オランダ語史料を英訳したThe Formosan Encounter: Notes on Formosa`s Aboriginal Society: A Selection of Documents from Dutch Archival Sourcesを読みながら、17世紀の基隆附近にいた日本人Jasinto Quesaymondonneについてメモしておく。

  1643年6月6日付文書(President Maximiliaen LemaireからCaptain Harrousséあて)に、日本人Jasintoを通訳として東インド会社が雇ったと記録されている。彼には現地人妻と子供がおり、現地語を流暢に話すことが出来るし、年配で良い人生を送って来た(…is old and leads a good life)という(The Formosan Encounter: Notes on Formosa`s Aboriginal Society: A Selection of Documents from Dutch Archival Sources, Vo.2:1636-1645, ed., by Leonard Blussé and Natalie Everts, Taipei: Shung Ye Museum of Formosan Aborigines, vol2, p.382)。

  翌年1644年4月9日の記録(President Maximiliaen LemaireからHendrick Jacob Baersあての指示)には、Captain Harrousséの帰任後の話として、Jasinto Quesaymondonneは現地民、とりわけKimaurij(基隆)出身者からとても好かれており、彼らはJasintoの命令にはほとんど何でも従うという。従って、会社は彼を丁重に扱わねばならない、と記されている(vol2, p.432)。

  Jasintoはその後もオランダ人に代わって徴税に行ったり(vol.2, p.556)、オランダ人が金鉱探索で宜蘭方面へ向かうにあたって通訳のほか、別部族との交渉や朝貢の説得にもあたっている(vol.3, pp.74-76,87,173)。

  Jasintoはおそらくスペイン語の洗礼名、Quesaymondonneは「喜左衛門殿」と考えられる。「殿」という敬称がつけられているところからすると、一定の身分を持った人物だったと考えてもあながち間違いではなかろう。オランダ語史料では、例えば長崎奉行・末次平蔵がPhesodonne=平蔵(heizo)殿(dono)と表記されているから、donneは「殿」を表している。上掲のオランダ人将校の観察でも、現地民は彼の言うことにはよく従うという趣旨のことが記録されており、何がしかの威厳を備えていたのだろう。「年配で良い人生を送って来た」とされているところからは、年齢相応に経験を積んだ人物とみなされていたことが分かる。

  Jasintoは漂流民かもしれないし、時代的に考えるとキリシタン弾圧を逃れてきた日本人の可能性もある。キリシタンならば、日本にいたときから名乗っていた洗礼名であろう。漂流民ならば、スペイン人が基隆を占領していたときにカトリックの神父から洗礼を受けたのかもしれない。いずれにせよ、彼はスペイン語でオランダ人とコミュニケーションを取っていたのだろう。

  スペイン語史料にもひょっとしたら喜左衛門についての記録があるかもしれない。中村孝志の論文に出ているのかもしれないが、いま手元にないので後日確認する。