前回の記事で書いたように、台湾の戸政事務所へ行き、曾祖父と祖母の戸籍資料を申請した(正確には戸籍ではなく、寄留届なのだが)。戸政事務所に保存されていた記録を見ると、転出入の記録が日付と共に記載されている。これらを見ながら、日付を確認できる範囲内で、曾祖父一家の台湾における足取りを整理してみた。


・大正9年1月3日、台北廰大加蚋堡下崁荘頂石路61番地へ寄留。ここはいわゆる艋舺の南部で、現在の台北市萬華区にあたる。当時の身分は台湾新報社社員となっていた。

・大正9年3月24日、台北廰芝蘭三堡淡水街土名福興街七番地へ寄留。これ以降の身分は台北廰雇となっており、『台湾総督府職員録』を見ると淡水郡役所庶務課に勤務していたことが確認できる。

・大正9年10月1日、同地は台北州淡水郡淡水街烽火十七番地と改称。

・大正10年10月23日、祖母が淡水にて出生。

・昭和3年11月22日、台北州羅東郡羅東街竹林三百十六番地へ寄留。曾祖父が羅東郡役所庶務課へ転勤したことによる。祖母の書いた随想に、羅東で暮らしていたとき水牛を見て驚いたという内容のものがあった。

・昭和5年7月25日、台北州文山郡新荘庄大坪林字七張四百七十五番地へ寄留。曾祖父が文山郡役所庶務課へ転勤したことによる。

・昭和7年5月24日、基隆市幸町一丁目二十一番地へ寄留。曾祖父が基隆郡役所庶務課へ転勤したことによる。

・昭和13年6月7日、台北市東門町二百十七番地へ寄留。この年に曾祖父は七星郡役所庶務課へ転勤しており、翌年には台北州内務部勧業課へ転属、昭和16年には文山郡役所勧業課長へ昇進した。

・昭和16年11月7日、曾祖父が新店渓での水難事故により死去。『台湾日日新報』にもその記事が掲載されていた。

・昭和20年4月10日、七星郡北投街北投七九番地へ疎開。


  戸籍簿でたどれる一番古い記録は大正9年1月3日までである。それでは、曾祖父はいつ台湾へ来て、大正9年1月3日までの足取りはどうであったのか? 戸籍簿には「本籍地ヨリ大正9年1月3日寄留桃園廳竹北二堡鹹菜硼庄土名鹹菜街百三十五番地ノ一ヨリ大正9年1月3日転寄留」と記載されている。つまり、日本の本籍地から台湾の桃園廳への転居と、同地から台北廰大加蚋堡への転居が同じ日付で記録されていることになる。推測するに、台湾へ来てから大正9年1月3日の時点までは寄留届を出していなかったのだろう。戸籍簿を通して確認できるのは、大正9年1月3日に台北へ来る以前は桃園廳にいたということまでである。


  ちなみに、桃園廳竹北二堡鹹菜硼というのは現在の新竹縣關西鎮にあたる。日本統治時代初期の桃園廳は、その後の行政区画改正により、桃園、新竹、苗栗に分割される。


  祖母が『文藝台湾』に発表した小説「ふるさと寒く」では曾祖父について次のように記されている。「徴兵検査の終わった翌年の欧州大戦の頃、父は大きな夢を抱き、アメリカに渡って一旗挙げようとしたが、世状のどさくさにまぎれて果さず、せめて、フイリッピンにでもと、五拾圓なにがしの小遣を懐に単身渡臺し、高雄で便船を待ち乍ら種々の手続をして、天候や其他の加減で出帆の後れる船に、空しく日を過す中に、乏しい懐銭も失せ、否応無しに当地で働かねばならなくなった。丸八を染め抜いた相撲取りの化粧廻のやうな前垂をつけた某食料品店の高級番頭やら、新竹の山中の軽鐡事務所の事務員やら、製糖会社の下ッ端社員、某新聞社の田舎駐在員等、転々する中に雄図も中ば挫折した儘、官界の裳裾にやつとすがりついて、爾来十五年餘り、学歴の無い父は、学歴が無言の示威となる社会、殊に植民地社会にはまり込んで、こつこつと誠実一点張りに人生をきざんで来た。」(『文藝台湾』第二巻第四号、昭和16年7月、27頁)


  祖母の筆致には、虚構性をあまり意図せず、感じたことや事実関係もそのまま素直に書いてしまう傾向があるので、ここに引用した記述は基本的に事実と受け止めていいだろう。これを参考にすると、曾祖父は桃園廳竹北二堡鹹菜硼(現在の新竹縣關西鎮)にいたときは軽便鉄道の事務員をしていた。「某新聞社の田舎駐在員」をしていたのは台北廰大加蚋堡下崁荘頂石路(艋舺)にいた大正9年1月前後のことと考えられる。


  曾祖父は1893年生まれであり、「徴兵検査の終わった翌年の欧州大戦の頃」に台湾へ来たというから、1914年以降のことである。最初は高雄へ来て、大正9(1920)年までの間、「新竹の山中の軽鐡事務所の事務員」や「某新聞社の田舎駐在員」をしていた時期や場所は上述の戸籍資料を手掛かりに大体の見当がついたが、「丸八を染め抜いた相撲取りの化粧廻のやうな前垂をつけた某食料品店の高級番頭」や「製糖会社の下ッ端社員」はいつ、どこでしていた仕事なのか? 何か調査の手立てがないか、もう少し探索してみたい。