台南で少年時代を過ごした映画監督アン・リー(李安)も頻繁に通ったという全美戯院は、現在ではいわゆる二番館的な性格を持った映画館となっているのだが、時折、独立系映画の特別上映会がここで開かれる。2015年8月21日の午後、黃亞歷監督によるドキュメンタリー映画「The MOULIN 日曜日式散歩者」が上映されたので観に行った。
http://asc.tnc.gov.tw/index.php/news/detail/204/

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  映画のタイトル「日曜日式散歩者」は、水蔭萍「日曜日的な散歩者──これらの夢を友、S君に」という日本語で書かれた詩に由来する。以下に引用してみよう。

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僕は静かな物を見るため眼をとぢる……
夢の中に生れて来る奇蹟
回轉する桃色の甘美……
春はうろたへた頭脳を夢のやうに──
砕けた記憶になきついている

青い軽気球
日蔭に浮く下を僕はたえず散歩している

この呆けた風景……
愉快な人々はゲラゲラと笑つて実に愉快ぶつている
彼等は哄笑がつくる虹形の空間に罪悪をひいて通る

それに僕はいつも歩いている
この丘の上は軽気球の影で一パイだ、声を出さずに歩く……
声でも出すとこの精神の世界が外の世界を呼び醒すだらう!

日曜でもないのに絶えず遊んでいる……
一本の椰子が木々の葉の間に街をのぞかせている
絵も描けん僕は歩いて空間の音に耳を傾ける……
僕は僕の耳をあてる
僕は何か悪魔のやうなものを僕の體のうちに聞く……

地上は負つてはいないだらう!
附近の果樹園に夜が下りると殺された女が脱がれた靴下をもつて笑ふといふのに……
白いその凍つた影を散歩する……

さよならをする時間
砂の上に風がうごしい──明い樹影、僕はそれをイリタントな幸福と呼ぶ……
(『台南新報』1933年3月12日)


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  水蔭萍とは、日本統治時代の台南で文学に情熱を燃やしたモダニズム詩人・楊熾昌(1908~1994)のペンネームである。「静かな物を見るため眼をとぢる」──眼前の具象的現実とは異なる、その後景に潜む感覚的な何か。それをつかみ取ろうとしたとき、「何か悪魔のやうなものを僕の體のうちに聞く」。こうした創作態度は、20世紀初頭の思想的雰囲気に鑑みるとフロイト的な発想も容易に見て取ることができようし、さらに確実に言えることとしては、西脇順三郎の主知主義的なシュールレアリスムからの影響が指摘されている(黄建銘《日治時期楊熾昌及其文學研究》台南市立図書館、2005年、251頁)。

  楊熾昌は台南の生まれ。父の楊宜綠は『台南新報』漢文欄の記者であった。なお、1921年6月、佐藤春夫が台南へ来たとき『台南新報』客員記者という身分を持っていたのだが、まだ13歳だった楊熾昌は父の職場へ遊びに行った折に佐藤と面識を得て、台南の名所へしばしば一緒に行ったという。その後、佐藤が台南を舞台として書き上げた小説「女誡扇綺譚」は、楊熾昌にとっても思い出深い作品となり、折に触れて言及している。台南第二中学校在籍中から文学に耽溺し、1930年に東京へ留学、文化学院で学ぶ。翌年末に台南へ戻った後は、文学だけで生活していくのは難しいことから新聞記者になった。

  台湾随一の古都・台南は歴史的伝統を誇る一方、流行文化の受容は比較的遅れていた。そうした中、1933年、楊熾昌を中心とした若き詩人たちは「風車詩社」を結成、同人誌『風車』を創刊した。『風車』という名称には三つの由来があるという。第一に、パリのムーラン・ルージュ(Moulin Rouge)。第二に、台南近郊に広がる、いわゆる塩分地帯で見かけられた風車に心惹かれていたこと。第三に、台湾詩壇に新たな風を吹き込んでやろうという意気込み。

  楊熾昌以外に次の三人の台湾人詩人があげられる。李張瑞(利野蒼、1911~1952)は関廟の出身。台南第二中学校で楊熾昌の同窓生。日本に留学した後、嘉南大圳水利会新化支部に勤務しながら創作活動を行う。林永修(林修二、1914~1943)は麻豆の出身。慶應義塾大学文学部英文科に留学して西脇順三郎に師事、『三田文学』にも寄稿していた。張良典(丘英二、1915~2014)は台湾総督府台北医学校を卒業した医者である。

  映画「日曜日式散歩者」は、彼ら若き詩人たちの視点を通して、1930年代から戦後にかけての台湾における文学史的状況を描き出そうとした、映像叙事詩とも言うべき風格を持った作品である。上映時間は160分にも及ぶ。

  当時の時代的雰囲気がうかがえる資料映像や新たに撮り下ろされたイメージ映像を交互に映し出しながら、『風車』に集った詩人たちの作品が読み上げられていく。そのため、映画オリジナルのセリフは限られている。

  画面には様々な書籍や雑誌が映し出される。『媽祖』『台湾文藝』『台湾新文学』『フォルモサ』『先発部隊』『文藝台湾』『民俗台湾』などの雑誌、そして大東亜文学者会議の光景や『決戦台湾小説集』といった書籍は台湾文学史の年表を示す役割を果たしている(郁達夫や崔承喜の来台といった話題も映画中の会話で示される)。

  西脇順三郎『ヨーロッパ文学』『Ambarvalia』、春山行夫『ジョイス中心の文学運動』、北園克衛『天の手袋』、辻潤『ダダイスト新吉の詩』、三好達治『測量船』、堀口大学、安西冬衛、恩地孝四郎等々といった名前は彼らが手本にした東京の文壇を示し、さらにその先にはジョイス、プルースト、マラルメ、ロートレアモン、エリュアール、ブルトン、コクトー、ベルグソン等々といった、東京の文壇が参照したヨーロッパの新思潮があった。

  ダリ、ピカソ、古賀春江の絵画、あるいはダリとルイス・ブニュエルによる映画「アンダルシアの犬」の眼球を切り裂くシーンは『風車』同人の視覚的イメージを表しているのだろうか。鄧南光の写真を通してモダン都市東京の光景が映し出され、工場の煙突のシーンではアレクサンドル・モソロフ「鉄工場」の未来派的なメロディーが響く(私個人の関心から言うと、江文也「台湾舞曲」「生蕃歌曲集」も映画中で使われていた)。

  こうした日本及びヨーロッパにおける文学・思想・音楽・絵画・映画を切り貼りしたコラージュ的な構成によって、台南にいた彼らも東京を媒介としてヨーロッパの最新文芸思潮に触れることができたこと、言い換えると、芸術における世界的な同時代性に台南といえどもしっかり組み込まれていたことが示されている。

  世界の最新思潮に間接的ながらも触れることで、彼らのイマジネーションは自由に羽ばたいていくことができた。しかしながら、そうした精神的自由に制約のかかる時代がやってくる。日中戦争、そして第二次世界大戦と戦火が拡大する中、軍国主義的な風潮は文学をも政治利用することを正当化した。戦争中の1943年、林修二は故郷の麻豆で病死。戦後、中華民国政府が台湾を接収すると日本語が禁止され、それまで日本語を通して海外文学を学び、自らの作品を生み出してきた彼ら詩人たちは困惑することになる。その上、二二八事件に際して楊熾昌と張良典は一時的に逮捕され、その後に続く白色テロでは李張瑞が銃殺された。

  映画中のセリフの大半は『風車』同人の詩人や同時代の文学者たちの作品を読み上げる形をとっている。とりわけ『風車』同人の作品は象徴主義、ダダイズム、シュールレアリスムの強い影響を受けており、意図的に不自然な表現をしばしば用いるため、人によっては違和感が残るかもしれない。こうした引用によって構成されたセリフ以外に説明的なナレーションはなく、映像中で示されるヒントを手掛かりに時代背景を推測するしかない。そのため、文学史や思想史の予備知識がないと、この映画の内容は少々分かりづらいだろう。

  こうした演出方法は、あるいは一般観衆にとって不親切かもしれない。ただし、風車詩社の詩人たちはシュールレアリスムに関心を寄せており、通常の言語的表現を敢えて崩壊させることで得られる感覚的な手ごたえこそが彼らの求めていたものである以上、そうした感覚を説明的に描こうとすると、それ自体が矛盾をきたしてしまうという問題にどうしても直面することになる。

  文学表現の分かりづらさを芸術の純粋な至高性と捉えるのか、それとも単なる独りよがりに過ぎないと批判するのか。こうした問題は映画中でも写実主義派やプロレタリア文学派との論争において言及されている。「分かりづらさ」の問題以外に、民族運動や社会主義運動といった別次元の対象に文学を従属させることに『風車』同人は批判的であり、あくまでも芸術の純粋性を求めようとした点で、耽美的な傾向を示していた西川満に親近感を抱いていたとも言われる。ただし、それは政治に盲目というのではなく、文学と政治との次元を明確に分離し、多数者の意向に文学を従属させることがあってはいけないというのが基本的な発想だった言えよう。

  依然として古色蒼然たる台南の町で彼らの文学に共鳴する人はほとんど現れず、同人誌『風車』も4号で廃刊することになる。この映画の分かりにくい手法そのものもまた、そうした彼らの味わったであろう孤独感へのオマージュと言えるかのもしれない(なお、風車詩社について日本語で読める文献としては、大東和重「古都で芸術の風車を廻す──日本統治下の台南における楊熾昌と李張瑞の文学活動」[『中国学志』大過号、2013年12月]がある)。