昭和17年(1942)4月、祖母は香港占領地総督部の書記として香港へ渡った。同年の『文藝臺灣』10月号の社報に「亀田恵美子姉(香港小説を執筆)」とある。ひょっとしたら、小説を書くために香港という外の世界を題材にしようという思惑があったのかもしれない。当時の写真を見せてもらったが、ピクニックへ行ったり、結構のどかだった印象すら受ける。白人女性と一緒に映った写真があり、誰かと尋ねたら、香港占領地総督部に勤務していたポルトガル人だという。英語が必要な業務にあたり、香港在住のイギリス人は「敵国人」であるため雇うことができなかったが、ポルトガルのサラザール政権は枢軸国寄りの中立という立場だったので、マカオから募集したのだろう。

  ところが、戦火が激しくなり、日本の制海権も徐々に奪われつつある状況下、女性は優先的に帰されることとなり、昭和18年(1943)2月頃に台北へ戻った。その後、総督官房情報課に勤務する。『臺湾時報』を発行していた部署である。この頃に発表した「九龍生活」(『臺湾時報』昭和19年6月号)は香港でのことを、「思ひ出の街」(『臺湾公論』昭和19年5月号)は香港から台湾へ戻る途中に寄った汕頭の印象を記している。祖母は昭和57年に旅行で香港を再訪しているが、タイガー・バーム・ガーデンを見ながら、昭和17年の香港滞在時にもこの同じ邸宅を見学させてもらったことがあったと回想している(「香港旅情」『旅の朝』22-23頁)。

  祖母は昭和19年に、台北第二中学校教諭だった祖父・黒羽義治と結婚したが、祖父は間もなく出征した(ただし、出征とは言っても、勤労動員の学生を引率して台湾東岸へ行き、ずっと塹壕を掘っていたと祖父から聞いた覚えがある)。祖父が不在の中、台北は何度か空襲を受けているが、昭和20年8月、戦争が終わる一週間前に自宅が空襲を受けたという。その折のことを次のように記している。

 敗戦のわずか一週間前、当時、台北に住んでいた私の家は空爆で半壊した。
 真夏であった。昼食中に空襲警報が鳴った。あわてて箸もちゃわんもそのままにして、防空壕の中へ飛びこんだ。お向かいの家には防空壕がなかったので、そのお宅の娘さん二人が、亡き母上の白い遺骨箱を抱えて、
「いっしょに入れてくださーい」
 と叫びながら駆けつけてきた。二人を狭い壕の奥に座らせて、入り口の戸を押さえていた。
 グラマン機の近づくのが気配で分かった。落下した爆弾のズシンというひびきが伝わってきた。入り口の戸が吹きとんで、土砂が音をたててふってきた。体を穴の底に伏せる以外に方法はなかった。
 敵機は通りすぎたようだ。私たちは、土をかき分けて外へ這い出してみた。そして、絶句した。東隣の家の数軒は跡形もなく崩れさり、崩れた上にそして電柱や電線に、ちぎれた人間の体が飛び散っていたのである。
 隣の防空壕に爆弾が命中して、その中にいた十一人の隣人たちが、一瞬にして死んでしまっていた。
 敵機の乗員が爆弾投下のボタンを押した、わずかな指の操作で、私の壕を直線上において、その前と後ろの家へ命中させたのだ。幸いなことに、もう一方の家は疎開して誰もいなかった。
 私は泥だらけのまま、近くの小川の橋のてすりに腰をかけて、土ぼこりに包まれて半分消えてなくなった我が家を眺め、頭の中が空っぽになってゆくのをおぼえた。
 亜熱帯の空は高く澄み、ヤシの樹は何ごともなかったように風にそよいでいる。体じゅうから力が抜けてゆくにつれ、涙がとめどなく流れおちた。明日の空襲では私がやられるだろうと、確信みたいな思いが衝きあげてきた。自分がどれだけ無力かを思い知らされた。
 男の人たちが戸板を探してきて、遺体をのせて並べていた。女にはとても正視できる情景ではなかった。
 真夏になると、それは忌まわしい点景としてよみがえってくる。(黒羽恵美子「夏の涙」『旅の朝』78-80頁)

  日本の敗戦により台湾は中華民国に接収されることになった。昭和20年10月、国民党軍が台北へ入城する様子を祖母もじかに目撃していた。鍋を背負ったみすぼらしい姿はよく語り草になっているが、私も祖母から聞いたことがある。敗戦後の混乱期、祖母の一家は親しくしていた知人一家と一緒に小さな食堂を開いた。その知人の家が東門市場の道路に面していたので、そこの軒先を改造して店を構え、おふくろの味を売り物にしたという。往来がにぎやかなので繁盛し、引揚げまで続いたらしい(「阿蘇のふもとで」『旅の朝』52-53頁)。昭和21年3月、祖母は基隆港から日本へ引揚げた。祖父・義治は留用されたため引揚げが遅れ、同年7月になってようやく帰国した。

  葉石濤は祖母の作品「ふるさと寒く」を評して、「植民者日本人の一部はすでに台湾の土地と人々にアイデンティティーを感じ始めていた」と記しているが、実を言うと私の見立てはだいぶ違う。

  近年、台湾では映画「湾生回家」の影響もあって、「湾生」という表現もポピュラーになった。この映画については色々と問題も起こったが、少なくとも「湾生」についていちいち説明しないでも済むようになった点ではありがたい。この映画の中で「湾生」たちが「生まれ故郷」を訪ねて涙ぐむ姿は多くの人たちの感動を呼んだ。他方で、やはり「湾生」であった私の祖母を思い浮かべてみると、印象はだいぶ違う。普段の生活の中で台湾について語ることはなく、こちらから質問してようやく話をしてくれるという感じだった。台湾時代から付き合っている知己もそれほど多くはなかったようだ。もちろん、台湾へのなつかしさはあったはずで、だからこそ同窓会で基隆を訪れたりもしたし、祖父も「湾生」ではなかったが、台湾時代の教え子に招待されて台湾へ行く機会があった。そうではあるにせよ、やはり台湾への思い入れのあり方に相当な違いがあったことは否めない。

  「湾生回家」でテーマとなった吉野村の開拓民は、日本の土地を売り払い、帰る所はないという覚悟で花蓮へ移り住んだ。周囲に日本人はほとんどおらず、普段から現地民と交わる生活を過ごしていた。日本へ引き揚げた後、寄る辺は何もなく、一からの出直しは相当にきつかったはずだ。戦後における日本での過酷な生活は、穏やかだった台湾での日々をなつかしむ気持ちをより一層強めたことであろう。他方で、祖母が暮らしていたのは主に台北である。当時の台北は、いわば日本の延長線上にあり、周囲にいたのは日本人、もしくは日本語の流暢な台湾人が多数派であった。主に日本人区域で暮らし、台湾人区域に行く機会はあまりなかったと祖母から聞いている。だから、台湾語は全く分からない。台湾の気候風土へのなつかしさはあったはずだが、在来の文化を含めたトータルな意味で台湾へアイデンティティーを感じていたかと言えば、それは違うであろう。祖母は引揚げ後、祖父の実家がある東京へ移り住んだ。戦後間もなくは当然ながら苦労したはずだが、吉野村から引揚げた人びとに比べたら安定した生活を送ることができた。現状との比較対照の中で、過去の台湾時代をなつかしむ動機はやや乏しかったと思われる。

  「湾生」と一言でいっても、その内実は様々だ。どこに住んでいたか、社会的階層はどうであったか、そして引揚げ後の生活状況はどうであったか──様々な要因によって台湾時代をなつかしむ心理的契機も異なってくる。そうした要因の相違に留意しながら「湾生」について分析するのも、今後必要な課題かもしれない。