2018年10月20日(土)、台南市の台湾文学館(地下一階図書室)にて、高英傑『拉拉庫斯回憶:我的父親高一生與那段歲月』(臺北市:玉山社,2018年)の新書分享會が開催されたので参加してきた。本書の刊行は7月なので、もう新刊と言うには微妙な時期ではあるが、台湾南部では最初の開催ということになるらしい。


  高英傑さんは1940年生まれだから、今年は78歳であろう。物腰や語り口から、穏やかで謙虚なお人柄がよく伝わってくる。主に写真を紹介しながら本書の内容について説明をしてくださったのだが、悲劇的な話は淡々と語られ、むしろ努めてユーモラスな話題をピックアップされていたのが印象的だった。


  考えてみると、本書の読後感もちょっと不思議な感じだった。短い読み切り短編を並べたような軽やかな筆致で、深刻な悲壮感は漂っていない。しかしながら、むしろそうであるがゆえに、突如として父を喪失した悲しみと無力感とが、いっそう胸に迫ってくる。


  高英傑さんの父・高一生(1908-1954)は、現在の嘉義県阿里山郷にいるツォウ族のリーダーであった。日本統治時代に台南師範学校を卒業、故郷に戻って警察官となる。当時の山地行政における警察官は行政や教育など様々な分野を兼掌していたから、郷土出身のリーダーとして重要な役割を果たしたが、同時に植民統治機構の末端に身を連ねるという立場から、難しい判断を迫られることも多々あったであろう。そうした立場的難しさは戦後も変わらず、国民党政権下では呉鳳郷(現在の阿里山郷)長となった。理想家肌の高一生は、原住民自治の構想を思い描き、郷土の人々と共に新たな農場を開こうとした。


  ところが、そうした彼の理想は、国民党政権の権威主義体制からは反逆と映ったのであろう。1952年汚職容疑をでっちあげられ、逮捕されてしまった。ちょうど高英傑さんが台中簡易師範学校へ入学するときで、学校でも色々と言われたらしい。高一生は1954年に処刑されたが、家族は高英傑さんが動揺するのを心配して何も伝えなかったという。帰省したとき、新しい墳墓が出来ているのを見て、初めて父の死に気付くことになった。


  本書では父・高一生の思い出ばかりでなく、ツォウ族のかつての習俗や、1940年代の政治体制転換における混乱なども、高英傑さんご自身の体験や見聞として記されており、その点でも興味深い。1947年の二二八事件のとき、台南県長の袁国欽(九州大学出身で日本語ができる)は外省人官吏を連れて阿里山のツォウ族のもとまで逃げてきて、高一生は彼らをかくまってあげたという。1950年には中国東北地方出身の先生たち(王景山、その妻の劉某、陳貴琦)が赴任してきた。彼らは旧満洲国統治下にいたので日本語ができたが、国民党の密告者だとして信用されなかった。彼らのような旧満洲国出身者がどのくらい台湾に来て、何をしていたのか、気になる。また、高英傑さんが長老教会に若干の不信感を持っているのも興味を引いた。長老教会もツォウ族の地へ布教に来たが、やはり国民党のスパイが潜り込んでいたかららしい。戦後、山地原住民にはキリスト教が急速に広まったが、高英傑さんはカトリックの方にシンパシーを寄せている。弟の高英輝さんはカトリックの神父だという。


  プユマ族の音楽家として知られる陸森寶(1908-1988)が台南師範学校で高一生の後輩にあたることは本書で初めて知った。1946年には陸森寶がプユマの舞踊団を連れてわざわざツォウ族の部落まで来て音楽交流をしていたという。高一生も公務のかたわら作曲をしていた。高英傑さんも講演中の話題を説明する必要上、歌声を披露されたが、音楽の才能に秀でた家系なのだなあと感じ入った。


  ただし、陸森寶は高一生について何も言及していないという。言及すれば、陸自身の身も危うくなったであろうから、仕方ない。高一生も音楽家としての素質を持っており、もし長生きをしたら、もっと多くの作品を残してくれたのではないか──そう語る高英傑さんの口ぶりは、穏やかさの中にも悔しさがにじみ出ているように感じて、印象に残った。