台湾文学翻訳家の天野健太郎さんが2018年11月12日に亡くなられた。享年47。まだまだ若い。むしろ、これからこそ本格的に活躍されるものと期待していただけに、実に惜しい。私は個人的にも知り合いで、台湾へ来るにあたって色々とお世話にもなっていたから、その意味でも本当に悲しい。


  天野さんの訃報は、最初、ネットで知った。誤報であって欲しいと願ったが、間もなく、天野さんと聞文堂(台湾文学紹介を目的とした翻訳・版権会社)を共同で運営されていた黄碧君さんからメールが届き、事実であることが分かった。


  天野さんと最後にお会いしたのは、今年の8月、東京虎ノ門の台湾文化センターで開催されたイベントだった。私はちょうど一時帰国していたので、顔を出してみた。私の記憶にある天野さんの体格は、何というか、お肉がしっかりついているような印象だったが(私も人のことは言えないが)、この時は極端なほど痩せていて驚いた。スマートになったなあ、と感嘆した反面、ご病気されたという話も間接的に聞いてはいたので、若干気になっていた。それでも、通訳・司会進行のお役目をテキパキとこなしておられたのが印象に残っている。


  私が天野さんと知り合ったきっかけは、ツイッターである。彼が龍應台『台湾海峡一九四九』(白水社)の翻訳・出版を準備されていた時期だったから、2012年頃のはずだ。その頃、私はまだ東京で会社員をしていた。仕事のかたわら、台湾関係の勉強を続けており、龍應台の原作もいち早く読んでブログに内容紹介を書いていたから、天野さんはそれをご覧になって私の存在に気付かれたのだろう。その後、新宿区内の中国楽器店(店名を失念してしまった)で開催されていたサロン的な催しで映画監督の酒井充子さんが講演されたとき、会場で一緒になったのが直接お会いした最初だったと思う。それからもツイッターでやり取りをしつつ、台湾好きの集まる会合にもお誘いいただいて、徐々に交流が深まっていった。


  天野さんは一匹狼的な雰囲気を持ちつつも、いや、むしろフリーで仕事されていたからこそか、交友関係は広かった。彼はお酒は弱かったけれど、率直な語り口がとても面白くて、それが人を引き付けていたのかもしれない。私は東京でも、台湾へ来てからも、天野さんのセッティングしてくれた会合に参加することで色々な人と知り合うことができた。これは本当に感謝している。


  普段は密に交流していたわけではないけれど、私が台湾へ来るにあたって、なぜか節目節目で天野さんが現われた。私が台湾留学を決意して、会社を辞めたのが2013年のこと。その年末に天野さんが台湾関係者の忘年会を企画して、私もお誘いいただいたので参加したのだが、それはちょうど私の出社最後の日の夜だった。


  翌2014年、聞文堂でウェブサイト「もっと台湾 ここにしかない台湾の本棚」を立ち上げるにあたり、天野さんから「台湾史を知るためのブックガイド」連載の打診を受けた。その打ち合わせをしたのが、2014年3月、私が台湾留学に出発するちょうど前日だった。場所は、今はなき喫茶店・新宿スカラ座。私の留学先は台南の成功大学華語中心(中国語センター)だったが、このとき、天野さんから「どうせ中国語を勉強するなら、大学院に入っちゃった方がいいんじゃない」と言われた。同じようなことは複数の人からも言われたようにも思う。天野さん自身はあまり深く考えないで発言したのかもしれないが、彼は率直で飾り気なくものを言う人だったから、彼から言われると不思議と説得力を感じた。彼の言葉が何となく頭に残っていて、それも私を後押ししたと言えるだろう。結果的に、私は成功大学の大学院に入って修士課程を終え、今は博士課程に在籍している。


  その後も、天野さんのお誘いでムック『PEN+ 台湾カルチャー・クルーズ』(2015年10月)の台湾史年表や台湾史関連映画4本の紹介文(後者は無署名)を担当させてもらった。私がライター的な仕事も請け負うようになったのは、天野さんの力添えによるところが大きい。


  2015年4月には天野さんの主導で日台出版関係者交流イベントが台北で行われ、私もお手伝いに行った。この時は、天野さんが私淑していた台湾文学研究者・陳芳明先生の講演を間近で聞けたり、色々と勉強になった。その後、天野さんが作家の川本三郎さんたちを台南へご案内してきた時にもご一緒させてもらった。


  「もっと台湾」の仕事として、歴史作家・陳柔縉さんのインタビューをさせてもらったことがある(この時は黄碧君さんにご協力いただいた)。その後、台北の建成小学校同窓会で当時の卒業生に思い出を語ってもらうイベントが行われたとき、陳柔縉さんもお誘いして、早めの夕食をご一緒した。ちょうどその時、陳さんの携帯電話に天野さんから台北に到着したばかりだと連絡が入り、そこで急遽合流して一緒に建成小学校のイベントへ行った、なんてこともあった。


  天野さんの翻訳技量が抜群だったことは誰しも認めるはずだ。訳出された文章は日本語として実にこなれていて、ぎこちなさを全く感じさせず、胸にストンと落ちてくるすっきりした読後感があった。そう言えば、彼が、自分の本質は女なんだよなあ、と言っていたのを思い出した。女性の文章だと感覚的にスムーズに訳せるが、男性の文章は訳しながら何となく引っ掛かりを感じるという。そういう感性的に違う何かがあるものなのか、と面白く感じた覚えがある。いずれにせよ、彼はそれだけ翻訳という行為の体感的な部分にまで非常に敏感であった。


  日本の出版界において台湾文学は必ずしも注目されて来たジャンルとは言えない。もっとはっきり言うなら、研究者以外に関心を持つ人はほとんどいなかった。いくら台湾文学が好きで、その魅力を紹介したいと思っても、出版できなければどうにもならない。況してや昨今の出版不況の中、マイナー分野には実績がないため、出版社としては売上予測が立たず、躊躇してしまう。個々の編集者は出版の意義を理解できてはいても、出版部数という現実課題をクリアできなければ、商売がそもそも成り立たないので企画を通せない。


  天野さんは現在の出版をめぐる状況をリアルに理解していた。最初に実績を作る必要がある。台湾文学の存在をまず日本の読書界に認知してもらい、その上でラインナップを広げながら良書を翻訳紹介していく。そうした戦略的な方向性を意識しながら、彼が最初に選んだのが龍應台『台湾海峡一九四九』(白水社、2012年/原題『大江大海一九四九』天下雑誌、2009年)だった。龍應台は華人圏では著名な作家で、本書の原書もベストセラーになっていたから、企画売り込みで一定の説得力がある。歴史ノンフィクションなら純文学よりも読者層を広めに見込めるし、内容的にも近代日本と関わりがあるから関心を持たれやすい。その頃、版元の白水社では分厚い歴史ノンフィクションの翻訳物が立て続けに刊行されていてちょっとした話題になっていたので、そうした現代史ノンフィクションのラインナップに潜り込ませることもできる。本書の売上成績がどれほどだったのかを私は知らないが、少なくとも読書界での評判は良好で、幸先の良いスタートを切ったと言える。


  天野さんが翻訳を手がけた下記のラインナップを見れば分かる通り、ジャンルは多岐にわたっている。彼の関心がそれだけ広かったとも言えるし、同時に戦略的にリスク分散を図っていたとも考えられよう。


龍應台『台湾海峡一九四九』(白水社、2012年)
張妙如、徐玫怡『交換日記』(東洋出版、2013年)
猫夫人『猫楽園』(イースト・プレス、2013年)
陳柔縉『日本統治時代の台湾』(PHP研究所、2014年)
呉明益『歩道橋の魔術師』(白水社、2015年)
龍應台『父を見送る』(白水社、2015年)
鄭鴻生『台湾少女、洋裁に出会う』(紀伊國屋書店、2016年)
猫夫人『店主は、猫 台湾の看板ニャンコたち』(WAVE出版、2016年)
ジミー『星空』(トゥーヴァージンズ、2017年)
陳浩基『13・67』(文藝春秋、2017年)
ジミー『同じ月をみて』(ブロンズ新社、2018年)
呉明益『自転車泥棒』(文藝春秋、2018年)


  聞文堂の天野さんと黄さんは台湾で刊行された書籍の中から良書をセレクトして翻訳企画を立て(台湾ばかりでなく、香港ミステリー作家の陳浩基の作品も含まれているが)、積極的に日本の出版社へ売り込んでいった。鶏が先か、卵が先か、みたいな話になるが、台湾の書籍の翻訳出版を通して台湾の文化を知ってもらうというベクトルがある一方で、そうした翻訳刊行物が売れるためにはまず台湾の存在感を日本人に認知してもらわないといけないという側面も看過できない。


  そこで天野さんたちは、様々な人や組織も巻き込みながら、台湾の文化を日本人に知ってもらうイベントを仕掛けていく。ウェブ展開した「もっと台湾」もそうだし、日台出版関係者の交流イベント、台湾の作家や出版人を日本へ招いて行われるトーク・イベント等々、こうした活動は広い意味で日台文化交流の重要なパイプとなってきた。最近、日本で台湾ブームの盛り上がりが見えてきているが、天野さんは間違いなく影の立役者の一人であった。言い換えると、天野さんは翻訳家を主とされつつ、同時に出版プロデューサーでもあり、日台文化交流のプロモーターでもあり、様々な役柄を通して日台交流のインフラ整備において大きな貢献をされた。


  天野さんの活動の基本には、やはり文学への情熱がある。彼は俳人としての顔を持ち、なぜ自身で作家活動をしなかったのか、私から見ると一つの謎が残されたままなのだが、それはともかく。彼の文学への情熱は、台湾の書籍の翻訳紹介という仕事を通して具現化されていた。出版市場が縮小しつつある中で、これまでマイナー視されてきた台湾の書籍翻訳という仕事をこれほどの水準にまで引き上げてきたのは、ある意味、奇跡的だし、彼の頑張りからは、やれば出来るんだ、という希望すら感じていた。翻訳出版事業をようやく軌道に乗せて、むしろこれから本格的に翻訳活動を展開できる基盤が整い始めたばかりというこの時に、この世を去らなければならないというのは、本人はさぞかし無念であったろうと想像する。これから翻訳予定の作品もたくさんあったろうが、それらをもはや目にすることができないのは、一読者としてただただ残念である。


  謹んでご冥福をお祈りしたい。