梅毒は基本的に、性交渉によって感染するとされる。従って、梅毒の感染拡大が統計的に確認できるということは、何らかの形で不特定多数の男女間における直接的接触が頻繁に発生していたことを意味する。
台湾総督府公文類纂に、明治29年(1896)3月19日、台北県知事・田中綱常の名義で総督府民政局へ提出された梅毒感染状況に関する調査表がある。これは「台北市に於て本年一月一日以降三月十四日迄の梅毒患者取調候処別表の通に有之候」とされている。
出典:「台北市中梅毒患者報告(自二十九年一月一日至二十九年三月十四日)」(1896-03-01),〈明治二十八年開府以降軍組織ニ至ル臺灣總督府公文類纂十五年保存書類第五卷衛生土地家屋戶籍人事軍事〉,《臺灣總督府檔案.總督府公文類纂》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00004490a20。
上掲表においては男女の区別が示されていない。ただし、日本による台湾統治開始当初は軍政がしかれており、民間人の台湾渡航が許可されるのは1896年4月以降である。同年3月の時点で台湾にいた日本人は官吏や軍人・軍属にほぼ限定されており、建前上、女性の来台者はいなかったはずである。従って、上掲表における「内地人」(日本人)はすべて男性と考えられる。「土人」とは台湾人を指し、こちらも男女の比率は分からない。男性の臨時雇か、それとも商売に従事する現地女性を検査したものか、いずれにせよ、ここに計上されているのは少数である。
1896年4月に日本人の台湾渡航が開放されて以降の状況について、台湾医療史に詳しい荘永明は次のように書いている。
「性病,俗稱「花柳病」,分「梅毒」、「軟性下疳」、「淋病」、「第四性病」(鼠蹊淋巴腺肉芽腫)等。早期醫學的調查統計,僅限於前三種,因第四種性病的發現較晚。性病傳染,多源於男女不正常或不潔性行為,因此防治多從娼妓著手。1896年,日台由於渡航開放,日本娼妓相繼來台操生,當年六月十七日,亦即「始政」的一周年,《台灣新報》繼報導賣淫人數有二千之譜。日本娼妓渡台之始,為1896年3月31日,台北西門街料理業「養氣樓」開始有人執壺,當局為有效管理淫風,七月一日,在台北城內准設公娼。1897年7月,制定花柳病預防標準,開始性病防治,同時開設婦人病院,檢查性病,取締私娼。1900年法律第八十四號的「行政執行法」,和1919年府令第四十二號的「台灣違警例」,都有關於私娼的取締規定;各州廳對於「貸座敷」及娼妓的取締、檢診及治療也都有所規定。」(莊永明『臺灣醫療史』台北:遠流出版、1998年、頁139-140)
これによると、同年3月31日の時点で台北においてすでに娼妓の営業が始まっていたことが分かる。ややフライング気味ではあるが、軍政から民政へと転換する前の段階で、違法の形ですでに台北へ来ていた日本人女性もいた。ただし、民間渡航が開放されたとは言っても、女性が日本内地から台湾へ直接渡航するのは難しかったはずで、この時点では、香港で働いていた女性たちが淡水経由で台北へ来ていたようである。
台湾への日本人渡航開放以前の段階で、在台日本人男性の間ではすでに性病の感染が際立っていた。彼らの相手となった女性は、台湾人であったのか、それとも日本人であったのか? 民政転換直前の時点で日本人娼妓の営業が始まっていたということは、その頃にはすでに違法の形で来台した日本人女性がいたということだが、それは少数の例外的ケースと考えられる。多くの日本人男性が相手としたのは、おそらく台湾現地の女性であったろう。そこで、当時の台北における現地人娼婦の状況について確認したいのだが、資料が見つからないので、今後の課題とする。ただし、井手季和太が領台当時の日本衛生隊の実査記録を引用する形で次のように記している。
「…売春婦は各処に陰顕し、悪性の梅毒に感染し已に第三期に及び、骨迄侵され居る者が市中に甚だ多く…」(井出季和太『南進臺灣史攷』東京:誠美書閣、1943年、69-70頁/復刻版、台北:南天書局、1995年)
この記述の通りであるとするなら、来台当初の日本人男性には、こうした現地女性との直接的接触を通して梅毒に罹患した者が多かったと考えられる。明治31年(1898)の新聞には次のような記事も見られる。
「榮枯盛衰は是非なきものや軍政の当時非常に跋扈せしイヤ多かりしもの艋舺のみにて土人淫売婦七八百人もあると聞へたるに娼妓貸座敷出来してより自然に貸座敷繁昌を極め之と共に土人査媒の数日一日より減少し目下僅かに二三百人に過ぎず榮枯盛衰は世の免がれざるものか萌出るも枯るるも同じ女郎花何れか秋にあはてはつべきとは夫れ艋舺の売婦を言ふか」(「巷談街說 榮枯盛衰」『臺灣新報』明治31年4月23日、第3面)
つまり、当初、台北艋舺には「土人淫売婦」(現地台湾人女性)が700~800人いたが、娼妓貸座敷が出来てからは200~300人にまで減少したという。これは、日本人女性による公認の商売が増えたことで、日本人男性客がそちらへ流れたものと解釈できるだろう。次の記事は明治30年(1897)の彰化における状況を伝えている。
「彰化は売淫の風盛にして土人婦の多くは之れを以て生活を営み従て梅毒に感染するもの多く内地人にして病者の十分の三は同病に掛り居り搗て加へて料理店も近来風儀大に乱れ紅裙隊を為して市中を横行し客を咬へ去りては淫を鬻ぐ有様其醜見るべからず風儀斯く乱れては梅毒伝播の怖れあるを以て公娼を許可し断然売淫を厳禁せんとの風評あり」(「彰化通信 賣淫の風正に盛なちんとす」『臺灣新報』明治30年11月16日、第3面)
この記事を見ると、彰化では「土人婦」が中心であるため、梅毒に感染する者が多く、内地人(この時期においては大半が男性であったはずである)の病人のうち十分の三が梅毒患者であったという。この記事はそう指摘した上で、梅毒感染防止のため公娼制度を施行せよと主張している。
明治31年(1898)1月7日に総督府民政局衛生課で起案された文書には次のような記述が見られる。
「近来本島に於て花柳病の蔓延甚しく昨年来渡台の内地人の約四分の一は該病に罹り本年に於て更に其数を増加するものの如し」(「密賣淫取締ニ關スル事項中削除ノ件、同上ニ付衛生會ヘ諮問、中央衛生會具申、檢梅ニ關スル訓令中消除、同上ニ關シ取締規則中消除方通牒」(1898-01-13),〈明治三十一年臺灣總督府公文類纂甲種永久保存第九卷衛生土地家屋戶籍人事社寺〉,《臺灣總督府檔案.總督府公文類纂》,國史館臺灣文獻館,典藏號00000248032)
この調査の前年、つまり1897年の段階で来台した日本人のうち、約四分の一が花柳病、すなわち梅毒などの性病に罹患していたという。これは台湾全島レベルの数字であろう。次に、台湾南部・恒春における明治32年(1899)2月から12月にかけての衛生及医事報告(台南県恒春公医・松山五七郎による定期報告)によるデータが示すが、ここでは次のように書かれている(日本語原文ではなく、中国語訳に拠った)。
「傳染病 去年2月至12月,一年內出現八種傳染病。最多者為瘧疾和花柳病。究其原因,想必除了秘密賣淫者多,還有與未定公娼性病檢查法規、賣淫婦女取締方法偏向採取臺灣舊有方法有關。從目前恆春人口比例觀察居民的罹病情況,其結果實在讓人吃驚。因此就公共衛生而言,期望早日設置公娼。」(張秀蓉編註,《日治臺灣 醫療公衛五十年(修訂版)》,台北市:臺灣大學出版中心,2015年,頁393)
備註:現在酒家女及藝妓人數,日本人十七名,漢人一名。
出典:張秀蓉編註,《日治臺灣 醫療公衛五十年(修訂版)》,臺北:臺灣大學出版中心,2015年,頁393
このデータを見ると、1899年の時点における恒春城内人口のうち、性病感染者は日本人に偏っている。とりわけ男性に多い。こうした性病は、遊興地における金銭を介在した男女関係を通して感染が拡大したと考えられる。当時の台湾においてそうした遊興地は沿岸の港湾都市に限られ、恒春のような田舎都市ではまだ少なかったであろう。従って、普通の生活を営んでいる現地漢人には感染者がいなかった。言い換えると、日本人男性が他所で感染した性病を恒春にまで持ち込んでいた状況が見て取れる。
梅毒の世界的感染経路については、まず中国に伝播し、それが後に日本へ伝わったと考えられる。
「我が国に梅毒がいつ伝わったかについては定かでないが、三浦の乱(1510年)以降、明国の南部を荒し廻っていた倭寇が外地の港の遊興の地で梅毒に感染して日本の港の遊女らに感染させ、さらに博多や堺の商人、琉球人たちによって明などから移入され、その後、急速に全国に蔓延したのではないかと考えられている。1492年、コロンブスが率いる遠征隊の船団がハイチ島に到達し、翌年、スペインに帰国するとともに船員によって梅毒が欧州に持ち込まれ、1495年には欧州全域に大流行を起こした。その後、梅毒は1498年にはインドに及び、さらに1505年に中国に伝わったと推定されているので、非常に速いスピードで我が国に伝播したといえよう。」(荻野篤彦「医学的見地からの日本の梅毒今昔」、福田眞人・鈴木則子編『日本梅毒史の研究──医療・社会・国家』思文閣出版、2005年、19頁)
いずれにせよ、梅毒は海上を往来する船員たちを媒介として世界各地にばらまかれた。先に中国沿海へ伝播していたので、両岸交易が盛んであり、19世紀半ばには開港していた淡水、基隆、台南、打狗といった港湾都市にはすでに梅毒は伝わっていたはずであり、さらに繁華街としての台北においても感染者はたくさんいた。日本統治時代に入ると、日本人男性がこうした場所で梅毒に感染し、台湾各地にばらまいていたと捉えることができる。
日本統治が開始されたばかりの段階で来台した日本人のほぼすべてが男性であった。彼らの中には現地女性と何らかの直接的接触を持つ者もいたが、それは三つの類型に分けられるであろう。第一に、自由恋愛。第二に、売買春。第三に、強姦。第一の自由恋愛については、言語的コミュニケーションが極めて困難であったことを考えると、仮にあったとしても例外的なものであったろう。第二の売買春に関しては、これまで述べて来たように、性病感染状況を示すデータから、その極めて多かったことが如実にうかがえる。第三の強姦については、法的には台湾接収とされていても、現実には征服戦争としての実態を持っていた以上、戦場心理の興奮状態で強姦が多発したであろうことは推測できる。また、1896年の3月から5月にかけて台湾視察旅行に出かけた笹森儀助の調査報告には次のように記されている。
「戦後以来渡臺の軍夫、工夫、人足等賭博を無上の楽とす故に取締を厳行すれば大半犯罪人となり仕役方中止の勢となるにより現役には従事せしめ、犯罪者は賃銭を渡さざる位にて漸くに済せたり、当局者の語下等社会の現状より観察するときは実に已むを得ざる事実なり、或工夫は土匪の騒擾に乗じ村落に押し込み一支那人の妻女に強〇の処其の婦之を恥として縊死す、其の夫又之を見て憤死せるに就いて一般土人の憤激心を起さしめたりといふ」(笹森儀助『臺灣視察日記・臺灣視察結論』台北:共榮會、1934年、10頁/復刻版、台北:成文出版社、1985年)
つまり、戦地ばかりでなく、建設に駆り出された人夫からも強姦事件が発生していたことが分かる。いずれにせよ、日本統治が開始されたばかりの台湾において、来台した日本人社会は男性中心で構成されており、彼らの中には現地女性と直接的接触を持つ者が多かったが、それは金銭もしくは暴力によってなされた関係であったと総括することができる。