『東亜先覚志士記傳』(下巻、黒龍会編、1936年/原書房、1974年、25-26頁)に「入交佐之助(日露役特別任務)」という項目が立てられている。1900年時点での臺南縣職員名簿を調べたときに入交佐之助(いりまじり・さのすけ、1867-1926)の名前を見かけ、珍しい苗字なので印象に残っていた。直後に『東亜先覚志士記傳』を調べていたら、再びこの入交の名前を見つけたという次第である。

  同書では日露戦争で活躍したスパイとしての経歴が注目されている。明治二十七八年の役(日清戦争)で清国各地を転戦して功があり、「二十八年七月陸軍憲兵曹長に進んだが、志もと支那に在り、日露の風雲漸く穏ならざるものあるや、支那に渡航して参謀大尉川崎良三郎の配下に投じ、遼西方面に於ける特別任務に服して大に活躍した」(25頁)という。

  同書の紹介では、日清戦争終結後、日露戦争に身を投ずるまでの経歴が空白になっているのだが、その間、入交は台湾にいた。台湾総督府文書によって整理すると、彼の経歴は次のようになる。

慶応3年(1867)4月24日、高知県香美郡山田野地村に生まれた(平民)
明治18年(1885)12月1日、陸軍教導団歩兵科生徒
明治20年(1887)3月31日、歩兵科卒業、陸軍歩兵二等軍曹
明治20年8月25日、射撃科学生として戸山学校へ入学
明治21年(1888)2月25日、射撃科教則卒業
明治21年3月29日、陸軍歩兵一等軍曹
明治25年(1892)3月30日、現役満期
明治28年(1895)1月24日、戦時補助憲兵として修学
明治28年6月3日、陸軍歩兵曹長(7月1日に陸軍憲兵曹長)
明治29年(1896)8月30日、上等伍長
明治30年(1897)4月1日、「明治廿七八年戦役ニ継キ再ヒ台湾地方ニ於テ軍務ニ服シ其功不少ニ付金四拾円下賜セラル」
明治31年(1898)12月20日、通訳を命じられる
明治32年(1899)6月30日、現役満期
明治32年8月、臺南縣蕃薯寮辨務署主記・警部(以上は「入交佐之助主記ニ任用ノ件(元臺南縣)」(1899年08月01日),〈明治三十二年元臺南縣公文類纂永久保存進退第二十五卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00009547049)
明治34年(1901)1月7日、辞職願を提出(「主記入交佐之助辭職ノ件(元臺南縣)」(1901年01月01日),〈明治三十四年元臺南縣公文類纂永久保存進退第四十二卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00009564003)
明治36年(1903)、臨時臺灣土地調査局調査課雇(臺灣総督府職員名簿)
明治36年4月6日に辞職願を提出(「雇入交佐之助解雇ノ件」(1903年04月01日),〈明治三十六年永久保存第二五一卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00004442009)

  上掲の経歴から見ると、入交は日清戦争に憲兵として従軍したが、戦後もそのまま台湾へ渡って引き続き軍務に服していたことが確認できる。1898年に通訳を命じられているが、その後の日露戦争でも大陸へ渡ってスパイ活動に従事していることを考え合わせると、彼は日清戦争従軍の時点で中国語をマスターしていたのであろう。臺灣で除隊後、臺南縣蕃薯寮辨務署(現在の高雄市旗山近辺を管轄)に主記兼警部として勤務しているが、いわゆる「土匪」征討に従事していたはずである。いったん辞職した後、1903年に再び臨時臺灣土地調査局調査課に勤務するが、これも同年には辞職している。その後は大陸へ渡ったのであろう。

  日露戦争後の入交の足取りについて、『東亜先覚志士記傳』では次のように記されている。「戦後に於ても依然志を支那に寄せ、医師と称して支那各地を遍歴し、病者に遭へば薬を与へ或は手術を施し、之に接近して親しく地理人情を観察するの便に資し、斯くして満洲は勿論中央支那に足跡を印し、他日非常時に備へるに怠りなかつた。大正年代に入つてからは青島に居を定め、独力にて日本人の宿泊所を設け、夫人と共に青年を養成するに余念もなかつたが、遂に其地に病んで大正十五年三月二十日歿した」(26頁)。

  また、『對支回顧録』でも日露戦争でのスパイ活動を主として入交の経歴が紹介されているが、こちらでは「晩年は大連に在つて、寺田春二と共に各種の事業を試みたが、商賈は君の得手でなく、事多く志と違ひ、不運の裡に病を獲て、大正十四年三月二十日、日露戦役特別任務班の花形たりし君は、遂に病牀に殪るるに至つた」(下巻、東亜同文会編、1936年/原書房、1868年、1079頁)と記されている。没年が異なるが、どちらが正しいのだろうか。