験の位相
第三節 台湾経験の導入
第三章 近代日本の衛生学と植民地医学・帝国医療──伝染病研究所・植民地医学校・社会医学
第二節 植民地医学校の軌跡──台北、奉天、京城
第四章 戦争と植民地医学
第三節 戦争と植民地医学
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