紅毛港は高雄市の沿岸に位置する。地名の由来には諸説あるようだが、紅毛人=(台湾史の脈絡では)オランダ人に関連するのであろう。一説によると、鄭成功がオランダ東インド会社を追い出した直後の1662年6月に死去した際、バタヴィアのオランダ勢力が台湾の奪回を画策して艦隊を派遣したものの、あとを継いだ鄭経側の守りが固く、やむを得ず撤退したが、この事件にあたってオランダ人が上陸した地点とも言われている。

  ただし、現在の紅毛港という地名から想起されるような港は、この街にはない。ここは海辺からもう少し内陸側に寄っている。1960年代後半、高雄第二港湾が整備されるにあたって海辺から移転し、さらに2007年に政府の遷村計画に従って現在の場所へ移って来たようである(「紅毛港朝天宮沿革誌」)。


  移転先に改めて「紅毛港」と名付けられたこの地域を歩いてみると、大きな道路がまっすぐ縦横に走り、整然と区画整理した中にポツポツと大きな建物がたたずんでいる。ただし、空き地が目立つ。中途半端な宅地造成は、むしろ殺風景な印象を与える。海側に視線を移すと、すぐ近くのところに高雄小港国際空港の敷地が広がっており、離着陸する飛行機の爆音が頻繁にとどろき渡っている。そうした中にやたらと廟が多いのが不思議な光景だ。ひょっとしたら、かつての紅毛港近辺に散在していた漁村がこの一区域にまとめられたため、それぞれで祀られていた廟宇が集中し、その密度が高まったということなのかもしれない。

風景1


風景2



  捷運(MRT)草衙站で下車、新しくできた「大魯閣草衙道」(タロコモール)という大型ショッピングオールの脇を東北方向に向かって歩く。途中、スコールに見舞われて難儀した。紅毛港地区に入って最初に目に入ったのは、媽祖を祀る「紅毛港朝天宮」である。ルーツをたどれば漁民の街であるがゆえに、媽祖信仰が篤い。「紅毛港朝天宮沿革誌」によると、ここの媽祖は、もともとは「紅毛港朝鳳寺」に祀られていたのをここへ分霊したものらしい。

朝天宮1


朝天宮2


朝天宮3


朝天宮4

「紅毛港朝天宮沿革誌」



  「紅毛港保安堂」は日本人を祀っていることで知られており、日本のメディア等にも取り上げられることがある。

保安堂1


保安堂2


  まず神像の配置を確認すると、正面のメインとなる祭壇に3尊の神像が祀られており、真ん中が「郭府千歳」、右側が「海府大元帥」、左側が「宗府元帥」である。右の祭壇には「地蔵菩薩」が、左の祭壇には「福徳正神」(土地公)が祀られている。


保安堂3


保安堂4


保安堂5


保安堂6


保安堂7


保安堂8



  日本人の神像は向かって右側の「海府大元帥」であり、白い服装から日本海軍軍人であったことが示されている。保安堂の説明によると、1946年に漁民が海上で拾い上げた骨を祀っていたが、1990年になって日本語の分からないはずのタンキーからお告げがあり、日本語で「自分は日本海軍第38号軍艦艦長で、太平洋戦争で戦死した、靖国神社へ行きたい」という趣旨のことを語ったという。ただ、第38号軍艦というのが何か、艦長とは具体的には誰なのかよく分からないが、このあたりについては保安堂の背景も含めて、前川正名「鳳山区紅毛港保安堂について」(『中国研究集刊』60号、2015年6月)が考察を加えているので、参照されたい。いずれにせよ、こうした縁から日本側との交流が始まり、軍艦やお神輿が奉納されたり、壁面の意匠の一部に富士山や日本女性が描かれているなど日本的要素を取り込んでいるところが保安堂の特徴である。


保安堂9


保安堂10


保安堂11


保安堂12


保安堂13


保安堂14


  保安堂の開基となっている他の2尊の神像、「郭府千歳」と「宗府元帥」にはどのような由来があるのか。「郭府千歳」は、1923年に漁民が海上で拾った骨を祀ったものであり、これが保安堂の始まりだという(なぜ郭姓なのかは分からないが、想像するにタンキーのお告げで郭姓の人物が現れたのであろうか)。「千歳」という名称から王爺信仰であることが分かる。また、陳姓の独身者が孤独に亡くなったのを祀ったのが「宗府元帥」とされている。いずれにせよ、日本海軍軍人とされる「海府大元帥」も含め、身寄りのない人々(日本語的に言うと「無縁仏」)を憐れんで祀ろうとしているのが保安堂における信仰心のあり方として見て取れる。


保安堂15


保安堂16


保安堂17


保安堂18


保安堂19




  ここで興味を引かれるのが、隣接する「紅毛港海衆廟」の存在である。こちらの開基も保安堂と同様で、1972年にやはり漁民が海上で拾った骨を祀ったのが始まりとされている(「海衆廟沿記」)。「海衆廟」という名称からは、ここが無縁仏を弔う「大衆廟」的な性格を持っており、祭祀対象が海難事故で亡くなった人々であることから海の字をつけたものと考えることができる。


海衆廟1


海衆廟2


海衆廟4


海衆廟5


海衆廟6


海衆廟7


海衆廟8


海衆廟9
「海衆廟沿記」


  「保安堂」の祭祀対象者はタンキーを通して名前が判明している(とされる)一方で、「海衆廟」の祭祀対象者は具体的な人名が分からないという違いがあるが、いずれにせよ、海難事故に関わる無縁仏を祀っている点では同じ性質を有している。「海府大元帥」については名前がよく分からないが、少なくとも身分は分かったものとみなされている。


  「保安堂」から歩いて10分くらいのところに「紅毛港朝鳳寺」という大きな仏教寺院があり、そのすぐ裏に「紅毛港正軍堂」がひっそりとたたずんでいる。


正軍堂1


正軍堂2



  由来をたどると、1944年に洪天来、洪天命兄弟が漁業に従事していたところ、日本軍人3人の骨を拾ったため、これを祀ったのが始まりとされる。「朝鳳寺」の「観音佛祖」から「水吉成公」の名前を賜ったという。もともとは高雄県小港郷海汕五路30号外海防波堤の脇にあったが、やはり2007年の遷村計画によって現在の場所に移転した(「正軍堂之沿革事録」)。「朝鳳寺」との関係から、その隣を選定したのだろう。「観音佛祖」からどのような形式で「水吉成公」の名前が告げられたのかは分からないが、おそらくこれもタンキーによるのであろう。


正軍堂3


正軍堂4


正軍堂5

「正軍堂之沿革事録」


  なお、「紅毛港朝鳳寺」は本来、「観音佛祖」を祀るが、遷村計画にあたって「福徳正神」(土地公)と一緒の建物にされたという。「紅毛港朝天宮」の媽祖も、もともとは「紅毛港朝鳳寺」から分霊したらしいし、こうした台湾民間信仰の神々の体系には色々な要素が混ざり込んでいて複雑だ。そうした複雑さの中に、「保安堂」や「正軍堂」で祀られている日本人も組み込まれている。


朝鳳寺1


朝鳳寺2


朝鳳寺3


朝鳳寺4


朝鳳寺5


朝鳳寺6


朝鳳寺7


朝鳳寺8


朝鳳寺9


朝鳳寺10


朝鳳寺11


朝鳳寺12


  言い換えると、第一に、台湾民間信仰体系の一つとして無縁仏を祀る孤霊信仰がある。第二に、タンキーのお告げを介して、その中に日本人も組み込まれた。現地の人々にとって、それは神様からのお告げだから、好き嫌いの問題ではなく、きちんと祀らなければ祟られてしまうかもしれないから、一生懸命に祀る。第三に、日本人を神として祀るという特殊な現象が日本人に知られると、興味を持った参拝客が訪れ、そこから保安堂のように日本側との交流が始まる(これは台南の飛虎将軍廟も同様)。こうした展開過程が見て取れるだろう。

  孤霊信仰、タンキー、戦後における日本との交流という三つの段階は、それぞれ別個のロジックに基づくと考えられる。別に日本が好きだから祀ったわけではない。まず、同情心から無縁仏を祀った。次にタンキーのお告げがあったから手厚くしてあげた。さらに、日本人観光客が来てくれたから、ホスピタリティー精神で歓迎した。それぞれ、動機が異なる点には注意する必要があるだろう。