ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

2020年10月

  梅毒は基本的に、性交渉によって感染するとされる。従って、梅毒の感染拡大が統計的に確認できるということは、何らかの形で不特定多数の男女間における直接的接触が頻繁に発生していたことを意味する。


  台湾総督府公文類纂に、明治29年(1896)3月19日、台北県知事・田中綱常の名義で総督府民政局へ提出された梅毒感染状況に関する調査表がある。これは「台北市に於て本年一月一日以降三月十四日迄の梅毒患者取調候処別表の通に有之候」とされている。


表1
出典:「台北市中梅毒患者報告(自二十九年一月一日至二十九年三月十四日)」(1896-03-01),〈明治二十八年開府以降軍組織ニ至ル臺灣總督府公文類纂十五年保存書類第五卷衛生土地家屋戶籍人事軍事〉,《臺灣總督府檔案.總督府公文類纂》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00004490a20。


  上掲表においては男女の区別が示されていない。ただし、日本による台湾統治開始当初は軍政がしかれており、民間人の台湾渡航が許可されるのは1896年4月以降である。同年3月の時点で台湾にいた日本人は官吏や軍人・軍属にほぼ限定されており、建前上、女性の来台者はいなかったはずである。従って、上掲表における「内地人」(日本人)はすべて男性と考えられる。「土人」とは台湾人を指し、こちらも男女の比率は分からない。男性の臨時雇か、それとも商売に従事する現地女性を検査したものか、いずれにせよ、ここに計上されているのは少数である。


  1896年4月に日本人の台湾渡航が開放されて以降の状況について、台湾医療史に詳しい荘永明は次のように書いている。


「性病,俗稱「花柳病」,分「梅毒」、「軟性下疳」、「淋病」、「第四性病」(鼠蹊淋巴腺肉芽腫)等。早期醫學的調查統計,僅限於前三種,因第四種性病的發現較晚。性病傳染,多源於男女不正常或不潔性行為,因此防治多從娼妓著手。1896年,日台由於渡航開放,日本娼妓相繼來台操生,當年六月十七日,亦即「始政」的一周年,《台灣新報》繼報導賣淫人數有二千之譜。日本娼妓渡台之始,為1896年3月31日,台北西門街料理業「養氣樓」開始有人執壺,當局為有效管理淫風,七月一日,在台北城內准設公娼。1897年7月,制定花柳病預防標準,開始性病防治,同時開設婦人病院,檢查性病,取締私娼。1900年法律第八十四號的「行政執行法」,和1919年府令第四十二號的「台灣違警例」,都有關於私娼的取締規定;各州廳對於「貸座敷」及娼妓的取締、檢診及治療也都有所規定。」(莊永明『臺灣醫療史』台北:遠流出版、1998年、頁139-140)


  これによると、同年3月31日の時点で台北においてすでに娼妓の営業が始まっていたことが分かる。ややフライング気味ではあるが、軍政から民政へと転換する前の段階で、違法の形ですでに台北へ来ていた日本人女性もいた。ただし、民間渡航が開放されたとは言っても、女性が日本内地から台湾へ直接渡航するのは難しかったはずで、この時点では、香港で働いていた女性たちが淡水経由で台北へ来ていたようである。


  台湾への日本人渡航開放以前の段階で、在台日本人男性の間ではすでに性病の感染が際立っていた。彼らの相手となった女性は、台湾人であったのか、それとも日本人であったのか? 民政転換直前の時点で日本人娼妓の営業が始まっていたということは、その頃にはすでに違法の形で来台した日本人女性がいたということだが、それは少数の例外的ケースと考えられる。多くの日本人男性が相手としたのは、おそらく台湾現地の女性であったろう。そこで、当時の台北における現地人娼婦の状況について確認したいのだが、資料が見つからないので、今後の課題とする。ただし、井手季和太が領台当時の日本衛生隊の実査記録を引用する形で次のように記している。


「…売春婦は各処に陰顕し、悪性の梅毒に感染し已に第三期に及び、骨迄侵され居る者が市中に甚だ多く…」(井出季和太『南進臺灣史攷』東京:誠美書閣、1943年、69-70頁/復刻版、台北:南天書局、1995年)


  この記述の通りであるとするなら、来台当初の日本人男性には、こうした現地女性との直接的接触を通して梅毒に罹患した者が多かったと考えられる。明治31年(1898)の新聞には次のような記事も見られる。


「榮枯盛衰は是非なきものや軍政の当時非常に跋扈せしイヤ多かりしもの艋舺のみにて土人淫売婦七八百人もあると聞へたるに娼妓貸座敷出来してより自然に貸座敷繁昌を極め之と共に土人査媒の数日一日より減少し目下僅かに二三百人に過ぎず榮枯盛衰は世の免がれざるものか萌出るも枯るるも同じ女郎花何れか秋にあはてはつべきとは夫れ艋舺の売婦を言ふか」(「巷談街說 榮枯盛衰」『臺灣新報』明治31年4月23日、第3面)


  つまり、当初、台北艋舺には「土人淫売婦」(現地台湾人女性)が700~800人いたが、娼妓貸座敷が出来てからは200~300人にまで減少したという。これは、日本人女性による公認の商売が増えたことで、日本人男性客がそちらへ流れたものと解釈できるだろう。次の記事は明治30年(1897)の彰化における状況を伝えている。


「彰化は売淫の風盛にして土人婦の多くは之れを以て生活を営み従て梅毒に感染するもの多く内地人にして病者の十分の三は同病に掛り居り搗て加へて料理店も近来風儀大に乱れ紅裙隊を為して市中を横行し客を咬へ去りては淫を鬻ぐ有様其醜見るべからず風儀斯く乱れては梅毒伝播の怖れあるを以て公娼を許可し断然売淫を厳禁せんとの風評あり」(「彰化通信 賣淫の風正に盛なちんとす」『臺灣新報』明治30年11月16日、第3面)


  この記事を見ると、彰化では「土人婦」が中心であるため、梅毒に感染する者が多く、内地人(この時期においては大半が男性であったはずである)の病人のうち十分の三が梅毒患者であったという。この記事はそう指摘した上で、梅毒感染防止のため公娼制度を施行せよと主張している。


  明治31年(1898)1月7日に総督府民政局衛生課で起案された文書には次のような記述が見られる。


「近来本島に於て花柳病の蔓延甚しく昨年来渡台の内地人の約四分の一は該病に罹り本年に於て更に其数を増加するものの如し」(「密賣淫取締ニ關スル事項中削除ノ件、同上ニ付衛生會ヘ諮問、中央衛生會具申、檢梅ニ關スル訓令中消除、同上ニ關シ取締規則中消除方通牒」(1898-01-13),〈明治三十一年臺灣總督府公文類纂甲種永久保存第九卷衛生土地家屋戶籍人事社寺〉,《臺灣總督府檔案.總督府公文類纂》,國史館臺灣文獻館,典藏號00000248032)


  この調査の前年、つまり1897年の段階で来台した日本人のうち、約四分の一が花柳病、すなわち梅毒などの性病に罹患していたという。これは台湾全島レベルの数字であろう。次に、台湾南部・恒春における明治32年(1899)2月から12月にかけての衛生及医事報告(台南県恒春公医・松山五七郎による定期報告)によるデータが示すが、ここでは次のように書かれている(日本語原文ではなく、中国語訳に拠った)。


「傳染病  去年2月至12月,一年內出現八種傳染病。最多者為瘧疾和花柳病。究其原因,想必除了秘密賣淫者多,還有與未定公娼性病檢查法規、賣淫婦女取締方法偏向採取臺灣舊有方法有關。從目前恆春人口比例觀察居民的罹病情況,其結果實在讓人吃驚。因此就公共衛生而言,期望早日設置公娼。」(張秀蓉編註,《日治臺灣 醫療公衛五十年(修訂版)》,台北市:臺灣大學出版中心,2015年,頁393)


表2
備註:現在酒家女及藝妓人數,日本人十七名,漢人一名。
出典:張秀蓉編註,《日治臺灣 醫療公衛五十年(修訂版)》,臺北:臺灣大學出版中心,2015年,頁393


  このデータを見ると、1899年の時点における恒春城内人口のうち、性病感染者は日本人に偏っている。とりわけ男性に多い。こうした性病は、遊興地における金銭を介在した男女関係を通して感染が拡大したと考えられる。当時の台湾においてそうした遊興地は沿岸の港湾都市に限られ、恒春のような田舎都市ではまだ少なかったであろう。従って、普通の生活を営んでいる現地漢人には感染者がいなかった。言い換えると、日本人男性が他所で感染した性病を恒春にまで持ち込んでいた状況が見て取れる。


  梅毒の世界的感染経路については、まず中国に伝播し、それが後に日本へ伝わったと考えられる。


「我が国に梅毒がいつ伝わったかについては定かでないが、三浦の乱(1510年)以降、明国の南部を荒し廻っていた倭寇が外地の港の遊興の地で梅毒に感染して日本の港の遊女らに感染させ、さらに博多や堺の商人、琉球人たちによって明などから移入され、その後、急速に全国に蔓延したのではないかと考えられている。1492年、コロンブスが率いる遠征隊の船団がハイチ島に到達し、翌年、スペインに帰国するとともに船員によって梅毒が欧州に持ち込まれ、1495年には欧州全域に大流行を起こした。その後、梅毒は1498年にはインドに及び、さらに1505年に中国に伝わったと推定されているので、非常に速いスピードで我が国に伝播したといえよう。」(荻野篤彦「医学的見地からの日本の梅毒今昔」、福田眞人・鈴木則子編『日本梅毒史の研究──医療・社会・国家』思文閣出版、2005年、19頁)


  いずれにせよ、梅毒は海上を往来する船員たちを媒介として世界各地にばらまかれた。先に中国沿海へ伝播していたので、両岸交易が盛んであり、19世紀半ばには開港していた淡水、基隆、台南、打狗といった港湾都市にはすでに梅毒は伝わっていたはずであり、さらに繁華街としての台北においても感染者はたくさんいた。日本統治時代に入ると、日本人男性がこうした場所で梅毒に感染し、台湾各地にばらまいていたと捉えることができる。


  日本統治が開始されたばかりの段階で来台した日本人のほぼすべてが男性であった。彼らの中には現地女性と何らかの直接的接触を持つ者もいたが、それは三つの類型に分けられるであろう。第一に、自由恋愛。第二に、売買春。第三に、強姦。第一の自由恋愛については、言語的コミュニケーションが極めて困難であったことを考えると、仮にあったとしても例外的なものであったろう。第二の売買春に関しては、これまで述べて来たように、性病感染状況を示すデータから、その極めて多かったことが如実にうかがえる。第三の強姦については、法的には台湾接収とされていても、現実には征服戦争としての実態を持っていた以上、戦場心理の興奮状態で強姦が多発したであろうことは推測できる。また、1896年の3月から5月にかけて台湾視察旅行に出かけた笹森儀助の調査報告には次のように記されている。


「戦後以来渡臺の軍夫、工夫、人足等賭博を無上の楽とす故に取締を厳行すれば大半犯罪人となり仕役方中止の勢となるにより現役には従事せしめ、犯罪者は賃銭を渡さざる位にて漸くに済せたり、当局者の語下等社会の現状より観察するときは実に已むを得ざる事実なり、或工夫は土匪の騒擾に乗じ村落に押し込み一支那人の妻女に強〇の処其の婦之を恥として縊死す、其の夫又之を見て憤死せるに就いて一般土人の憤激心を起さしめたりといふ」(笹森儀助『臺灣視察日記・臺灣視察結論』台北:共榮會、1934年、10頁/復刻版、台北:成文出版社、1985年)


  つまり、戦地ばかりでなく、建設に駆り出された人夫からも強姦事件が発生していたことが分かる。いずれにせよ、日本統治が開始されたばかりの台湾において、来台した日本人社会は男性中心で構成されており、彼らの中には現地女性と直接的接触を持つ者が多かったが、それは金銭もしくは暴力によってなされた関係であったと総括することができる。
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  日本による台湾領有当初の時点において来台した無名の民間日本人の動向に関心を持っている。そうした事例の一つとして、どのような女性が早くから台湾へ来ていたのか知りたいのだが、記録が少ない。当時、来台した日本人は官吏もしくは軍人・軍属が中心であったが、彼らの家族はまだ台湾へ来ておらず、従って、竹中信子が記しているように、「台湾の日本女性史は、芸妓・娼妓・酌婦と蔑まれてきた女たちから始まらざるをえないのである」(竹中信子『植民地台湾の日本女性生活史 第一巻・明治篇』田畑書店、1995年、40頁)。1896年4月に軍政から民政へと転換され、一般民間人の台湾渡航が許可されるようになるが、その頃にはすでにこうした女性たちが来台していた。ひょっとしたら、日本の領台以前から開港地(淡水、基隆、安平、打狗)へ来ていた日本人女性もいたのかもしれないが、そこまでは確認のしようがない。


  こうした女性たちの動向は、いわゆる「からゆきさん」の一環として捉えることができよう。幸い、私が在籍している成功大学図書館に、森崎和江『からゆきさん』(朝日文庫、1980年)、山崎朋子『サンダカンの墓』(文春文庫、1977年)、同『愛と鮮血──アジア女性交流史』(光文社文庫、1985年)、矢野暢『「南進」の系譜』(中公新書、1975年)、清水元『アジア海人の思想と行動──松浦党・からゆきさん・南進論者』(NTT出版、1997年)といった書籍が所蔵されていたので、作業手順としては、まずこれらの著作を読み直して背景事情を確認し、次に『臺灣日日新報』で明治期を中心に関連する記事を調べた(なお、山崎『愛と鮮血』及び清水『アジア海人の思想と行動』以外は以前に読んでおり、ブログにも書いていた→こちら)。


  具体的には、上掲書を読みながら「醜業婦」「密航婦」といった当時の表現に留意、これらをキーワードとして『臺灣日日新報』(『臺灣新報』を含む)電子版を検索し、関連記事を調べ上げた。この二つのキーワードだけで明治29年から大正3年までの19年間で113件の記事がヒットした。『臺灣日日新報』の前身たる『臺灣新報』が創刊されたのは明治29年6月だが、その創刊時点から「密航婦」関連の記事が掲載されており、それだけ当時は注目される問題であったことが分かる。悉皆調査をすれば関連記事はもっとたくさん見つかるはずだが、そこまでやる余力はないので、とりあえず、この113件の記事を読み込むだけにとどめておく。


  密航婦取締関連の記事を見ていると、「台湾では金になる」と騙されて連れて来られた女性が多いが、後になると「香港の方がもうかる」と言われて、さらに香港へと密航を図るケースが目立って増えている。当時、香港が女性売買の拠点となっていたようで、香港を根城にした日本人グループが台湾にもネットワークをめぐらしており、台湾から退去処分を受けた者もそうした中で暗躍していた。台湾にいた日本人女性が騙されたケースもあるし、また、日本から直接香港へ行くよりも、台湾経由の方が大陸に近いので比較的容易という事情もあったようである。台湾総督府が民政を開始した時点でも、女性が日本から台湾へ直接渡航するのは難しかったので、香港から淡水・台北へ渡って来たという回想も見られる。


  騙されて連れて来られた女性たちは、香港からさらに東南アジア方面へ売り飛ばされることになり、香港はさながら女性売買の集積場のような役割を果たしていた。『臺灣日日新報』明治31年(1898)9月11日付「香港雜爼」という記事には次のように書かれている。


「頃日香港より帰来したる人の談話に目下香港居留の内地人は三百名以上あるも実際正業に従事するは三井、正金、郵船、商船等の銀行諸会社及恵良写真店位のものにて此人員僅かに五十名斗り其他は旅人宿、醜業婦、同紹介所、同置屋、女衒等のものにて実に帝国臣民たるものの面目を汚す幾何なるを知らず」


  矢野暢『「南進」の系譜』は日本人の南方関与を三段階に分ける中で、第一期(明治期)を「娘子軍」及び彼女たちに寄食するプリミティブな経済様式によって展開されたとしているが(『「南進」の系譜』中公新書、1975年、146頁)、上掲記事における香港日本人社会の状況もこの矢野の指摘に符合している。


  台湾へ来たこうした女性たちには、天草・島原の出身者も目立ち、これは森崎和江『からゆきさん』や山崎朋子『サンダカン八番娼館』の記述と一致する。なお、香港を拠点としたグループについて、天草出身の女性が女性売買グループの元締めとなっていると指摘する記事もあった。かつて売られた女性その人が、今度は売る側にまわるというケースについては、森崎や山崎も言及している。この香港の女性親分は手下を台湾へ派遣して女性の誘拐を行わせていた。


「同地には天草生れの或婦人ありて常に人身の売買をなし香港を中心として厦門新加玻遠くは桑港へ向けて婦女を輸出し其間に立って利益を占むることなるが同人の心ままなる手先を台湾に遣はして何も知らざる無智の婦女を煽動して甘く香港におびきよするとぞ」
「ここに台北艋舺にて娼婦たりし某と云ふは根が熊本下松浦郡と云へる島に生長しものにて例の誘拐人の口車に乗せられ他の三四人の婦女と共に香港へ行き話と見たとは雲泥の相違に辛ふじて再び台湾に逃げ帰へりしよしなるが同人の或者に語りしには初淡水河をジャンクにて出て夜中窃にドグラスの汽船に移って乗込中は存外手厚き待遇を受け格別船中の苦を思はざりしが誘拐せし男の香港の埠頭に着きしときに其政庁の警察官出て来るべければ其際は必ず香港に於て醜業を働く為来れるよしを謂ふべしかまへて人に欺かれて来たなどと云ふことなかれと云はれしままに右の趣を答へたるに何の故障もなく上陸を許され彼の天草生れの老婆の許に行きたり老婆の家には二十四五人の何れも同年輩なる婦人の集合したるは皆其売買先を待ちつつあるものと跡にて知らされき斯くて為すことなく二三日を暮せる内或一娼家に身に投じ呉客越郎に媚を売る売淫婦となりたるが其売られし金と云ふは己れの手には一銭も入ることなくして皆老婆が腹を肥やしぬ」(「香港に於ける我密航婦」『臺灣日日新報』明治32年(1899)6月3日、第5面)


  香港へ女性が連れ去られる具体的な状況については下記の記事にも見られる。


「香港厦門等へ当地から密航を企つる婦人は重に艋舺辺りの遊女なることは従来屡々本紙に載せて報道せし如くなるが彼等は大抵基隆又は淡水より台中台南に移転すると称し隆盛丸又はドクラスの船便にて対岸なる厦門香港へ密航を企つるものなり然るに今度艋舺歓慈市街の新玉楼主人が此の張本人として艋舺警察署に捕へられたる詳細を聞くに同人は香港シタンリイ街に雑貨店を開き傍ら常に醜業婦の媒介及び売買を業とし一ヶ月に二三回宛香港当地間を往復なしつつありたるが猶ほ此男は香港にて尾上義雄、太田某、廣永某の三人を使ひ当地にては新起街一丁目五十四番戸の鎌田里市といふを手先に使ひ何時も本人との相談纏まるときは此輩一人づつ附添て彼の地に至るものなる」(「密航婦誘拐者捕はる」『臺灣日日新報』明治31年(1898)7月26日、第4面)


  このグループが捕まったきっかけは、騙されて香港へ連れていかれた女性の投書であった。彼女は香港に着いたら、自分の想像とは違うことに驚き、言葉は通じず、食べ物にもなれず、不安になっていたところ、上掲記事中の鎌田という男から「二百圓で話がまとまった、これからオーストラリアへ行く」と告げられた。騙されたと今さら気付いてもどうにもならず、絶望の中で艋舺警察署宛に手紙を送ったということである。


  台湾総督府の民政開始、民間人の自由渡航が始まった頃から、商売の女性たちはすでに台湾へ来ていた。彼女たちは台湾に残る者と、上記のように騙されるか、もしくは自らの意志かはともかく、台湾を足掛かりとしてさらに海外へと渡る者とに分かれる。前述したように、日本から香港への直接渡航は港湾での警戒が厳しく、そのため先に台湾へ来て、それから大陸へ渡る女性たちもいた。台湾からはジャンク船で直接渡航する者もいれば、淡水から汽船に乗っていく者もいたようである。台南・安平経由で渡航しようとする女性の中には、台北から陸路一人で歩いてきた人もいるらしい。日本統治開始からまだ一年が経過したばかりの時点で、地域によっては治安がいまだ安定しておらず、相当な危険をおかして行動していた様子がうかがわれる。


「醜業婦等群又群を為して闖入し来る中に潜に淡水辺より身を支那ヂヤンクに托し何れを当てか更に南方に向て密航するもの亦甚だ尠からずと云ふ是亦厳重の取締を要するもの」(「密航」『臺灣新報』明治29年(1896)6月17日、第3面)


「彼等の汽船に依って来りたる者の内には馬関長崎より香港に密航する能はさるか故に仮りに台南に来りジャンクに乗して香港に密航せんと計画し居るものもあり又婦人連中のみにて基隆より陸行し来り中には婦人一人にて陸行し来りたる者もあるといふ其無謀なる実に驚くへし」(「醜業婦」『臺灣新報』明治29年(1896)8月1日、第3面)


「本島内の内地醜業婦数十名は頃日来本島より清国福州地方に渡り同地にて茶菓及び飲食店を開き表面は支那人に茶菓酒肴を勧むるの風をなし其実窃かに密淫売を業とする由なるが右は本島より清国の服装をなしてジャンクにて密航したるものなるも其媒介者は果して内地人なるか支那人なるか未だ詳かならずと」(「醜業婦の渡清」『臺灣新報』明治29年(1896)12月22日、第2面)


「外国出稼の醜業婦は内地に於て警察の取締厳にして外国船に乗り込む事の難きより或は人の妻と偽り若しくは船員となれあふて巧に法網をくぐるものある由なるが茲に彼等は一策を案じ内地より直接出稼することを止め最初臺灣に来り淡水より香港通の蒸気船に乗り目的地に達せんとする者ありとの風聞は真か偽か今や其筋の注意厳なる下にても猶ほ斯かる醜賊の奴輩若し真に有るあらば乍ちにして法網一打せられんのみ」(「密航手段」『臺灣新報』明治30年(1897)3月25日、第2面)


  こうした密航には様々な危険も伴っていた。船底の密閉空間に押し込められて窒息死するというケースもあるし、また渡航中、乗組員に裏切られる可能性だって常にある。例えば、次のような記事もある。


「此程福州より帰り来りし人の談しに拠れば台湾より密航したる長崎天草辺の醜業婦は福州のみに八名あるよしなるが此婦女等は始め密航の際乗船したる支那ジャンク乗組者の為に所持の金品は申すに及ばず赤裸体となして人なき場所に上陸せしめられ詮方なさに人家を尋ねて救護を求めたるも何れも支那人ばかりの事とて見向きもせざるより殆ど死に瀕せんとしたるに米国宣教師某が巡回の折り是れを見とめて右の八名を福州に伴ひ行き夫々手当を施し且つ若干の金品をさへ与へられたれば之れにて家など借りて今は支那人を相手に醜業を営み居るものなりと云ふ」(「密航の醜業歸」『臺灣新報』明治30年(1897)10月31日、第3面)


  台北、基隆、淡水、台南といった主要都市や港湾地ばかりでなく、その他の地域でも女性の数が急増していた傾向が見られる。1896年11月に台湾東部へ派遣された将校の話を採録した記事によると、打狗から卑南へ向かうジャンク船に6人の日本人女性も同乗していたという(河島天橋「生蠻瑣談 日本婦人の勇気」『臺灣新報』明治31年(1898)2月27日、第2面)。日本統治開始から一年が経過したばかりの段階で、台湾東岸には日本人は少なかったはずだが、そうした地域にまですでに女性が来ていた。台湾東岸まで連れて来られた日本人女性の中には、現地漢人や先住民男性を相手に仕事を強制されたケースもあったようである(「卑南の料理店 醜業婦の後悔話し」『臺灣日日新報』大正3年(1914)5月14日、第27面)。


  地方都市の例として、例えば1897年7月時点の嘉義や1898年7月時点の彰化における女性人口の増加について、次のような記事がある。


「城内に於ける内地人の戸数及人口に付て内地人の戸数は諸会社の支代店を加へて凡三十五軒内雑貨商六軒酒店十軒しるこ屋一軒うどん屋一軒旅籠屋大小三軒料理屋は十軒にて醜業婦多く且つ彼等に迷酔する遊野郎多く内地人の人口は官吏の外は職工三十六名商人五十名雑業四十五名婦人は近頃に至り百余名進入せり多くは醜業を目的とする女軍なり」(「嘉義通信 内地人戸口」『臺灣新報』明治30年(1897)7月21日、第4面)


「近来内地人の増加するにつれ醜業婦の入込むもの特に多く宿屋料理屋の如きは一種の魔窟にして其数殆ど五十にも下らざるべし是れが為めにや過般来開業せし貸座敷三戸も余程困却の色あり此際当局者の断然たる処置をこそ望ましけれ」(「彰化通信 醜業婦増加」『臺灣日日新報』明治31年(1898)7月27日、第3面)


  以上の記事からは、民間日本人の人口のうちで、こうした女性の占める割合が急増していた様子がうかがわれる。上記で紹介した矢野暢の指摘を踏まえると、「娘子軍」及びその寄食者がプリミティブな経済様式を展開したという状況が、この日本統治最初期段階の台湾においても見られたように推測できる。少なくとも、在台日本人の人数自体が限られた時期であり、母数が絶対的に少ない以上、こうした女性及びその寄食者たる男性たちが、民間日本人において無視し得ない割合を占めていたようにも思われる。


  後者の彰化に関する記事では、貸座敷と宿屋・料理屋との対比が強調されている。貸座敷は公娼制度の下にあり、宿屋・料理屋では非合法の売春が行われていた。つまり、この記事では非合法の売買春が増えてしまうと、公娼制度の維持が困難になってしまうという観点から批判されている。また、台南在住の新聞記者・河島天橋も、非合法の「醜業婦」の増加に対して、第一に体面の問題、第二に衛生面(梅毒の蔓延)を理由として速やかに遊郭指定地の決定を求める論説を書いている(天橋生「臺南遊郭問題に付」『臺灣新報』明治31年(1898)4月14日、第4面)。


  なお、天橋の記事中に「視よ醜業婦渡来後今日に至るまで自ら紳士を以て居る者所謂藝酌婦と結婚して恬淡たる者幾何数なるを知らず臺灣人にして日本醜婦を購買し妾となしたる者亦五六名に達せりと云ふ」と記されているのが目を引く。当時、台湾には日本人女性が少なかったため、官吏や商売で来ていた日本人男性の中でこうした女性と結婚した人も多かったが、女性の出自を気にかけ、故郷に連れて帰るのを躊躇する、という趣旨の話を何かの資料で読んだ記憶がある。また、この記事からは、台湾人有力者の中で日本人女性を妾にしていた者がすでにいたことも確認できる。


  いずれにせよ、日本の台湾統治が始まったばかりの段階において、来台した日本人の大半は官吏や軍人・軍属であり、従って男性中心の構成となっていた。女性が極めて少ない中、彼らの欲望のはけ口として、こうした女性たちの流入が事実上黙認されていた。ただし、体面や衛生上の問題から批判も惹起され、そうした矛盾の中で公娼制度の実施が支持された。なお、当時来台した日本人男性と現地人女性との関係がどうであったのかは、また別途検討する必要があるかもしれない。


  こうした当時の台湾の状況について、森崎和江の文章を引用しておく。


「日清戦争によって日本は台湾を植民地とした。それまで上海や香港へ送られていた娘たちはここへ上陸させられるようになった。」
「『台湾に於ける公娼は果して設立さるるや否や』と新聞が書きだした。ここへ渡る娘たちは、周旋人から、総督府ではハンカチづくりや縫物のために日給五十銭のほか前借金百円を渡して募集中である、などときかされて渡るのだった。そして業者はここで娘に台湾人のような衣服を着せて、ひそかに売春をさせた。かれらはこのようにして公娼制が実施されるのを待った。」
「台湾の公娼制実施について支配層がどのような意識をもっていたか。」
「『比志島少将が一昨日渡台の途次、馬関に於て、台湾公娼のことに関し或る人の問に答へて曰く。当時台湾に渡航するもの日一日と其数を増加すると共に、此等渡航人の実況を視るに、商売人は勿論、官吏に至る迄永久台湾に住する目的を以て渡航するものなく、大抵は一時の腰掛となし、聊かの利益を得れば内地に帰るものの如し。』」
「『台湾をして速かに内地同様の域に進めんとせば、夫の北海道に於けるが如く、内地人が全戸を挙げて移住せざるべからず。今日の渡航者が悉く腰掛的なるは種々の原因あるべけれども、台湾に内地婦女のあらざる如き、その一ならん。』」
「『内地の婦女にして続々渡航するに至らば、永久居住の人も生ずるならんが、今日の景気にては未だ内地婦女子の多数が渡航する如きことは望むを得ず。故に娼妓を設け、内地より婦女を輸入する如きは、内地人の足を止むる方便にして、台湾の進歩上必要のことならん。故に台湾に公娼を設け、密淫売を防ぎ、検海の法を厳にし、梅毒の蔓延を防ぐは衛生上よりするも緊要のことなるべし』(明治二十九年四月二日、門司新報)」
「わたしは思う。『内地人の足を止むる方便』なればこそ、『海外醜業婦』を黙認しつづけ、朝鮮、清国に移民保護法を適用せず、新領土に公娼制を必要としたのだと。この意図のもとに、やがて台湾の女たちが日本の男によって、東南アジアへつれだされるようになる。」(森崎和江『からゆきさん』朝日文庫、1980年、102-103頁)
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  『谷川健一著作集 第三巻 民俗学篇Ⅲ 柳田学と折口学』(三一書房、1983年)を読んでいたら、笹森儀助についての文章が三篇収録されていた(「無私の旅人・笹森儀助」「笹森儀助・辺境の踏査者」「笹森儀助と土着民権」)。笹森は『臺灣視察日記』を書いていたのを思い出し、この機会に目を通した。「中国方志叢書・台湾地区・第112号」として戦後に復刻された笹森儀助『臺灣視察日記・臺灣視察結論』(台北市:成文出版社、1985年)には、戦前に出版された刊本(台北市:共榮會、1934年)と笹森の自筆原稿の両方が収録されている。


  笹森は明治29年(1896)、つまり日本が台湾を領有した翌年の3月25日から5月15日にかけて台湾視察旅行に出かけた。彼は当時、奄美大島の島司を務めていたが、砂糖の豊富な産地である台湾を日本が領有すると、やはり黒糖産地である奄美大島にもたらす影響が甚大なのではないかという心配があり、早速、視察に出かけたという。しかしながら、彼はそもそも日本の周辺各地を自らの足で踏破した調査者として有名な人物であり、視察はおそらく名目で、台湾という土地への好奇心が強かったのかもしれない。台湾視察での見聞を彼は「台湾視察日記」「台湾視察結論」という二篇にまとめ、これは拓殖務大臣・高島鞆之助宛に提出されている。


  笹森は前年の1895年11月28日の時点で大本営から視察出張の許可を得て1896年1月には出発の予定だったようだが、いわゆる「土匪」蜂起のためしばらく延期、3月25日に奄美大島・名瀬港を出帆した。鹿児島を経由して、4月1日に下関港から出航、60時間かけて同月5日に基隆へ到着した。その後、台北、桃園、台中、彰化、嘉義、台南、打狗を経て澎湖へ渡り、基隆を経由して5月15日に奄美大島へ帰還した。


  「視察日記」には毎日のできごとや各地における印象が記され、「視察結論」では自らの見聞に基づいた政策提言を行っている。政策提言は主に、1.土地測量、所有権を明確にする必要、2.鉄道建設、3.道路開設、4.官舎新築、5.原住民政策の五点にまとめられるが、それほど特別なことは言っていない。また、「視察日記」中に見える記述も、伝聞に基づく印象論が多いため、今となってはそれほど参考にはならない。ただ、当時の在台日本人に関する記述は史料として使えるかもしれないのでメモしておく。


  1896年4月に軍政から民政へ転換したのに伴い、官吏の俸給が三割増しとされたものの、食事の官給が廃止された。つまり、自炊か外食で賄えということだが、台湾で日本人が購入できる物資の価格水準が高いため、実質的には待遇の切り下げであり、在台官吏の間で不満が高まっていた。住環境も良くないので、10人中8、9人までが日本内地へ早く帰りたいと言っていたという。


「四月五日臺灣基隆港著に際し、應募渡臺の巡査皆云ふ東京に於て募集の際云々の支給と云て、我等を釣り、今や食言、減給の達しを為すとは意外千萬、上陸を拒絶すべしと一時は非常の激情なり 先を争ふて渡臺仕官を求むるの形勢が、議会の結果にて如斯変するとは感慨憂慮禁すべからざるもの之を久しふす」(54頁)


「四月一日より自炊の不便あり、住民内地の習慣と殊なり、飲食什器異なり、酒異なり、外出するも言語通せす、衣服殊なれば一も快楽なし、加ふるに麻剌利亜熱と云ふ大敵あり、不健康の人、強気ならざる人、不養生の人、皆該病の襲ふ処となる然して四月一日より月給三割増を以て食費官給を廃す、官吏の総ては嫌厭の心を生じ、十の八九足を洗ふて内地に帰るを希望す、無理なる事にあらずと信せり」(55頁)


「曩きに征臺の初め、多数の人渡臺奉職を望むも、本年四月一日改正以来一頓挫を来し、初め渡臺の人も今は郷里に帰るを希望す、俸給三割増の決議も、月俸五十圓以内の官吏の帰心を止るに足らず、是現時の形勢なり、言語通ぜず、風俗異なる遠海の孤島に、炎熱瘴癘毒のある処に、誰か悦で行くを欲する者あらん、故に是迄渡臺の官吏、多くは一時の急を救ふて数年の勤番を務め、多少の資本を得て内地に帰るの情あるや元よりなり、今日を以て推せば、自今十数年間、臺灣の形勢は猶ほ吾人共に外国視するの観念消せざるや又た論なし、此際に当て在官者安心して爰を墳墓と為すの決心なくんば、頑固剽悍利の為めに死を顧ざる動物的の人心を鎮圧するに足らず…」(63-64頁)


  つまり、官吏が永住できるよう条件を整えろ、ということである。


  通訳の困難について。
「言語を異にし、風俗を異にし、季候を異にし、人情気質を異にし、衣食住を異にす、一も内地の情体を以て推測断定を下すべきものなし、臺灣視察の困難なる実に想像の及ぶ所にあらず、一時を査する通訳官の介んい寄る、其の通訳官の多くは大低北支那の官話に過ぎず、之を介して臺灣土語を能くする通訳官に介し、夫より実地の談に渡るを得るや、又また生蕃人に至ては、之れに加ふるに生蕃の通訳官を介せざれば能はず、故に三人の通訳官を待て僅に生蕃の一事を解するを得、又た困難の極にあらずや」(68頁)


  官吏や軍人以外に作業要員として軍属も台湾へ来ていたが、その風紀が乱れていたことも大きな問題であった。


「戦後以来渡臺の軍夫、工夫、人足等賭博を無上の楽とす故に取締を厳行すれば大半犯罪人となり仕役方中止の勢となるにより現役には従事せしめ、犯罪者は賃銭を渡さざる位にて漸くに済せたり、当局者の語下等社会の現状より観察するときは実に已むを得ざる事実なり、或工夫は土匪の騒擾に乗じ村落に押し込み一支那人の妻女に強〇の処其の婦之を恥として縊死す、其の夫又之を見て憤死せるに就いて一般土人の憤激心を起さしめたりといふ」(10頁)


  日本人商人も台湾へ来ていたが、彼らは官吏や軍属を相手に商売するだけ。しかも、現地漢人商人の売り物の方が安いから、日本人商人は商売競争で負けていた。


「顧て商人社会の形勢を見れば、各城内日本商人の拠る処となるも、皆内地人目的の商法にて、官吏軍人土方人夫を相手に営業するのみ、然るに現今は折角目的の官吏社会も、日本品を買ふに方り支那商人に買へば一二割安価にて売り、内地商人は高価と云ふて以て、繁昌するは支那商人のみなり」(55-56頁)


  台湾総督府は西洋人を優遇していた。そのため、現地漢人の間では西洋人の名義を借りて商売する人もいたようである。


「村落に入れば土人利口連の悪口に左の言を為す、曰く日本政府我等に対して宥恕なく厳重に取締れども、西洋人と言へば一も二もなく寛大否寛大にあらず放任するなり、依て気のききたる支那人は西洋人の名を借りて営業すれば万事都合宜しき故、少し資産のある者は皆此例を習ふに至るべし」(11頁)


  笹森は1896年4月30日に台南へ到着し、古荘知事を訪問した後に、同郷人、斎藤芳風の案内で、鄭成功廟(延平郡王祠)を参拝したのだが、「樺山総督寄附の額面及幕あり」(38頁)と記されている。つまり、樺山資紀が延平郡王祠に送った扁額があったというのだが、これは現存しているのだろうか?


  それから、台南廳知事の古荘嘉門と談話した際、古荘が「台東に大原野あり、今後臺灣の仕事は此拓殖事業にあるべし、又天日製の塩業の盛大なる期して望みあり」(38頁)と語っていたということもメモしておく。台湾東岸開発に意欲を持っていたこと、それから塩田開発にも重きを置こうとしていたことが分かる。
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  1895年、日本が台湾を領有した当初、来台した日本人の大半は軍人や行政官であった。台湾総督府は1896年4月まで軍政を敷いており、原則としては民間人の来台は禁止されていたが、物資調達・運輸・建築などの必要から民間人も軍属の身分で来台していた。軍人や行政官に関しては総督府公文類纂に関連する文書も残されており、ある程度は分かる。他方で、軍属の身分で来台した民間人については、正規の記録が少ないため、よく分からない。


  軍人や行政官の来台した動機に関しては、職務なのだから明白である。では、自発的に来台した民間人の場合、どんな人たちが、どんな動機で台湾へ来て、何を考えていたのか──そこを知りたいと以前から思っていた。台湾で成功し、回想録を残した人たちもいるので、それらがまず貴重な資料となる。さらに、日本へ帰った人たちの回想も参照できれば、なお面白い。


  宮本常一『忘れられた日本人』(岩波文庫、1984年)に収録された「世間師(1)」という一文では、宮本の故郷・周防大島で話を聞いた世間師について紹介されている。世間師というのは、村から外に出て、外界を渡り歩いて経験を積み重ねた人のことを言うらしい。「日本の村々をあるいて見ると、意外なほどその若い時分に、奔放な旅をした経験をもった者が多い。村人たちはあれは世間師だといっている。」(宮本常一『忘れられた日本人』、214頁)そうした世間師の一人、増田伊太郎は日本の台湾領有時、大工として台湾へ来た経験があった。


  増田伊太郎は1865年の長州征伐で人夫として狩りだされたとき14歳だというから、1852年前後の生まれであろう。これが島から出た最初の経験だが、長州征伐が終わると、今度は四国へ渡り、木挽になって伊予から土佐の山中で出稼ぎをした。木を伐り、板にする仕事で、多くは船材であったという。木挽を七、八年ほど続けたが、山の生活がつまらなくなったので、大工に弟子入りし、一人前になった。


「そうしたところへ西郷騒動(西南戦争)がおこった。そうして熊本の町が丸焼けになった。その町の復興のために、大工や人夫がたくさん必要だという噂がつたわって来ると、大工や左官、石工などが群れになってどしどし下っていった。伊太郎もその中の一人であった。」

「熊本の復興は目に見えて早かった。伊太郎は町の郊外の村長のうちの納屋を借りて、そこから仕事場へ通った。この村長は西郷びいきで、征韓論に大賛成で、西郷の征韓論が勝てば、自分も槍をひっさげて朝鮮へわたるつもりであったが、子分というか家来というか仲間の者が千人近くもいたという。西郷騒動の時には当然西郷の方へつくべきはずだが、つかなかったのは下手をして死んでしまっては朝鮮征伐ができないと考えていたからであった。伊太郎はこの村長の大法螺が真からすきであった。出稼職人の野放図な伊太郎もまたこの村長に愛されたようである。」(本書、230頁)


  ここで興味を引くのは、伊太郎が大工仕事で熊本に滞在していたとき、宿主となった村長がさかんに征韓論を吹聴していたことである。日本国内だけでなく、海外にも仕事の機会はあるという発想は、この頃に伊太郎の脳裏に芽生えたのかもしれない。


  その頃、伊太郎も含めた若い大工仲間たちは、村の娘のもとへさかんに夜這いをかけていたという。そして、夜這いのついでに鶏を盗んで食べたりもしていた。鶏はたくさんいたので、これを盗んだこと自体はそれほど問題化しなかったようだが、ただし、「戸じまりが厳重になったため、娘のところへ夜這いに行けなくなってしまった。すると若い大工どもは、もう面白みがなくなったと言って追々引きあげていったのだが、伊太郎だけはかえらなかった。夜這いができなくなったら、村長の仲人で、すきな娘と結婚して入婿になってしまったのである。」(231頁)


  ところが、伊太郎には故郷にも妻がいた。二年たっても帰郷しないので、結局、連れ戻されたという。その後、知人について鹿児島へ行き、大工仕事をした。当時、鹿児島からは役人・軍人として東京へ行く者が多かった。仕事ぶりが認められて誘われ、東京へ行った。東京では鹿児島出身の海軍士官の家をたてて歩いた。濃尾地震の復興でも大工仕事に従事し、一通り片付いたところで、郷里へ戻った。その後、妻を連れて山口へ仕事に行ったところ、日清戦争が勃発する。一緒に仕事をしていた仲間から誘われ、妻子は郷里へ返し、自身は台湾へ渡ることにした。


「そうして門司から船にのった。乗客は台湾で一旗あげようというもので一ぱいであった。」

「その頃まで芸人たちは船賃はただであった。そのかわり船の中で芸を見せなければならなかった。昔は遊芸の徒の放浪は実に多かった。それは船がすべてただ乗りできた上に、木賃宿もたいていはただでとめたからである。だからいたって気らくであって、いわゆる食いつめる事はなかったし、また多少の遊芸の心得があれば、食いつめたら芸人になればよかった。だから「芸は身を助ける」と言われた。芸さえ知っておれば飢える事もおいてけぼりにされる事もなかった。台湾へわたる船の中でも、そうした芸人たちが歌ったりおどったり手妻(手品)をして見せてくれるので退屈どころか、いつキールンへついたかわからぬほどだった。」

「キールンへつくと台北へいった。仕事はいくらでもあった。総督府というものができるのでまずその仕事をした。そのほか軍隊の兵舎をたてたり。」

「その頃は伊太郎も棟梁になっていて大工五、六人で帳場をもっていた。請負師から仕事をもらって帳場をたて、工事の一部分をまかされて仕事をするのである。いたって野放図で行きあたりばったりの男だが、仕事だけは実によい仕事をし、また責任を負ってやった。そこですぐ相手に気に入られ信頼され大事にされた。だから仕事がなくて困ったという事はなかったが、女のいないのに困った。台湾人の女は様子がわからぬし、日本から来たあばずれの淫売女には手を出す気がしなかった。よいのはやっぱり百姓の娘で、心やすくなると何から何まで身のまわりの事までしてくれるのが一ばんありがたかったし、つい夫婦気どりになってしまうのである。台湾ではそれがなかったので面白くなかった。」

「それで台湾をひきあげる事にして下関まで戻って来ると朝鮮へわたる大工仲間におうた。その頃日本はこの半島にもだんだん勢力をのばしつつあり、釜山や仁川へはたくさんの人がわたっていた。伊太郎も同僚から朝鮮の話をきくとつい自分も行く気になった。そして玄界灘で大時化におうて死に生きの目におうたが、どうやらたすかって釜山につき、そこから仁川へいって京城へはいった。西郷騒動のあと、肥後でよく話をきかされた朝鮮へとうとうやって来たのである。しかし思ったほどの事もなかった。それで一年あまりで引きあげて来た。」(本書、234-236頁)


  日本へ帰ってからは、大坂や北九州でしばらく稼いで暮らしたらしい。以上の伊太郎の回想には、本書収録の「土佐源氏」を彷彿とさせる色っぽい味付けも見られるが、私は次の五点に関心を持った。第一に、簡略ながらも伊太郎という一人の人物のライフヒストリーを通して、当時、台湾へ来ていた出稼ぎ労働者の雰囲気の一端が垣間見える。第二に、当時の日本には村から出て世間を渡り歩く「世間師」と呼ばれる人々がおり、彼らも軍属の人材供給源になっていた。第三に、戦災や地震などの復興需要という形で仕事があり、そうした中を渡り歩く大工が台湾へも来ていた。第四に、伊太郎は熊本滞在時に海外へ行くという発想を得ていた。第五に、「日本から来たあばずれの淫売女」という記述から、日本人女性が非合法の形で台湾へ来ていた様子もうかがわれる。

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  今学期履修している授業の一つ、臺灣史料専題研究で、高雄田寮出身の詩人・呂自揚老師が「田寮人的歷史故事與習俗」と題して講演された。田寮は高雄市の台南市と接した山地に位置している。様々な話題を通して田寮という地域の来歴が精彩に語られるのを聴くことができたのだが、その中で私が興味を持った話題の一つに地名がある。呂老師は田寮の地名の来歴について次のように分類されていた。


一、平埔語地名:冬糕蚋(東安老)、古壇坑(古亭坑)、狗勻昆(崇德)、擺東
二、福佬語地名:田寮、頂寮、尾寮、水蛙潭、大坵園、南勢湖
三、與糖廍有關地名:看牛寮、牛稠埔、牛磨灣、廍洋
四、祖師田
五、叛產


  田寮はもともと平埔族が居住していた地域である。田寮近辺にはシラヤ族が住んでいた。漢字と、ローマ字表記されたシラヤ語とで記された契約文書、いわゆる新港文書は、田寮でも見つかっている。清代に入り、閩南(福佬)系漢族の進出に伴って、ある者はこの地を去り、ある者は漢姓に変えて同化した。ただし、漢族系は男性中心で、地元平埔族女性と婚姻したため、田寮の住民にはたいてい平埔族系の血統が流れているとも言われる。いずれにせよ、こうした異なる文化層の重なった地域特性として、シラヤ語の発音を漢字表記した地名と、閩南(福佬)語系の地名とが混在しているというのが興味をそそられる。こうした文化的多元性がそこかしこで見えてくるというのが台湾の面白さである。


  もう一つ興味を持ったのは、糖廍と関係する地名として「牛」のつくものが散見されることである。台湾の製糖業で機械動力が導入されたのは日本時代に入ってからであり、それ以前の家内工業的な製糖作業所を「糖廍」と呼ぶ。糖廍では石臼を使ってサトウキビの圧搾を行う際、縄でつながれた牛に挽かせていた。その名残が地名として残っているというわけである。


  先日、日本の民俗学者が書いた本を濫読していたのだが、その中で「牛の道」という表現が出てきたのを思い出した。近代以前、当然ながらモータリゼーションなど始まっていなかったはるか以前、交通・運搬手段として馬が使われた。馬の通る道は比較的整備されていたが、馬でも通行が難しい山地では、運搬手段として牛が重宝されていたという。険しい山地の合間で細々と続く道が「牛の道」と表現されていた。


  田寮では、石灰岩が多いという地質的条件から露出した岩肌の切り立った場所が多いため、「悪地」とされる。他方で、そうした独特な地形からかもしだされた美観は「月世界」とも呼ばれる。呂老師が今日の講演で見せてくれた田寮の古写真のうちの一枚に、そうした岩肌の切り立った上の尾根道を、牛を引いて歩く人の姿が映されていた。確かに馬では通れない。ノロノロと、しかししっかりと土を踏みしめる牛でなければ、あの急勾配の傾斜面を登りきれるものではない。


  糖廍における動力にせよ、険峻な悪地における運搬にせよ、細々と産業開発の努力がなされていた地域において、牛の存在感はやはり圧倒的であったのだろうと思われる。貴重な労働力としての牛は、一緒に働く仲間として牛を見る眼差しにつながったろうし、それは台湾における牛肉食タブーの一因としてもよく指摘される。


  牛の地名の由来としてもう一つ思い浮かんだのは、「土牛」である。これは動物の牛ではない。清代、山地防備にあたって土を盛って整備された堡塁が、横たわった牛の姿に似ているので「土牛」と呼ばれていた。確か、柯志明『番頭家:清代臺灣族群政治與熟番地權』(修訂再版、中央研究院社会学研究所、2002年)を読んだとき目にしたように記憶しているが、清代の山地治安政策において、漢族─平埔族─山地原住民という三層制族群分布構造が形成されたという脈絡の中で出てきた。山地で見られる牛にまつわる地名の場合、清代において漢族/原住民族がせめぎ合っていた地帯であれば、この「土牛」に由来する可能性はあるように思う。


  そもそも、土の堡塁を牛に見立てたというのも、それだけ牛の存在が身近だったからであろう。台湾の歴史や文化では、牛にまつわる表現や習慣が実に多く見られる。台湾を理解するキーワードの一つとして、牛もまた極めて重要である。

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