李春生(1838-1924)は台北大稻埕の茶商にして敬虔なキリスト教思想家として知られていた。彼の伝記『泰東哲学家李公小傳』(台湾日日新報社、1908年)が生前すでに出版されていたのだが、その執筆者は日本人、中西牛郎(1859-1930)である。本書は漢文で執筆されている。

  中西は複雑な宗教遍歴を重ねた人物で、どのような経緯から李春生の伝記を執筆したのかは分からない。中西は熊本の漢学者の家に生まれたため、幼少から漢籍に親しんでいた。青年期には東京に出て英学校で学ぶが、学費が続かなくなったため郷里へ帰る。友人・徳富蘇峰の尽力により京都の同志社で学ぶが、他方で在学中から西本願寺の赤松連城、東本願寺の南条文雄から仏教も学んだ。仏教改良論の立場から論陣を張り、1889年に著した『宗教革命論』が認められ、西本願寺の派遣によりアメリカへ留学する。帰国後、文学寮教頭となったが、人間関係の問題から辞職し、その後は新聞記者になった。

  当時、天理教が神道から独立した教団となるため内務省宗教局に認可を求めていたが、教義の整理が必要と言われていた。天理教内部にはもともと「学問の道ではない」という風潮があり、教義を整理するに適切な人材がいない。そこで教団外の学者に依頼することとなり、1900年に中西が招聘される。三年後の1903年に中西は『宗教談─一名天理教の研究』『天理教顕真論』の二冊を完成させた。

  同年4月3日、中西は台湾へ渡り(『台湾日日新報』明治36年4月5日付)、同月9日付で淡水税関長官房嘱託と同時に旧慣調査会事務嘱託となる(「中西牛郎舊慣調查會事務ヲ囑託ス」(1903年04月09日),〈明治三十六年永久保存進退追加第六卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000910042)。その後は、総督府財務局嘱託、臨時台湾糖務局庶務課嘱託等を経て、1910年3月に日本へ戻った(『台湾日日新報』明治43年3月5日付)。総督府退職時には、行政事務に精励するかたわら二宮尊徳傳を漢訳して本島人に周知させた等の功績により給与のほか500円の退職金を賞与されている(「囑託中西牛郎手當及賞與並解囑託ノ件」(1910年02月28日),〈明治四十三年永久保存進退(判)第三卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00001721006)。

  中西は台湾にいたとき、『台湾日日新報』上でたびたび文章を発表しており、離台時の送別会告知には「多年本島各官衙に奉職し兼ねて文壇の雄たりし」と記されている。中西は英語ができたの李春生とのコミュニケーションに問題はなかったろうし、なおかつ漢文にも明るく、宗教問題への造詣が深いことから李春生の伝記執筆者に選ばれたのかもしれない。帰国後の中西の足取りはよく分からないが、1927年8月頃からは扶桑教とも関係し、1930年に再び天理教へ戻ったという。

  中西の生涯については、差し当たって金子圭助「中西牛郎の天理教学研究──天理教教理史研究の一齣」(『天理大学学報』102号、1976年3月)、星野靖二「熊本時代の中西牛郎──その活動と論説の検証」(『駒澤大学 文化』第33号、2015年3月)を参照した。星野靖二『近代日本の宗教概念──宗教者の言葉と近代』(有志舎、2012年)で中西が論じられているが、筆者は台湾にいて入手困難なため未見。引き続き、中西についても調べていきたい。