《我們的那時此刻》

  台湾で最も権威ある映画賞で、いわば台湾版アカデミー賞とも言える「金馬獎」が創設されたのは1962年のこと。楊力州監督によるドキュメンタリー《我們的那時此刻》(私たちのあの時・この時)は、受賞作品や関連人物のインタビューをまじえ、「金馬獎」五十年の歩みをたどる。受賞作にはそれぞれの時代背景がにじみ出ており、それらをつなぎ合わせることで、映画というテーマを通した台湾現代史が浮かび上がってくる。ナレーションは桂綸鎂(グイ・ルンメイ)。インタビューでは侯孝賢(ホウ・シャオシエン)、李安(アン・リー)、魏德聖(ウェイ・ダーション)など台湾の代表的映画人のほか、香港の李果(フルーツ・チャン)、成龍(ジャッキー・チェン)、中国の姜文(チャン・ウェン)、趙薇(ヴィッキー・チャオ)なども登場。

  初めの方、台湾の映画ファンが「金馬獎」という名前の由来を質問されて、返答に窮してしまうシーンがある。「金馬」とは、対中国の最前線であった金門・馬祖を指し、非共産圏に向けての宣伝が意図されていた。また、当時、台湾の国産映画では台湾語映画が大人気だったため、それに業を煮やした当局の「国語」(=中国語)映画推進という政策目的もあり(「金馬獎」がそうした性格を持っていた以上、セリフの大半が日本語の《KANO》が受賞できなかったのはやむを得ず、むしろノミネートされていたこと自体が時代的変化を表わしている)、初期の授賞式に設定されていた10月31日は蒋介石の誕生日である。何もかも政治がらみの出発であった。

  女の子をウットリさせるラブ・ロマンス。男の子を熱狂させた武侠映画。1970年代に入ると、アメリカ・日本との断交など国際的孤立を深める中、国威発揚を狙って抗日戦争などに主題をとる愛国映画が量産される。台湾の映画市場が香港映画に席巻された後、台湾ニューシネマの動向も現われる。台湾の国産映画はつまらないと観客から見放される中、WTO加盟によってアメリカのハリウッド映画が大量に流入し、また中国映画も解禁された一方、アン・リーのように海外で活躍する道も開けてきた。1980年代になると、従来の国策的な姿勢から、作品重視の独立公平な選考基準への転換が図られていく。侯孝賢《悲情城市》をめぐっては、侯を支持するマイノリティーと反対するマジョリティーとで真っ二つになったらしいが、選考過程でそうした論争が起こったこと自体、時代の変化を示しているのかもしれない。

  近年の動向はどうか。ドキュメンタリー映画の隆盛からは身近な社会問題への関心が高くなっていることが、また魏德聖のヒット作《海角七號》からは、かつてのような英雄・美女ではなく、身近な誰にもあり得る等身大の物語が求められていることが分かるという。

  昨年、台湾で大ヒットとなった《我的少女時代》は、単に青春ラブコメディーの王道として面白かっただけでなく、ある特定の年代(具体的には35歳以上)の青春期における思い出を刺激していたところに特徴があった。このような「懐かしさ」志向は、本作《我們的那時此刻》にも共通しているのかもしれない。ただし、一言で「懐かしさ」といってもその内実は複雑だ。例えば、1970年代の愛国映画。そのステレオタイプな殉国精神は、現在の冷めた価値観からすると噴飯ものだが、当時はこれを大真面目に受け止め、感動して軍隊へ志願した若者も少なからずいた。現代の視点からすれば失笑してしまうような愛国的シーンでも、彼らは涙を流す。そこには彼らなりの青春の思い出が刻み込まれていたわけで、安易に嘲笑してしまうわけにもいかない。

  台湾におけるノスタルジーは、世代間の相違だけでなく、こうした歴史的・政治的分断をも抱え込んでいる。《我們的那時此刻》というタイトルにある「我們」とは当然ながら「台湾人」を指すと思われるが(従って、私からすれば《你們的那時此刻》である)、同時にそこには、映画というメディアと台湾という時空間を共有しつつも、その内部で対立を克服しようと相互に不断のコミュニケーションを図り続ける主体としての「我々」意識が込められていると言えるだろう。

(2016年3月23日、台南國賓影城にて)

映画1
映画の看板


映画2
楊力州《我們的那時此刻:華語電影五〇年流金歲月》(遠見天下雜誌、2016年)の書影