陳昭如《被遺忘的1979:臺灣油症事件三十年》(臺北市:同喜文化出版,2010年)

  1979年、台湾中部にあるキリスト教系の視覚障碍者學校・恵明学校で、生徒や教職員の皮膚が黒くなったり、大きな吹き出物ができたりする症状が集中的に発生した。また、周辺地域でも同様の症例が見られた。衛生署(日本でいう保健所)が調査した結果、原因は彰化油脂工場で生産された米糠油にダイオキシンが混入しており、その油を食用に供したことで発生したものであることが判明した。1968年に日本で起こったカネミ油症事件と全く同じ症状である。

  本書『被遺忘的1979:臺灣油症事件三十年』(忘れられた1979年:台湾油症事件三十年)は、30年が経った時点からこの事件を振り返る。二部構成となっており、前半では事件の経過を整理し直し、後半では被害者のもとを訪ねてまわり、それぞれのその後を描き出している。

  油症事件の責任は、端的に言えば混入の可能性を知りながら売り続けた工場や問屋にあり、彼らは逮捕され、有罪判決を受けた。また、対応措置を怠った政府関係部門の責任も免れがたい。蒋経国総統や林洋港台湾省長が被害者救済の指示を出したというが、実際の政府の対応は杜撰であった。日本でカネミ油症事件が起こったときは1月半で原因が突き止められたが、台湾油症事件では原因究明には半年以上かかり、そもそも衛生署に設備が不足していたため、カネミ油症事件で経験のある九州大学病院の協力を得てようやく原因が確定できた。その間、米糠油が危ないという報道も出ていたが、政府が明確な対応を示さなかったため、政府の公式声明なし=食用に供しても大丈夫、と人々は判断し、被害が拡大したという。事件後、被害者の医療費補助のため「油症カード」が交付されたが、長い時間が経つうちに医療関係者の間ですら油症事件は忘れられ、被害者が医療機関で「油症カード」の使用を断られたりもしたという。

  油症事件の影響を受けたのは結局、もともと立場の弱い人々ばかりであった。問題の米糠油は安いから流通していた。恵明学校は財政基盤が弱いため、経費節減のため、安い食材に頼りがちであった。問題の米糠油の購入を決めた恵明学校の総務主任は、事件後も積極的に対応に尽力したが、根が真面目な人だっただけに、30年経った後もずっと後悔を抱えていた。貧しい人々は、油症事件で健康を壊したり、あるいは妊娠中に中毒したため先天的に問題のある子供が生まれたりしても(例えば、皮膚の真っ黒な子供が生まれた)、保険制度が完備しておらず、また因果関係が明確でないため政府の補償も受けられなかったりして、かさばる医療費で人生が狂わされてしまった。

  本書の目的は、事件の元凶を特定して断罪することではない。油症事件の背景には社会各層の様々な問題が関わり合っており、それが油症事件を契機として露になったとも言える。究極的な責任を追及するには、問題があまりにも複雑すぎた。

  むしろ、事件の被害者一人一人のもとを訪ね歩き、彼らの話を聞く。聞き取られた話は油症事件に限らず、例えば恵明学校はキリスト教団体が慈善的に運営する視覚障碍者学校であるため、その卒業生には家庭の貧しさから送られてきたり、障碍のため親から事実上見捨てられたりといったように、個々の背景がそもそも決して幸福なものではなかったことが分かる。それぞれにかけがえのない人生の歩みを聞きながら、彼らの怒りや戸惑いや悲しみに寄り添う。油症事件を一つの切り口としながらも、そこを通して一人一人の人生模様を描き出しているところに本書の読みごたえを感じる。