角板山よりもさらに山地へ向かい、羅孚という集落を過ぎてまっすぐ進む。山地を横切る国道7号から石門水庫方面へと向かう羅馬公路に入り、少し行くと樂信瓦旦紀念公園へとたどり着く。角板山公園からスクーターで20分くらいかかったろうか。行政区画上は桃園市復興区にある。

  ロシン・ワタン(樂信・瓦旦、林瑞昌、日野三郎、1899-1954)は日本統治時代に医師となり、タイヤル族のリーダー的存在であったが、戦後の白色テロで処刑されてしまったという悲劇的な経歴を持つ。

  彼は1899年に台北州三角湧(現在の三峡)に生まれたが、後に父に従って角板山へ移住。1908年に角板山蕃童教育所に入学したとき、「渡井三郎」と名乗る。優秀だったことが注目され、1910年に桃園尋常高等小学校へ転入し、1921年には当時の台湾において最高学府とされていた台湾総督府医学校を卒業した。その後は故郷へ戻り、公医を務める。1929年には日本人女性・日野サガと結婚して、日野姓を名乗る。こうした彼の「日本化」の背景には、おそらく当時の統治当局から原住民教化のために有用な人材とみなされていたと考えられるだろう。1945年4月には台湾総督府評議員となる。当時の台湾原住民としては破格のポジションに就き、それだけ原住民社会で声望を持っていたことが分かる。

  戦後は「林瑞昌」と中国名を名乗り、引き続き現地リーダー的役割を担うことになる。1947年の二二八事件にあたっては部族の人々に参加しないよう説得したという。1948年7月には台湾省政府諮問委員、1949年11月には台湾省参議会議員となり、1951年には台湾省臨時省議会議員に当選した。彼は公職の立場から原住民族の権益を守るべく積極的に活動し、原住民民意代表の増員、山地行政管理局の設置、山地行政の一元化、土地返還問題などをめぐって発言したが、こうした政治活動のため国民政府から目を付けられてしまった。1952年11月、「高山族匪諜事件」でツォウ族のリーダー・高一生たちと共に逮捕され、1954年4月17日に処刑された。

  台湾が民主化する過程でロシン・ワタンの名誉回復も行われ、彼の息子によって1993年9月に銅像が建てられた。ロシン・ワタンの名誉回復は、白色テロ受難者の尊厳を回復するだけでなく、原住民族の地位向上という意義をも帯びる。樂信瓦旦紀念公園はもっと新しく、2017年8月7日に鄭文燦・桃園市長も出席して落成式が行われた。


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  この公園内にある上掲展示写真には、角板山を訪問した蒋介石をロシン・ワタンが案内している写真も含まれている。樂信瓦旦紀念公園へ来る前に寄った角板山行館(蒋介石の別荘)は現在、蒋介石を顕彰する記念館となっており、彼が角板山へ来ていた時の写真が展示されているが、ロシン・ワタンと一緒に映ったこの写真はなく(地元タイヤル族が歓迎する写真はあった)、またロシン・ワタンはタイヤル族のリーダーとして公職にあったにもかかわらず、その名前すら全く言及されていなかった。ロシン・ワタンは白色テロで処刑されたことから、忌避されたものと考えられる。角板山行館はあまりきちんとメンテナンスされている雰囲気もなかったので、単純に作業が遅れているだけなのかもしれないが、いずれにせよ、この角板山という一つの土地でも、移行期の正義をめぐって異なる視点が交錯している様子が見えてくる。


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(写真は2019年1月23日に撮影)