台湾文学館(旧台南州庁)前のロータリー(中央は湯徳章記念公園)から台南公園へと台南の市街地を南北に走る公園路。この大通りに沿って公園の南側に位置する「公園国小」は、かつて日本統治時代には「花園尋常小学校」と呼ばれていた。さらに台湾文学館の方向、つまり南側へ歩を進めると、衛生署(保健所)の手前に慎徳禅寺がある。

  道路そばまで大きなコンクリート造の建築が迫っており、切れ目のないコンクリート壁や生い茂った木々に囲まれていることもあって、ちょっと見には寺院だと気づきづらいかもしれない。離れて見上げてみると、朱色の柱に瓦屋根があり、確かに寺院だとようやく分かる。正殿のガラス窓から中に仏像が安置されているのが見えるが、扉が閉ざされている。もちろん、声をかければ入れてくれるのだろうが、開放的な雰囲気ではない。寺院としてはちょっと珍しい気もする。

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  文化資源地理資訊系統の「慎德堂」の項目(http://crgis.rchss.sinica.edu.tw/temples/TainanCity/westcentral/2108005-SDT)を参照すると、清代康熙年間に蔡阿公派が来台したのが発端とされるが、その後、衰退したため、1893年に再び信徒が派遣され、この地に慎徳斎堂が建てられたという。蔡阿公派というのは在家仏教の一派で、文献によっては金幢派とも呼ばれる。在家仏教には道教的民間信仰も混ざり込むなど、いわゆる仏教とは相違する部分もあり、日本統治時代には宗教管理の都合上、「斎教」と総称とされた。1920年には斎教の各派が合同して「台湾仏教龍華会」が組織され、臨済宗もしくは曹洞宗の管轄下に置かれる。慎徳斎堂もこうした経緯の中で「慎徳禅寺」となった。

  その後、市街地の区画整理で敷地が削られたり、1944年にはアメリカ軍の爆撃を受けたりしたが、戦後、当時の住職であった何教姑(日本時代には台南市仏教会理事も歴任)の発起で修復された。現在の慎徳堂は1980年に建て直されたものだという。

  1950年代の白色テロにおいて、開元寺住職だった高執徳(證光和尚)はこの慎徳禅寺から連行された。高執徳は病気療養のため東京にいたが、1954年5月、台湾へ戻った。その時、日本から将来した『大正大蔵経』を安置すべく、5月17日にここ慎徳堂で関連式典が挙行された。その日の夜、保密局(特務)がやって来て高執徳を連行。翌1955年8月31日に、彼は銃殺刑に処せられた。高執徳についてはこちらのエントリーにまとめておいた。

  なお、日本統治時代に開元寺は臨済宗妙心寺派の台湾中南部における布教拠点と位置付けられていた。斎教各派が合同して結成された龍華会は、妙心寺派の僧侶・東海宜誠の強い影響下にあったと言われ、斎教金幢派に属していた慎徳堂と開元寺は、こうした龍華会と妙心寺派のつながりを契機として戦後間もなくの時期にも交流があったのかもしれない。

  慎徳禅寺の寺宇は1980年になってようやく建て直されたわけだが、ひょっとしたら、高執徳がここで逮捕されたという過去が、戒厳令の時代にもずっと影を引きずっていたのかもしれない。開放的な雰囲気を感じないことからも、何となくそうした暗さを想像してしまう。