植民地を組み込んで成立していたかつての「大日本帝国」には二つの「時間」があった。日本では東経135度の子午線を基準として中央標準時が用いられている。これに対して、1895(明治28)年、日本が台湾を領有するにあたって時間の問題も検討され、同年12月28日に公布された「標準時ニ関スル件」(明治28年勅令第167号)によって東経120度の子午線を基準として「西部標準時」を設定、1896年1月1日から施行された。つまり、「帝国」内部で一時間の時差が設定されたわけである。

  同勅令には下記の通り記されている。
第一条 帝国従来ノ標準時ハ自今之ヲ中央標準時ト称ス
第二条 東経百二十度ノ子午線ノ時ヲ以テ台湾及澎湖列島並ニ八重山及宮古列島ノ標準時ト定メ之ヲ西部標準時ト称ス
第三条 本令ハ明治二十九年一月一日ヨリ施行ス

  この「西部標準時」には、下関条約によって新たに獲得された台湾・澎湖諸島ばかりでなく、八重山・宮古列島も含まれているのが興味を引く。もちろん、地理的な近接性による判断なのだろうが、後にこれら島嶼部の人々は台湾へ頻繁に行き来して共通の経済生活圏を形成するようになるので、その点では便利だったのかもしれない。

  その後、「大日本帝国」は1910年に朝鮮半島を併合、さらに1930年代に入って中国東北部で「満洲国」をでっちあげて事実上の植民地化することでその領域を拡大するにあたり、これらの地域にも「西部標準時」が適用された。

  ところが、交通・通信手段の飛躍的拡大(例えば、1936年10月から日本・台湾間で航空便が開設)やラジオ放送の開始(1928年)などによって、標準時間の相違が色々と不便を来すようになってきた。そこで、1937(昭和12)年の勅令第529号により上記明治29年勅令第167号が改正され、「西部標準時」の廃止により、植民地すべての時間が日本の「中央標準時」へ統合されることになった(呂紹理,《水螺響起:日治時期台灣社會的生活作息》,臺北市:遠流出版,1998年,頁53-54)。