ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

2020年07月

  昨晩(2020年7月30日)、李登輝・元総統が入院先の台北榮民総医院で亡くなられた。まずは深く哀悼の意を表したい。1923年生まれだから、97歳。その前日からネット上で「死去したのではないか」という噂が出回っていたが、台湾團結聯盟が声明を出して否定するという一幕もあった。おそらく容体の急変で病院周辺が慌ただしい様子を見せたことからそのような情報が出てきたのだろう。30日の午前中には蔡英文・総統、頼清徳・副総統、蘇貞昌・行政院長らが急遽、日程をキャンセルして李登輝のお見舞いに訪れており、やはり切迫した状態だったことが分かる。


  李登輝の訃報が伝わると、台湾の内外を問わず、様々な反応があった。海外の英語メディアの第一報をいくつか見ていたら、Mr. Democracy(中文訳では「民主先生」)という呼称が決まり文句のように見出しに使われている。比較政治の観点から言えば、李登輝の一番の功績はやはり民主化である。従って、海外メディアがMr. Democracyとして報ずるのは当然だろう。


  台湾内では、政治的立場を問わず、民主化への貢献がやはり強調されている。ただし、藍系の反応は分かれている。国民党でも生粋の本土派である王金平・元立法院長は李登輝の功績を讃えるコメントを出した。江啓臣・国民党主席、馬英九・前総統なども李登輝の民主化への貢献を讃える一方、それぞれ「国民党員には複雑な思いがある」、「総統退任後に価値観が大きく変わってしまった」といった受け止め方も示している。藍系の急進派では「黒金」問題を指摘したり、「恭喜恭喜」「終於死了」といったひどいコメントを出す人も見られた。台湾内の文脈では、民主化は同時に台湾化をも推し進めたから、統一派からの受けはひどく悪い。


  中国の反応は分からないが、ネット上を見ていると、簡体字で李登輝を罵倒する書き込みが見られるから、一般レベルでも好感は持たれていないのだろう。


  台湾以外で反応が一番大きかったのは間違いなく日本である。日本の報道でも民主化の功績がきちんと伝えられているが、同時に「親日家」と必ず付け加えられるのが目立つ。ここには台湾と日本との特殊な関係が見えてくると言えようか。ただ、台湾社会でも李登輝と日本イメージとを結び付ける傾向はやはり強い。1990年代の政局を題材としたドラマをいくつか観たが、李登輝を表現するのに必ず日本的な意匠が用いられていた(例えば、剣道するシーンを入れるとか)。


  しかしながら、李登輝という人物は実に多面的な顔を持っている。その複雑なあり様にこそ彼という人物の面白さがあるし、言い換えると「台湾」を体現しているとすら思う。親日イメージだけに狭めて分かったつもりになってしまうのは勿体ない。


  私としては、李登輝が国民党内部の権力闘争を勝ち抜いていった狸親父ぶりにこそ興味が引かれる。民主化という大きな政治的理想を目標として見定め、その実現のためには手段を選ばなかった。彼は理想を抱懐する一方、リアリストでもあり、現実の政局に対処するにあたってマキャベリストとして行動した。


  蒋経国は最晩年になって、後継体制として党務は李煥、政務は俞國華、軍務は郝柏村という形で集団指導体制を準備していた。蒋経国の死後、総統に昇格した李登輝は、こうした布陣の中から自らの権力を掌握する必要に迫られた。彼はまず李煥と組んで党内を固めた後、李煥を行政院長に配して、俞國華を追い落とす。党務には腹心の宋楚瑜を抜擢した。次に、郝柏村に軍籍離脱させた上で行政院長に据え、李煥を失脚させた。最後に、郝柏村が軍部のかつての部下と頻繁に接触していることを越権行為として指弾して辞任を迫る。こうして李登輝は個別撃破で党務・政務・軍務のすべてを掌握し、蒋経国の次なる「強人」(ストロング・マン)となった。なお、李登輝のために働いた宋楚瑜はその後、はしごを外され、離れていく。


  李登輝はこうした権力闘争を勝ち抜くにあたって、日本の武士道から学んだ気合が役に立ったという趣旨の発言をしているが、それだけではあるまい。李登輝は国民党中央のどす黒い宮廷政治的カルチャーにも馴染み、熟知していたからこそ戦略を立てることができた。台湾の民主化は蒋経国の決断があったからこそ始動されたものだが、李登輝が最高権力を掌握しなければ後退した可能性も高い。その点で、李登輝が権力闘争に勝利したことは極めて大きな意味を持つ。


  李登輝が民主化を進めるにあたって野党・民進党とコミュニケーションを取っていた意義も大きいだろう。国是会議に民進党も取り込み、事案によっては国民党内の反対を抑え込むために民進党の協力を得て立法院で多数派を形成したりもした。そうでなければ「上からの民主化」という無血革命は難しかった。今でこそ李登輝は「緑」のゴッドファーザーみたいなポジションにあるから民進党と仲良くしても不思議には思われないだろうが、当時は現職の中華民国総統で国民党主席であったわけで、そんな立場の人物が野党と公然と連携するというのは、あの時代環境の中では異例のことであった。ただ、その後、反対派とコミュケーションをとって調整するのは台湾政治では重要な手法となり、例えば2014年にひまわり学生運動が立法院を占拠したとき、当時の王金平・立法院長が学生代表と話し合って落としどころを探ったことも記憶に新しい。


  なお、李登輝は対中関係でも中国側とパイプがあったと言われる。初の総統直接選挙で中国側がミサイル演習を行うことも事前に知っていた、ということも何かで読んだ気がする。あくまでも威嚇だと分かっていたから、彼は冷静に対処できた。いずれにせよ、李登輝は様々なチャネルを使いこなしながら難局の処理にあたっていた。


  李登輝は様々な成分から構成されている。日本でよく指摘されるように日本教育、とりわけいわゆる旧制高校文化の影響もあるだろうが、同時に上述したように国民党中央の宮廷政治的文化も身につけていた。青年時代には日本語書籍を通じてマルクス主義に触れたし(中国側から「李登輝は元共産党員だから話ができる」と当初は思われていたという話もある)、アメリカ留学体験もある。またクリスチャンでもあり、戒厳令解除前、蒋経国の指示でキリスト教人脈を通じて民主派とチャネルを構築したとも言われる。何よりも彼は台湾人だが、閩南化した客家人という背景も彼の精神形成上で何らかの影響があったかもしれない。


  李登輝は忠実な国民党員として政治的キャリアを出発させ、蒋経国の信頼を得た。総統在任中は「中華民国在台湾」路線を進め、退任後は台湾独立を主張するようになる。彼の対中関係や台湾の地位をめぐる言説は徐々に変化していった。それでは、彼はいつから台湾独立を目指すようになったのだろうか? 国民党員だった頃から実は独立志向で本心を隠していたのだろうか? 李登輝は国民党から破門されたが、蒋経国をずっと敬愛していたとも言われる。台北の北郊・三芝にある李登輝故居「源興居」には、李登輝と蒋経国とが並んで描かれた掛け軸がある。彼の蒋経国への思いはポーズに過ぎなかったのか? それとも本当に尊敬していたのか? そのあたりもよく分からない。マキャベリストたる李登輝は、その場その場で語る言葉がみな戦略的で、なかなか「本心」が見えてこない。実際のところ、李登輝にはいまだに謎が多い。


  李登輝は日本語でも何冊か本を出しているが、あれらを読んでも、必ずしも彼の人物を理解できるとは限らない。あくまでも日本人が読むという前提で語られているはずだから、鵜呑みにはできない。マキャベリストとして、あらゆる言葉は政治であるとも言えるだろう。李登輝は閩南語、中国語、英語、日本語と様々な言語で語ることができたが、どの言語を用いるかによって発言内容のニュアンスが異なると聞いたことがある。私自身が確認したわけではないが、もしそうだとしたら、本気で李登輝を論じようとする場合、おそろしく手間がかかる。


  ただし、日本語を使って日本人に向けて語ること、国民党員として振る舞ってきたこと、台湾語を使って台湾の民衆に向けて話すこと。いずれかが真実で、いずれかが嘘という関係でもない。それらのすべてを引っくるめて李登輝という一人の人物なのである。そこにはやはり彼が言うところの「台湾に生まれた悲哀」が凝縮されている。簡単に理解できるものではない。いずれにせよ、李登輝の伝記を書いたら、それはまさしく台湾現代史そのものとなるはずだ。

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  霧社事件においては、セデック族霧社群のマヘボ社、タロワン社、ボアルン社、スーク社、ホーゴー社、ロードフ社を中心に1236人が蜂起に参加したとされ、700人あまりの戦死者・自殺者を出した。生き残った人々はいったん「保護所」に収容されたが、1931年4月25日に、日本側からそそのかされたいわゆる「味方蕃」の襲撃を受け、216人が殺害されてしまい、この時点での生存者は298人となった(第二次霧社事件)。生き残った人々は1931年5月6日に川中島(現在の清流部落)へと強制移住させられた。その後も警察の苛烈な追及は続き、また慣れない生活環境やマラリアにも悩まされ、さらに多くの人々が倒れていった。



  清流部落は行政区画上、霧社と同じく仁愛郷に属するが、霧社方面とは山で隔絶されており、もし車で行くならばむしろ埔里市内から北上する形になる。


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  集落の中へ入って行く。公民館のような建物の脇に駐車場があったので、そこに車を停めた。トラックの屋台で飲み物や土産物を売っているおじさんが、「餘生館はあっちだよ」と教えてくれたので、その方向へ歩いたら、すぐ霧社事件餘生紀念館に行き当たった。


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  記念館の脇には「餘生紀念碑」が立てられている。ここにはかつて「川中島社」という神社があった。霧社事件の生き残りであるピホワリス(中国名・高永清、『霧社緋桜の狂い咲き──虐殺事件生き残りの証言』の著作がある)が仁愛郷郷長に当選した後、1950年にこの「餘生紀念碑」を建てた。題字の陳鳴寰というのが何者なのかは分からない。両脇には神社の燈籠がそのまま使われているが、これには日本に統治された過去を忘れないという意味が込められているという。セデック族の人々にとって、日本に対する気持ちは非常に複雑なものがある。例えば、霧社事件を生き残ったピホワリスやオビンタダオから直接話を聞き取った中村ふじゑ『オビンの伝言』(梨の木舎、2000年)を読むと、その一端が伝わってくる。



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(写真は2020年7月12日に撮影)
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  台湾地理中心碑のある虎子山には日本統治時代に能高神社があった。戦後の1953年、神社跡地に埔里高級工業職業学校が設立されるにあたり、社殿は中山記念堂として使用されたらしい。当時まだ残っていた鳥居などは1954年に取り壊され、その時に燈籠や狛犬が醒霊寺へ運び出されたという(金子展也『台湾に渡った日本の神々──フィールドワーク日本統治時代の台湾の神社』潮書房光人新社、2018年、69頁)。そこで、醒霊寺へも行ってみることにした。



  車で移動。醒霊寺へは10分もしないで到着。標示に従って駐車場へ移動したら、開けた空間に出た。何かと思ったら、醒霊寺のすぐ隣が「大馬璘遺址文化園区」として整備されている。事前学習の段階ではこの遺跡の存在に気付いていなかったので、図らずも大きな収穫となった。


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  大馬璘遺址は新石器時代の遺跡で3500~1500年前のものだという。多様な出土品が見られるが、とりわけ特徴的なことは、台湾東部地区の文化要素(石板棺や玉器)と西部地区の文化要素(磨光陶器)との両方が発見されていることで、先史時代から東西の族群がここを行き交っていたことが分かる。


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  この遺跡は1900年に鳥居龍蔵が発見したのが最初で、その後、1938年1月17日に浅井恵倫が最初の本格的な発掘を行い、同年2月25日から3月3日にかけて浅井、金関丈夫、宮本延人が二回目の発掘を実施。日本時代には他にも芝原太次郎も調査したらしい。戦後になると1947年11月23日に劉枝萬が簡単な試掘を行ったほか、宋文薫も予備調査を実施。そして、1949年11月10日から12月1日にかけて中央研究院歴史語言研究所によって大掛かりな発掘が行われた。これは安陽遺跡の発掘で著名な李濟が率いるチームで、実際の発掘は石璋如、高去尋が担当、他にも助教の陳奇禄、大学生の何廷瑞、宋文薫、劉斌雄、地元の劉枝萬も参加していた(林蘭芳〈地方知識的傳承與轉化——劉枝萬先生的「鄉土史」〉;劉益昌〈從考古學研究談水沙連區域的形成〉、潘英海主編《劉枝萬與水沙連區域研究》華藝學術出版社,2014年)。



  遺跡を一通り見学した後、隣の醒霊寺へ移動する。境内には確かに古い燈籠や狛犬が置かれている。入口にある石獅子は清代のものらしい。燈籠には一部削られた跡があり、これは戦後直後もしくは1972年の日華断交時に削られたものと考えられ、日本時代から残された燈籠によく見られる特徴である。ここの燈籠では色を塗って修復された部分も見られる。


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`  上と下の石獅子はおそらく清代のものであろう。


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  上と下の狛犬は能高神社のものであったと思われる。


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  醒霊寺は高台にあり、見下ろすと橋がある。この近辺はかつて二二八事件に際して、学生中心の二七部隊が国民党軍と戦った、いわゆる烏牛欄之役が起こった古戦場である。ここは西の方から埔里盆地へ入ってくる要衝にあたり、埔里に立てこもった二七部隊はここに拠って国民党軍を迎え撃った。現在は「南投縣二二八事件烏牛欄戰役紀念碑」が立てられている。なお、旅行後にネット検索したら、ChthoniC(閃靈)の楽曲で「醒靈寺大決戦」というのがあるらしく、明らかに二二八において二七部隊がここで戦ったことをモチーフとしていることが分かる。


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  記念碑のある所から醒霊寺を見上げる。


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(写真は2020年7月12日に撮影)

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  族群(エスニック・グループ)の複雑な変遷は台湾史の特徴であるが、埔里の歴史からも同様の複雑さが垣間見える。埔里盆地はもともとタイヤル族、セデック族、ブヌン族など原住民の土地だったと考えられるが、清代になって漢族系が入り込んでくる。清朝は漢族系と原住民との衝突を回避するため漢族の山地への侵入を禁じていたが、西部平原で開墾できる土地が飽和状態になってきたため、禁令をかいくぐって山地開墾を進める動きは抑えきれず、有名無実となっていた。そうした中、嘉慶年間の1814年から1815年にかけて埔里で起こった郭百年事件は決定的な転機となる。郭百年の率いる集団が埔里へ入って開墾を始めたところ、当然ながら現地民と対立してしまう。郭百年は奸計をめぐらして現地民を大量殺戮し、土地を奪い取ってしまった。その後、台湾総兵の知るところとなり、郭百年は処刑された。生き残った現地民は戻ってきたものの、すでに勢力は衰亡してしまい立て直しは難しい。そこで、漢族系と対抗するため平埔族を導き入れたという。しかし、平埔族も漢族化した原住民であり、いずれにせよこうした経過をたどって、埔里盆地の族群構成は大きく変化した。



  旅行から帰って埔里について事後学習していたら、台湾民間信仰の研究で著名な劉枝萬(1923~2018)が埔里の出身であることに初めて気付いた。彼は早稲田大学へ留学したが、戦後、郷里の埔里へ戻って来て、郷土史から研究のキャリアを始めており、林蘭芳〈地方知識的傳承與轉化——劉枝萬先生的「鄉土史」〉という論文では、「綜觀劉枝萬的學術成就,其早期研究成果多集中在鄉土史範疇,之後經過考古學轉向民俗學研究,三者之間連續發展,交融合一」と指摘されている(潘英海主編,《劉枝萬與水沙連區域研究》新北市:華藝學術出版社,2014年、頁33)。




  台湾各地における郷土史研究の動向というのも興味深いのだが、日本時代には芝原太次郎という人も埔里の歴史を調べて著作を出していたらしい。




  埔里の虎子山は台湾の地理的中心とされる。日本統治時代から地図作成のための測量で利用されており、記念碑もあったようだが、ふもとに現在あるのは戦後に立てられたものである。他にも蒋経国からおくられた言葉であるという「山清水秀」と刻まれた碑文もある。時間の関係で虎子山には登らなかった。なお、このあたりは日本時代に能高神社があったという。


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(写真は2020年7月12日に撮影)


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  台湾史に関心を持つ者として、霧社事件を無視するわけにはいかない。最近では魏徳聖監督の映画「セデック・バレ」が注目を集めたが、日本でも霧社事件への関心はもともと高く、下記の通りかなりの関連著作が出されていたし、回想録や研究論文を含めるとこのリストはもっと長くなる。なお、霧社事件で蜂起したセデック族はかつて族群(エスニック・グループ)分類上、かつてはタイヤル族に帰属されていたが、2008年に独立した族群として認定されたという経緯があるため、下記の著作を読む際には族群の表記が現在とは異なる点に気を付ける必要がある。


・中川浩一・和歌森民男編著『霧社事件──台湾高砂族の蜂起』(三省堂、1980年)
・戴國煇編著『台湾霧社蜂起事件──研究と資料』(社会思想社、1981年)
・アウイヘッパハ、許介鱗解説『証言霧社事件──台湾山地人の抗日蜂起』(草風館、1985年)
・ピホワリス(高永清)、加藤実編訳『霧社緋桜の狂い咲き──虐殺事件生き残りの証言』(教文館、1988年)
・邱若竜(江淑秀、柳本通彦訳)『霧社事件──台湾先住民、日本軍への魂の闘い』(現代書館、1993年)
・林えいだい編『台湾植民地統治史──山地原住民と霧社事件・高砂義勇隊写真記録』(梓書院、1995年)
・柳本通彦『台湾・霧社に生きる』(現代書館、1996年)
・早乙女勝元編『台湾からの手紙──霧社事件・サヨンの旅から』(草の根出版会、1996年)
・下山操子(柳本通彦編訳)『故国はるか──台湾霧社に残された日本人』(草風館、1999年)
・中村ふじゑ『オビンの伝言 タイヤルの森をゆるがせた台湾・霧社事件──歴史を生きぬいた女たち』(梨の木舎、2000年)
・鄧相揚(下村作次郎、魚住悦子訳)『抗日霧社事件の歴史──日本人の大量殺害はなぜ、おこったか』(日本機関紙出版センター、2000年)
・鄧相揚(下村作次郎監修、魚住悦子訳)『植民地台湾の原住民と日本人警察官の家族たち』(日本機関紙出版センター、2000年)
・鄧相揚(下村作次郎監修、魚住悦子訳)『抗日霧社をめぐる人々──翻弄された台湾原住民の戦前・戦後』(日本機関紙出版センター、2001年)
・林えいだい『霧社の反乱・民衆側の証言──台湾秘話』(新評論、2002年)
・杉本朋美『霧社の花嫁──戦後も台湾に留まって』(草風館、2005年)
・春山明哲『近代日本と台湾──霧社事件・植民地統治政策の研究』(藤原書店、2008年)



  霧社事件について考えるということは、日本の植民統治下における圧迫で彼らを蜂起へと追い込んだ背景も検討する必要があるし、また生き残った人々のその後の苦難にも思いを致さねばならない。そうした意味で多面的な視野が求められるし、なおかつ事件前から戦後にかけて長期のタイムスパンにわたる作業ともなる。上掲著作のすべては読み切れない人もいるだろうから、そういう場合には最低限、鄧相揚の著作に目を通しておけばいいだろう。台湾では上掲のうち『故国はるか』を中国語に編訳した下山一、下山操子『流轉家族:泰雅公主媽媽、日本警察爸爸和我的故事』(遠流出版,2011年)が割とよく読まれているようだ。また、台湾史の概説書である周婉窈(濱島敦俊監修、石川豪・中西美貴・中村平訳)『図説 台湾の歴史』(増補版、平凡社、2013年)でも霧社事件について詳しく触れられている。なお、佐藤春夫に「霧社」という作品があるが、佐藤が霧社を訪問したのは霧社事件の前であり、事件とは直接の関係はない。この作品中にも日本人が殺害されたという事件が出てくるが、1920年のサラマオ事件を指す。


  霧社の村落の中央が霧社事件記念公園として整備されている。1952年、防空壕設置のため仁愛警察分局の後方を掘り返していたら三十数体の遺骨が見つかった。霧社事件当時を知る人の証言により、蜂起に参加した人々が日本の警察によって殺害され、埋められたものだということが分かった。彼らを弔うため1953年、ここに「霧社山胞抗日起義紀念碑」が建てられた。モーナルダオの遺骸は骨格標本として台北帝国大学に保存されていたが、1973年になって後身の台湾大学より返還され、ここに葬られた。霧社山胞抗日起義紀念碑の後方に莫那魯道の墓碑が置かれている。


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  霧社事件記念公園からさらに南の方へ5分ほど歩くと、台灣電力公司萬大發電廠第二辦公室がある。かつて霧社公学校だった所であり、1930年10月27日にここで霧社事件が起こった。当時のものは何も残っていないようである。


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  旧霧社公学校のすぐ近くに福壽宮という廟がある。霧社事件後、日本人によって建てられた「霧社事件殉難殉職者之墓」という慰霊碑がここにあったらしいのだが、現在では何もない。1972年の日華断交で反日気運が高まる中、道路拡張を名目として壊されてしまったという。ただし、その碑の塔頂部分だけが下山一(『流轉家族』の著者)によって救い出され、現在は仁愛郷の眉原部落にある下山家の墓所に安置されているという(洪健鈞〈搶救史蹟 霧社事件殉難者墓碑頂座 流轉下山安息園〉《大埔里回報》2017年11月13日)。福壽宮は、廟脇の沿革によると1974年に創建されたと記されているから、日本人慰霊碑が壊された後に建てられたことになる。沿革には書かれていないが、ひょっとしたら日本人慰霊碑を破壊したことで祟りを恐れる心理があったのかもしれない、と想像した(上掲『オビンの伝言』では、「墓碑はすでに、光復後、山地同胞によってうち壊されたが、地下には骨が埋まっていて、夜な夜な幽霊が出るという」との伝聞が記されている[203~204頁])。漢族系の民間信仰では少なくともあり得ることのように思われる。


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  モーナルダオの遺骨の返還と日本人慰霊碑の破壊とは、いずれも1972年の日華断交を契機に行われている。中華民国政府としては、反日的気分が高まる中で、霧社事件を抗日起義として中華民国の抗日史観の中に位置づけようという政治的意図があったこともうかがわれる。このように霧社事件は一つのシンボルとして政治利用され得る側面もあり、その解釈にはより慎重な態度が求められる。そうした意味で、霧社事件は単に過去の出来事であるばかりでなく、現在進行形の歴史的事件でもあると言えよう。


  福壽宮からの眺望。


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  なお、霧社の役所のあたりに二十世紀初頭、西本願寺が立てられ、安倍道溟が住職として赴任していたと新潟大学の柴田先生からご教示いただいたが、確認できなかった。これは次の宿題としたい。


  この後、盧山温泉へも足を延ばした。水害の危険があるため近いうちに温泉地としての営業は取りやめるという噂を聞いていたのだが、確かに終業した旅館が目立つものの、大半はまだ営業を継続しており、観光客の姿も見られてそこそこにぎわっていた。ここはかつてモーナルダオのマヘボ社があったところである。霧社事件後、生き残った人々は保護所に収容されてから川中島(清流部落)へと移住させられた。モーナルダオの像がここにあるらしいのだが、時間の関係で見に行くのは断念した。なお、霧社事件で自殺した花岡二郎の妻・オビン・タダオ(漢族名・高彩雲)はここで碧華荘という温泉旅館を経営していた。そのことは中村ふじゑ『オビンの伝言』に記されている。


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(写真は2020年7月11日に撮影)

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