臨済宗妙心寺派の布教師として活躍した東海宜誠(1892-1988)は日本統治時代台湾仏教史におけるキーパーソンの一人であり、こちらのエントリーでも紹介した。彼は台湾南部各地のお寺の住職を兼任していた。関連文献を読みあさりつつも、具体的なイメージを描きたくて、彼にゆかりのあるお寺を訪ねてみようと思い立ち、先日、とりあえず台南から比較に近い高雄市内にある元享寺と龍泉寺とを訪問した。

  元享寺を訪問したときには、事情が分かる人が今いません、と言われたので、とりあえず書置きだけして失礼した。それから一週間ほど経った金曜日(4/12)、お寺の方からお電話をいただいた。流暢な日本語を話す方だった。私はてっきり、日本時代生まれの古老の方が連絡をくださったのかな、と思っていたのだが、改めてお伺いする約束を取り付けて電話を切った後、その方がお話しされていた内容を思い返すと、「南伝大蔵経の翻訳をしました」とおっしゃっていたのが気にかかった。パーリ語が分かる人なんて滅多にいないぞ、と思いつつネット検索してみたら…元享寺佛學研究院に呉老擇先生という方がいらっしゃる。そう、確かにお電話の方は「おいでになりましたら、ゴ(呉)老師と言って頂ければわかります」とおっしゃっていた。正直、驚いた。

  呉老擇老師については、「國史館口述歷史叢書 佛教人物訪問記錄」の第一冊として《臺灣佛教一甲子:吳老擇先生訪談錄》(卓遵宏・侯坤宏主訪、周維朋・王千蕙・莊豐吉紀錄整理、台北:國史館,2006年)というインタビュー録も刊行されていることから、台湾での仏教研究における存在感がわかる。最初は東海宜誠について何らかの手がかりがあればいいという程度に思っていたのだが、台湾における仏教研究の権威者となれば、もうちょっと大きな問題意識で質問しないといけないだろう。金曜日の夕方にお電話をいただき、日曜日(4/14)の午後2時におうかがいする約束をしたから、早く準備しないと。そこで、図書館から《臺灣佛教一甲子》と吳老擇編著《媽祖文化源流考》(雲林:北港朝天宮,2014年)の二冊を借り出し、ざっと目を通して質問内容を整理した。実は他にも処理しないといけない作業があったのだが、とりあえず後回し。

  なお、仏教研究者がなぜ《媽祖文化源流考》という書籍を著しておられるのか、これも興味ひかれる問題であるが、後述する。

  呉老擇先生は1930年、雲林・北港のお生まれ。台湾でも由緒ある媽祖廟とされる朝天宮のまさにおひざ元である。物心ついたときはすでに戦時下で、本当は高座少年工に応募したかったが、親の反対で行けなかったという。小学校卒業の12-13歳くらいのときに關子嶺の碧雲寺へ預けられる。出家当時の名前は通妙といった。戦後は仏教講習会、福巌精舎を経て、1961年に日本へ留学した。駒澤大学で学士、大阪大学で修士(中国哲学、老荘思想)、大正大学で博士号を取得される。苦学する中、還俗して、日本国籍も取得して定住された。日本名は呉本信一と名乗られている。その後、元享寺の住職・菩妙和尚が碧雲寺の頃からの仲良しだった関係で、元享寺へ招聘されて佛學研究院を設立、ここを拠点に『南伝大蔵経』の中国語訳作業に取り組まれる。『妙林雑誌』編集長も担当されるほか、巴利仏教研究所も設立、後進のため講義にもあたられている。現在は日本と台湾とを一年のうち半々で往復される生活を過ごされている。

  呉老擇老師は、第一に日本統治時代末期にすでに出家しておられ、台湾仏教界の戦前・戦後における転換をじかに目撃された生き証人である。第二に日本で学位を取得されているので、日台の仏教への考え方の相違を比較しながら説明していただけた。第三にすでに還俗して研究に専念されてきたので、個々の教団・宗派とは離れた立場から仏教界の動向を見つめられてきた。こうした点から、呉老擇老師からお話を伺うことができたのは非常に得難い経験であった。

  呉老擇老師にお会いしてお話をうかがったところ、呉老師は東海宜誠と面識のあったことが分かった。台湾では13-14歳くらいの頃に2回、つまり最初は故郷の北港朝天宮で、二回目は修行先の關子嶺・碧雲寺で会ったという。呉老師は日本へ留学してからも、岐阜県の永昌寺で住職をしていた東海宜誠を訪ねて行った。自分の顔を覚えてくれていて、出家時の通妙という名前で呼んでくれた。晩年、転んで歩けなくなってしまってからもお見舞いに行ったが、96歳で亡くなる直前にもお会いすることができた。

  東海宜誠は台湾語が流暢で、説教ができるほどだった。晩年に呉老師がお会いした時もまだ台湾語を覚えていて、日本語と台湾語の両方を使って会話した。呉老師が東海と初めて会った頃は日本統治開始以来すでに40年以上経っており、日本人がわざわざ台湾語を使う必要はなく、従って台湾語が話せる日本人僧侶は少なかった。なお、東海宜誠の他に、台湾語のできる日本人僧侶がもう一人いたとおっしゃっていた。呉老師は名前を失念されていたが、岐阜県の清泰寺住職になった人ということなので、おそらく高林玄寶と思われる。この高林玄寶氏のところへも昭和36年に訪問したところ、すでに亡くなられていたという。

  東海宜誠に関して、先行研究では批判的な見解が多い。とりわけ象徴的なのは李筱峰《臺灣革命僧林秋梧》(臺北:自立晚報社,1991/臺北:望春風文化,2004年)において、開元寺の内紛をめぐり民族主義的革命僧侶・林秋梧の敵役として東海が登場するくだりだろう。あるいは、皇民化運動における寺廟整理を自派の勢力拡大に利用したとして論じられることもある。

  それに対して、呉老擇老師は東海宜誠に関して肯定的な評価をされているのが印象的だった。呉老師によると、東海宜誠の活動は皇民化運動の前からすでに始まっており、それは日本の民族意識による宗教弾圧ではなく、宗教改革だったと捉えられている。彼の宗教改革には反対者も多かったが、役に立ったこともある。例えば、在家仏教の斎教を臨済宗の傘下に組み入れたことを例として挙げられた。

  戦後、佛光山などの外省系大教団が在家信徒の組織化を進めていったが、それは東海がすでに在家信徒を教団に組み入れる試みを実践しており、そうしたことを受け入れる素地が台湾社会にできていたからこそ、在家信徒の教団への転換がスムーズに進んだのだと指摘された。また、皇民化運動の寺廟整理の際、台湾の伝統的寺院や斎堂が臨済宗、曹洞宗など既存宗派の傘下へ編入するなら、それまで祀っていた神様をそのまま維持してもいいという約束が交わされたという。言い換えると、そうすることで伝統的信仰形態を残すことができた。同時に、仏教教団の傘下に入ったわけだから、彼らの意識を徐々に変えていくことも期待されたという。こうした動きは話し合いで進められており、抵抗は特になかったと呉老師は話しておられた。

  当時の仏教界のただ中に身を置いていた方の見解なので、こうした捉え方もあり得るということも考慮に入れながら研究を進める方がいいと感じた。

  なお、呉老師が駒澤大学へ留学していた頃、永昌寺の東海宜誠を訪問した折に、東海は斎教を臨済宗参加へ組み入れるあたりの経緯について話をしてくれて、段ボール箱に入れた資料も見せてくれた。コピーしようと思ったが、そのままになっている。いまはどうなっているかは分からないという。

  東海宜誠は戦後もたびたび訪台している。台湾各地に弟子がいるので、各地で歓迎されたようだ。戦後最初に訪台したのは1964年11月である。呉老師によると、東海の戦後最初の訪台はスムーズだったが、二回目の訪台時には中華民国側のビザがなかなかおりず、困ったという。そこで、呉老師が東京の大使館の僑務部組長だった人と話をしたところ、どうやら密告があったのでビザがおりないということだった。どのような理由かというと、開元寺住職の高執徳が白色テロに巻き込まれて1955年8月に処刑されていたが(こちらのエントリーを参照)、東海はこの高執徳との関係が深いから共産主義者の疑いがある、として密告されていたのだ。呉老師は、そんなはずはないから大丈夫だと言って、取消してもらったという。誰が密告したのかは分からないが、開元寺には財産問題などもめ事があったから、東海さんに来て欲しくない人がいたのかもしれない、とおっしゃっていた。

  東海宜誠の戦後二回目の訪台は1965年の臨済宗妙心寺派訪台団の引率としてであったが、これについては松金公正「臨済宗妙心寺派訪台団(1965年)に対する監視報告──中華民国政府の日本仏教へのまなざしに関する一考察」(佐藤東洋士・李恩民編『東アジア共同体の可能性──日中関係の再検討』御茶の水書房、2006年)という論文がある。この論文は、警察の監視報告を史料として書かれている。台湾各地の警察が妙心寺派代表団の動向を逐一チェックして報告書をまとめているのだが、結局、問題発言なしという結論になっている。松金先生の論文を読んだとき、そもそもなぜ仏教交流活動に対して監視行動をしていたのか不可思議だったが、呉老師のお話をうかがって得心がいった。

  なお、松金先生の論文で依拠された警察の監視報告では、東海宜誠を台湾生まれとするなど調査不足があり、松金先生も違和感を吐露されている(上掲書、143頁)。おそらく、密告者が東海宜誠のことを深くは知らず、警察も密告者の言い分を鵜呑みにして調査しただけだったのだろう。

  呉老擇老師は北港のご出身で、地元出身者として北港朝天宮とも関係が深い。ご著書《媽祖文化源流考》も北港朝天宮から刊行されている。お話をうかがっていたら、日本統治時代、北港朝天宮も臨済宗妙心寺派の傘下に入っており、呉老師が初めて東海宜誠と会ったのも朝天宮だったというのが興味を引いた。仏教と道教系民間信仰とがどのように結びつくのか?という話になるが、媽祖は観音様の化身とされている。媽祖経というお経もある。だから、媽祖を祀った宮には關渡宮のように臨済宗系もけっこうたくさんある。従って、臨済宗系の媽祖廟は日本の臨済宗の傘下へ入るのにそれほど抵抗感はなかったという。

  呉老師は日本に定住後も東京朝天宮や日本媽祖文化協会の関係のことを手伝ったりされていたというので、日本の媽祖廟に関する質問もしてみた。こちらのエントリーでも書いたが、以前、台中の梧棲朝元宮(北港朝天宮の系列)を訪れたとき、「日本朝天宮代表役員」の肩書を持つ日本人・高橋夏三郎という人からの書簡が堂内に掲示されているのを見かけたことがあった。背景を調べて見たら、1969年に日本・台湾双方の新聞で、高橋夏三郎氏が北港朝天宮を訪れ、媽祖様を岐阜市へ分祀してもらったという記事が確認できた。そこで、私はわざわざ岐阜まで行って探したのだが、結局、媽祖廟らしきものは見つからなかった。

  今回、呉老師にその話をしたところ、高橋夏三郎という人とは2008年くらいに電話で話したことがあるという。ただ、高橋氏は朝天宮とはそれほど深い関係ではなかったと思う、とのこと。所有していた山林を開発して、そこに朝天宮を建て、観光名所にしようとしたのではないか。ところが、土地の権利上の問題があったのだろう、媽祖廟建設は実現できなかった。結局、北港朝天宮から分祀してもらった媽祖像は自宅の押し入れに入れたままで、その処理に関しても電話で話した覚えがある、という。

  私は当初、高橋氏が台湾からの引揚者か何かで、そうした縁で媽祖を分祀しようとしていたのかと想像していたのだが、その可能性はなさそうだ。すると、さらに疑問が出てくるのは、高橋氏はなぜ媽祖様を分祀してもらおうと考えたのか。誰からどのような経路で知って関心を持ったのか。どうして岐阜市長まで巻き込むことができたのか。色々気にかかるが、中でもとりわけ気になっているのは、岐阜県には東海宜誠や高林玄寶など、台湾から引き揚げた臨済宗系僧侶が住職を務めるお寺が存在すること。そして、臨済宗と媽祖信仰とは縁がないわけでもない。このあたり、何かありそうな気もするのだが、まあ、これ以上探ってもあまり意義はなさそうなのでやめておく。