ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

2019年12月

  スクーターの調子がおかしかったのだが、ここしばらく忙しすぎて時間がとれず、今日ようやく検査してもらった。タイヤやオイルを交換、必要な補修もしてもらい、一安心。不安なく走れるのは実に心地よい。幸い、今日は火急の用件もないので、このままどこかへ行きたいと思い立ち、海へ向かった。スクーターを走らせながら、台南の海側で半日旅行プランを立てられそうだなあ、とアイデアが浮かんできた。即席で下記のルートを組み立て、これに沿って走ってみることにした。


・台江國家公園管理處(鹽水溪から安平港方向を望む)
・海沿いの田舎道
・府城天險、鎮門宮
・鹿耳門天后宮
・四草大衆廟(マングローブ遊覧船)
・旧安順塩田
・旧台湾総督府専売局台南支局安平分室
・東興洋行、徳記洋行
・安平古堡(ゼーランディア城)
・安平老街


台南海沿い観光案内地図



  このルート、台湾史の重層性を実地に見て取れるという点で悪くないと考えている。台南駅前でスクーターを借りれば、半日から一日で回ることが出来る。自転車でもいいかもしれない。複数人で行くなら、タクシーを貸切るのも手だろう。


【台江國家公園管理處】

  安平の北側を流れる鹽水溪。この北側はかつて台江内海と呼ばれる内海だったが、大部分は土砂に埋まって、今では湿地帯が広がっている。鹽水溪を挟んで対岸に位置する安平方向を望む。清代後期、開港地となった安平が現役の貿易港だった頃、この鹽水溪に面した側にヨーロッパ商人の商館が並び、荷物を積んだり下ろしたりしていた。

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  この地図は史料的にも有名である。よく見ると、地図の左側に「日本人居住地」と記されている。オランダ時代の1620~30年代、日本人もここへ来て交易を行っていた。地図中のオランダ商館は四草のあたりで、その左側はおそらく現在の鹿耳門渓にあたる。従って、日本人居住地はそこよりも左側(北側)にあたるが、正確な場所は分からない。


  台江國家公園管理處には土産物売場や簡単な喫茶コーナーがあり、ここで一休みできる。

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  近くには「大員港」という船着き場がある。観光遊覧船の一部がここへ寄る。「大員」という地名は古地図にも見え、発音的に「台湾」の語源の可能性がある。

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  鹽水溪の河口にかかる四草大橋は海を臨むスポットとして知られている。この下をくぐって海側へ行くのだが、橋のかたわらに上掲のオランダ時代の地図が描かれていた。

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  四草大橋の下をくぐって、海沿いの田舎道をひたすら走る。ここは車やバイクの通行が少ないので快適。写真は堤防から望む海。


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【府城天險と鎮門宮】
  府城天險。鹿耳門溪が海へそそぐ河口に位置している。台江内海には主要な出入り口が二つあり、一つは安平附近(現在の鹽水溪)、もう一つがここ鹿耳門溪。鄭成功が攻め寄せて来たとき、安平の方はゼーランディア城の防備が固く、突破は難しかった。そこで、オランダ東インド会社で通訳をしていた何斌の進言により、現在の鹿耳門溪の方から攻め込んだ。まずプロビンシア城(赤崁樓)を攻め落とし、最後に孤立したゼーランディア城を包囲する形になった。いずれにせよ、府城天險は鄭成功の最初の台湾上陸地点とみなされ、彼を記念してかたわらに鎮門宮が建立された。鎮門宮の人物画は洋画風であることでも知られている。鹿耳門溪は清代になってからも沿岸交易の拠点として機能した。

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【鹿耳門天后宮】
  府城天險と鎮門宮から鹿耳門溪沿いに進むと鹿耳門天后宮がある。言わずと知れた媽祖を祀った廟である。媽祖を祀った天后宮が建立されたのも、当然ながらこの近辺が海上交通の要衝だったという歴史的背景に由来する。

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【四草】
  四草は昔から沿岸防衛の拠点として重視されていたため、清代には砲台も設置された。

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  四草のランドマークは大衆廟である。大衆廟とは、日本語的に言うと無縁仏を祀った廟である。ここは沿岸防衛上の拠点であったため、過去に何度か戦場となったことがあり、戦死者の遺骨が見つかっている。四草大衆廟はそうした戦没者を慰霊するために建てられた。最も古いのは、鄭成功軍とオランダ軍との戦いで、大衆廟の裏にはオランダ人とおぼしき遺骨を祀った塚もつくられている。

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  四草大衆廟は、朱一貴の乱で活躍した陳酉(陳海元帥)が主神とされているが、その後殿では昭和の年号が入った「男歸服祿位」「女歸服祿位」が置かれており、無縁仏を祀った大衆廟としての性格が分かる。すぐ隣にある忠聖堂も明らかに無縁仏を祀っている。

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  四草はマングローブ林の中を航行する遊覧船で有名である。遊覧船乗り場の脇には抹香鯨博物館もある。

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【旧安順塩田】

  四草大衆廟の遊覧船乗り場の前をさらに進むと、塩田生態区に入る。ここには日本時代から塩田があり、安順塩田と呼ばれた。戦後も台湾製塩公司の経営下で継続され、その職員住宅が残されている。すでに操業は終わっているため、今はどこも無人だが、このほのかな廃墟感が私は好きで、ときどきわざわざここまで足を延ばす。

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  当時としては比較的先進的な集合住宅だったのではないかと思われる建築も残っている。今では中は空っぽなので、勝手に入ることもできる。面白いのは、二棟の集合住宅に挟まれる形で廟があったこと。この廟もすでに機能していない。

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【夕遊出張所】
  旧安順塩田から四草を経由して安平へ戻る途中、旧台湾総督府専売局台南支局安平分室がリノベーションされて観光化されている。夕陽がきれいだからか、夕遊出張所と名づけられている。

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【安平】
  そして、安平へ戻る。まずはドイツ商人の商館だった東興洋行、総督府専売局安平分室長官舎の前をまわる。両方とも現在は閉鎖中だが、外から建物を眺めても面白い。安平分室は皇太子時代の昭和天皇が立ち寄った所でもある。東興洋行の前には「安平追想曲」をモチーフにした像も設置されている。ここから歩いて、徳記洋行や安平樹屋まではすぐ。そして、ゼーランディア城は定番中の定番。ここまで来たら、台湾で最も古い市街地とされる安平の街並みを散策すると面白い。剣獅が見られる。また、ゼーランディア城の向かい側、オランダ時代にはユトレヒト砦があったとされる丘は墓所となっており、そこには日中戦争に駆り出された台湾人軍夫の墓も残されている。

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  お腹がすいたら、安平老街で牡蠣オムレツやエビ揚げでご飯にしたり、おやつに豆花やエビセンを食べてもいいだろう。上記のルートの出発点をここ安平にしてもいいし、逆に最後にしてここで時間調整をしてもいい。


  文献上において確認できるという意味で「台湾」の「歴史」が始まったのは台南であり、さらに言うとここ安平及び沿岸部こそが「台湾史」の発端である。上記ルートはオランダ東インド会社と鄭成功との死闘をメインに据えているが、それと同時に海洋交易を通じた外界との関係が台湾史においてカギとなることが理解できる。安平の開港後はヨーロッパ商人もこの地へ来ていた。媽祖や大衆廟からは漢人の宗教意識もうかがわれる。塩業という産業遺産に注目すれば、日本時代から戦後への連続性も見えてくる。安平出身軍夫もからめて戦争の歴史としてこの地を理解することもできる。


  ゼーランディア城を最初に見てから上記ルートを回ってもいいし、その逆でもいい。ゼーランディア城は定番観光地なので多くの人が訪れるだろうが、ここだけだと「ふーん」という感想で終わってしまうおそれがある。周囲を自身で巡ってみることで、オランダ時代以来の台湾史の重層性が地理的にも地層をなして、そこかしこに顔をのぞかせている様相がじかに見えてくるはずだ。
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  台湾における選挙結果を左右する要因は色々とあるが、地味ながらも意外と無視できないのが地方派閥(「地方派系」)である。例えば、2018年の九合一選挙(統一地方選挙)で深緑の高雄市長に国民党の韓國瑜が当選したことは驚きをもって迎えられ、この衝撃を説明するため、韓國瑜の個人的人気、いわゆる「韓流」というブームをポピュリズムと捉える議論もあった。しかしながら、この選挙では高雄の地方派閥に大きな影響力を持つ王金平・前立法院院長が相当なテコ入れをしており、韓國瑜へのインタビュー内容をまとめた『跟著月亮走:韓國瑜的夜襲精神與奮盡人生』(韓國瑜口述、黃光芹採訪,時報文化,2019年)では、韓國瑜を空軍英雄、王金平を陸軍総司令官にたとえている。つまり、メディアやネットなどの「空中戦」では韓國瑜人気をプッシュする一方、地元密着型の票田切り崩し=「陸上戦」で王金平が指揮を取るという役割分担ができていた。2018年当時は蔡英文政権の不人気もあり、従って、韓國瑜の高雄市長当選は、彼の個人的人気ばかりでなく、民進党不振という敵失、地方派閥の動向なども含め、複数の要因がベストミックスとなった結果として捉えられるだろう。


  さて、2020年1月の総統選挙に向けて熾烈な選挙戦が展開中である。当初の世論調査では韓國瑜がリードしていたものの、今年(2019年)の6~7月くらいから蔡英文に逆転され、現在では両者の差が大きく広がっている。香港情勢、韓國瑜人気の低迷など様々な要因が指摘できるが、地方派閥の動向も考慮すべきポイントの一つとなるだろう。上述のように高雄の地方派閥をまとめる上で大きな役割を果たしたのは王金平であった。ところが、国民党の総統候補に韓國瑜が選ばれたことで、当初から総統選出馬に意欲を持っていた王金平との間に齟齬が生じており、王は国民党重鎮でありながら、現在に至るまで韓國瑜支持の態度を示していない。国民党籍立法委員の選挙応援はしているが、韓國瑜についてメディアから問われても、わざと口を濁している。王金平は自らの出身地である高雄ばかりでなく、全台湾レベルで地方派閥の総元締めとみなされており、もし王が選挙動員上の引き締めをかけないのであれば、地方派閥の投票動向にも影響するはずである。


  台湾における地方派閥(地方派系)とはそもそもどのようにして成立したのだろうか? 戒厳時代には国政レベルでの選挙は凍結されていたが(大陸で選挙ができないため)、地方公職選挙は実施されていた。しかしながら、国民党政権は本来的に外来政権であるため、地方レベルの支持獲得は難しい。そこで、中央政府は地方レベルでの選挙動員を行うため、各地の土着勢力と結び付き、国民党政権の選挙動員に協力する見返りとして、土着勢力の有力層は様々な権益を保障されるという関係を通して、有力土着層が「地方派系」を形成するようになった。ここには、第一に地方ボスと地元選挙民との関係、第二に地方ボスと中央政府との関係という、二重の意味でのクライエンティリズム(clientelism、恩顧主義)が見出せる。なお、地方派閥の地盤としては農会、水利会、信用金庫、交通(バス)会社などが挙げられる。


  地方派閥の人的関係には日本統治時代における在地エリート(有力地主や大学卒業者など)との連続性も見られ、それぞれが中央政府レベルの派閥と結び付く動きもあった。ところが、農地改革の社会的影響や、二二八事件・白色テロなどもあって、1950年代以降、中央政権がコントロールする形で地方派閥の再編成が進められる。陳明通はその特徴を次の四点に整理している。


1.局限化:地方派閥の活動は県市レベル以下に限定され、地域の境界を越えて全島レベルで結び付かないように統制した。各地方派閥は中央政権レベルの派閥とは結び付かせず、蒋介石・経国父子と縦に直接結び付くようにして、横の連携は許されなかった。


2.平衡化:各地域に必ず二つ以上の地方派閥が競争する状況を作り上げ、中央からのコントロールを図った(若林正丈はこれを「双派系主義」と呼ぶ)。例えば、台南県では北門派(海派:陳華宗、呉三連などいわゆる台南幫)が有力であったが、国民党政権はこれに対して胡龍寶派(山派)を育成して対抗させた。


3.経済篭絡:つまり、利権誘導である。


4.逐步替換:地方派閥が大きくなり過ぎないよう、適宜、国民党の中央政権の息がかかった人物を送り込むなどして人員を交代させる。国民党政権としては、本来ならば地方レベルも直接掌握したい。だが、上述の通り、外来政権という性格上、本土勢力の支持を取り付けないと統治上の正統性が確保できないため、やむを得ず地方派閥と妥協しているわけだが、機会を狙って地方派閥をつぶそうとしていた意図も垣間見える。


  なお、以上の説明は、陳明通『派系政治與臺灣政治變遷』(修訂第一版、月旦出版社、1995年、150-168頁。なお、本書は日本語訳もある)や、若林正丈『台湾 分裂国家と民主化』(東京大学出版会、1992年、125-141頁)、同『東洋民主主義』(田畑書店、1994年、44-46頁)、同『台湾の政治 中華民国台湾化の戦後史』(東京大学出版会、2008年、104-107頁)を参考にした。


  このように、外来政権たる国民党が地方レベルでの選挙動員を期待して土着有力層と結び付き、土着有力層は選挙ブローカーの役目を通して地方派閥を形成してきたという戦後史における経緯が確認できる。地方派閥は、国民党政権の地方における下請け的な存在だったと言えるだろう。


  ところが、1980年代から1990年代にかけて民主化へと舵を切るにつれて、地方派閥の存在感が高まっていく。戒厳時代は事実上の国民党一党独裁であったが、民主化が始まると、民進党という有力対抗政党が登場した。そうすると、第一に、国民党は政権維持のためより一層の集票活動が必要となり、地方派閥にますます依存するようになる(陳明通、222頁)。


  第二に、上述の双派系主義により、国民党は意図的に各地域に二つ以上の地方派閥が存在するよう仕向けていた。ところが、民主化後は、複数の地方派閥間で公職選挙の候補者調整がうまくいかなかった場合、不満を持った地方派閥が暗黙裡に反対陣営を助けたり、場合によっては脱党して分裂選挙になったり、反対陣営に入ったりするケースが見られるようになった。こうした合間をぬって野党=民進党候補も当選する可能性が高まった(廖忠俊『台灣地方派系的形成發展與質變』允晨文化,1997年、108、114頁)。また、もともと無党籍で活動していた地方派閥、例えば嘉義市の許家班や高雄県の黒派(余登發系)はそのまま民進党へ入った。


  なお、旧高雄市と旧高雄県が合併して大高雄市が誕生したとき、民進党の旧高雄市長・陳菊が候補者に選ばれて、大高雄市長に当選したが、同じく民進党籍の楊秋興(黒派)・旧高雄県長は離党して出馬、陳菊に敗れた後は国民党へ移籍した。この事例から分かるように、民進党内でも地方派閥の論理は影響している。


  いずれにせよ、民主化によって国民党もまたより熾烈な集票圧力にさらされ、なりふりかまわぬ選挙動員を行うため、地方派閥の重要性が高まった。とりわけ立法委員は各選挙区で選出されるから、地方派閥の影響力は大きい。また、戒厳時代とは違って中央からの掣肘が弱くなったため、各地方派閥が合従連衡しながら全台湾レベルでネットワークを形成し、その存在感を高めていった。民主化後において立法院長の座に台中県紅派の劉松藩(1992-1999年)、高雄県白派の王金平(1999-2016年)といった地方派閥出身の大物政治家が一貫して座っていたことからも、地方派閥そのものが国民党内において大きな存在感を示すようになっていたことが分かる(廖忠俊、156-157頁)。


  地方派閥は経済的利益を通じて国民党と結び付いたが、もともと土着勢力であるため本土意識を持ち、その点では外省人系に見られるような中華民国イデオロギーは比較的薄いと言えるだろう。他方で、利権漁りも顕著となり、地方派閥そのものが経済集団化したり、甚だしくは「黒道」(黒社会、ヤクザ)化も指摘される(陳明通、228頁)。


  都市部にはもともと地方派閥はなく、また近年の社会的人間関係の変化によって動員力も弱まっているだろうが、農漁村部においては現在でも無視し得ない影響力を有していると考えられる。2020年の総統選挙、とりわけ立法委員選挙において国民党がどれだけ得票できるかを左右する要因の一つとして地方派閥の動向も考慮しておく必要がある。
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  鄭成功にまつわる廟は各地にあるが、その息子で鄭氏政権第二代・鄭経(1642-1681)を祀った廟はここ台南市永康の二王廟だけであろう。永康二王廟は台南駅前から新化、玉井方面へとつながる台湾省道20号線沿いに位置している。もともとは現在の砲兵指揮部の向かい側あたりにあったと言われるが、後述するように戦後の1949年に現在の場所へ移転した。現在の所在地は20号線からはやや奥まったところに位置する。


二王廟1


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  入り口の上には台湾省長当時の林洋港、李登輝からそれぞれ贈られた扁額が掛けられている。


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  廟の中には鄭経の像がある。右側には註生娘娘、左側には福徳正神(土地神)が祀られている。



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  二王廟の由来については石萬壽が簡潔に整理している。石萬壽によって書かれた来歴紹介は二王廟内でも掲げられているが、私は石萬壽の文集『樂君甲子集』(臺南市文化局,2004年)所載の「永康二王廟簡介」(297-298頁)を参照した。


  鄭氏政権は1662年に台湾を領有した後もしばらくは中国沿岸地帯での勢力を維持し、三藩の乱にも介入するなど清朝への反攻の機会をうかがっていたが、清朝側からの圧力に抗しきれず、1680(永暦34)年にはすべての兵員を台湾へ撤退させた。石萬壽によると、鄭経は大陸反攻の企てが失敗した後、政務は息子の鄭克𡒉(ぞう)に任せ、自身は北園(現在の開元寺)に隠居して、狩猟を楽しむ生活を送っていた。ところが、翌1681(永暦35)年、鄭経は狩猟中に落馬、いくばくもしないうちに亡くなった。土地の人々はその落馬地点に小さな祠を立てたという。これが二王廟の起源と言えよう。


  鄭氏政権滅亡後の1702(康熙41)年、永康の士紳・李文奇が出資して鄭経を主神として祀る廟を建立した。1787(乾隆52)年、林文爽の乱が勃発すると、清朝が台湾へ出兵し、二王廟附近でも戦闘が行われたのだが、このときに清朝側は二王廟の存在に気付いた。前政権の主君を祀る廟の存在は政治的に敏感な問題である。そこで、地元の人々は文衡聖帝(関帝)も祀って主神とした。つまり、関帝を使って偽装工作をしたということであろうか。日本統治時代に入ると、皇民化運動のために二王廟は荒廃したが、戦後の1949年、地元有力者である李案子の主唱により現在の場所へ移転され、1954年に完成した。


  実は二王廟で誰が祀られているかについて異説もある。戴文峰『永康的歷史遺跡與民間信仰文化』(永康市公所、2010年)の「第一節 網寮二王廟——全臺唯一主祀鄭經的廟宇」(85-100頁)では三つの説を紹介している。第一に、上述した石萬壽の紹介通りに鄭経とするもの。第二に、鄭成功の弟が賊を追撃中にここで落馬して絶命したとされる伝説。第三に、鄭成功の四男・鄭睿と十男・鄭發が若くして亡くなったため、この二人を二王としたとする説もあるという。


  そもそも、二王廟の「二王」とは何か。順番を指すのか、人数を指すのかという問題がある。上掲の三つの伝説では、第一、第二ともに鄭成功の息子・鄭経か、それとも鄭成功の弟かという違いはあるが、共に一人説である。対して、第三は二人説となる。戴文峰は二人説を取っているが、蔡相煇「二王廟與鄭成功父子陵寢」(『臺灣文獻』第三十五巻四期、1984年、33-39頁)の所説を紹介して、鄭氏政権の開祖たる鄭成功=武王、その政権を引き継いだ鄭経=文王として、武・文二人の王を共に祀ったから「二王廟」にされたとしている。「二王」というと、鄭経=鄭氏政権の二代目というように順番と捉えられやすい。しかし、もともとは鄭成功、鄭経の「武・文二王」という人数から「二王廟」とされていたのが、いつしか「鄭経二王」に変化したのだという。いずれにせよ、鄭経が祀られている廟はここだけという事情に変わりはない。



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(写真は2019年12月22日に撮影)
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  まずは下の地図(グーグル・マップ)を見て欲しい。左下(西南)から右上(東北)方向へ向かって省道20号線が走っている。これは台南駅前から新化(大目降)・玉井(噍吧哖)方面へ向かう幹線道路で、玉井までマンゴーを食べに行ったことのある人はみなここをバスに乗って通過しているはずである。


日治時期射撃場跡

  地図の真ん中あたり、省道20号線の下に開元振興公園というのがある。開元というのは台南の古刹・開元寺に由来する名称で、開元寺はこの地図の上のはしっこに見える。この開元振興公園の上下をはさむ小さい道が左上(西北)から右下(東南)方向へ並行しているのが見えるだろうか。この二つの道路が並行して細長い長方形を形成しており、左上は台湾鉄道にぶつかっている。右下はこの地図では分かりづらいかもしれないが、柴頭港渓という川の断崖で途切れている(なお、この柴頭港渓沿いは私がほぼ毎日通っている通学路で、こちらのエントリー「台南市永康区大橋と柴頭港渓」で触れた)。


  実は以前からこの長方形が気になっていた。明らかに人為的である。形状からして滑走路のようにも思えたが、ここに飛行場があったという話は聞いたことがない。答えは、このグーグル・マップ上に赤字で記されているから分かると思うが、日本統治時代の陸軍射撃場跡地である。三分子というのはこの近辺の旧名である。


  次に、下に示すのは1912年時点における「台南陸軍射撃場一般図」である(出典:「陸軍所用地ト民業地交換ノ件委任(台南廳長)」(1912年1月1日),〈大正元年永久保存追加第二卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00002077002)。


陸軍射撃場一般図

  地図の真ん中に描かれたきれいな長方形が、上記のグーグル・マップの道路区画とほぼ一致するのが分かる。左上では台湾縦貫鉄道とぶつかっており、右下には柴頭港渓の断崖による高低差も示されている。左下には「永久兵舎」とされた区画も見えるが、これは現在の国立成功大学光復キャンパスである。上記のグーグル・マップには国立成功大学歴史学系も示されているが、歴史学系の校舎は旧日本陸軍台湾歩兵第二連隊の兵舎をリノベーションして使用している。また、「台南陸軍射撃場一般図」には現在の国道20号線にあたる幹線道路も示されている。この道路の右上はじに「至大目降」と書かれているが、大目降とは新化の旧名である。


  日本が敗戦で台湾を放棄した後、日本の軍用地は中華民国に接収された。成功大学光復キャンパスも後に軍用地が払い下げられて造成された。射撃場も中華民国陸軍に接収されたが、国共内戦に敗れた国民党政権が台湾へ逃げて来て多くの外省人がやって来た時、この射撃場跡に眷村が形成されたようである。眷村の多くは急ごしらえのバラック建てで(反攻大陸ですぐ帰るつもりだったから)、長期間の風雨に耐えられず今では荒れ果てている。土地所有権を持つ国防部がこうした眷村を民間に払い下げ、再開発されるケースが近年見られる。この射撃場跡地もそうで、民間企業が工事を始めたところ、日本時代の遺構が見つかったという次第である(聯合報電子版「台南三分子日軍遺址周邊建商開挖 再發現疑似古物」2019年4月3日付)。今朝、私が現場を見に行ったら、覆いに囲われて中に入ることはできなくなっていた。


  射撃場跡地には眷村のほか、実はアメリカン・スクールもあった。上記のグーグル・マップに見える開元振興公園とは、その跡地である。1950年代から70年代にかけて中華民国政府はアメリカの軍事顧問団を受け入れており、その一部は台南に駐留していた。つまり、戦後における台南の一部地域は「基地の街」としての顔も持っていたのである。射撃場跡地は用地として広大なため、一部は住む場所のない外省人下級兵士にあてがわれ、一部はアメリカ軍人の家族のために提供されたわけである。


  台湾史の多元性とはよく言われることだが、現代史においても、例えばこの射撃場跡地に注目してみると、日本軍・中華民国軍・アメリカ軍とこれもまた重層的な様相が垣間見えてくる。
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  税関の職位は、時代によっても変遷があるが、輸出入貨物の検査や査定の担当者を鑑定吏(鑑定官、鑑定官補)、一般業務を行う職員を属、そして監視活動に従事する職員は監吏と呼ばれ、その補佐として監吏補が位置づけられていた。いずれも官制上は判任官である。


  日本の領台当初、台湾税関は慢性的に人手不足であったらしい。税関というのは意外と多くの人員を必要とする職場である。当時の台湾でとりわけ重要だったのは密貿易の取締である。以前から台湾海峡の両岸において海上交易は活発に行われていたが、1895年を境にして台湾海峡に国境線が引かれた。つまり、清代とは異なり、両岸交易は法的には外国間貿易となった。しかし、清代以来、海峡両岸には密接な交易ルート網が張り巡らされており、国境線が突然出現しても、人と物の動きは止まらない。しかも、海岸線は長い。そのため、日本統治時代初期の関税業務における最大の課題は、関税徴収のため監視活動をいかに強化するかにあった。しかしながら、これは危険な仕事だし、台湾の風土病は日本人職員の健康を蝕み、病死者や病気退職者が相次いでいたため、現地職員の採用も拡大されていた。


  台湾税関は常に人手不足であったからであろうか、中にはちょっと変わった人材もまぎれこんでいたようだ。初期の台湾税関職員リストを眺めていたら、池亨吉(1873~1954)と萱野長知(1873~1947)の名前に気付いた。二人とも高知県出身で、後に孫文の革命運動を支援したことで知られている。


  池亨吉は1896年から翌97年にかけて淡水税関属として当時の職員録に記載されており、同年11月に病気を理由として辞職したことが確認できる(1)。萱野長知は1897年のみ淡水税関監吏補として記載されている。萱野はひょっとしたら池に呼ばれて来台したのかもしれない。いずれにせよ、池と萱野は日本の領台直後の1896年から1897年にかけて台湾にいたことが分かる。


  二人に関わる記録が十年後の台湾総督府文書に再び現れる。当時、台湾総督府は福建方面の政治情勢に積極的に干渉しようとしていたが、1907年8月1日付の汕頭領事からの報告書に池と萱野の名前が出てくる(2)。二人とも孫文の革命運動に積極的に参加していたため、日本側官憲からマークされていたようである。


  萱野に関しては職業・新聞記者、辮髪をたくわえて中国人に偽装しているとした後、「本人自ら支那人と称しつつあるに拘らず、或者に向いては、去る二十七八年日清戦役前に軍事探偵として当汕頭及広東地方へ来り辮髪し支那服を着て支那人の如く装ひたり云々」と記されている。日清戦争の時点で中国人を偽装できたということは、1897年に台湾税関監吏補になったのは中国語能力がかわれたものと考えられるだろう。


  池亨吉についてはこう記されている。「孫逸仙の秘書と称する日本人池某(多分変名なるべし)なるものあり。本年四、五月の交、台湾に遊歴し、隠に諸所を説て近々孫文が清に於て兵を挙ぐべきに依り資金其他の援助(…以下、破損)」。後半が破損しているため判読不能だが、1907年に台湾へ来て孫文の革命運動のカンパを募っていたことが分かる。池は1896年から1897年にかけて台湾にいたわけだから、その頃以来の人脈もあったのかもしれない。いずれにせよ、彼が寄付を求めた対象がどのような人々であったのかは気になる。


  孫文と台湾の関係は複雑である。現在の中華民国において孫文は「国父」とされているが、その「国父」は台湾との縁がもともと薄い。ただし、薄いながらも若干はある。台北駅近くにある「国父史蹟紀念館」は、彼が滞在した旅館「梅屋敷」を記念館に仕立て上げたものである。このことは、『台湾を知るための60章』(明石書店、2016年)で私が執筆した「政治 人物」の項目でも触れた。孫文は日本統治時代の台湾へ4,5回くらい来ている。たいていは日本と中国とを往来する途次に寄港したついでという感じだが、台湾総督府は中国の混乱を狙って孫文の革命運動への資金援助を考慮したこともあり、孫文はその支援を依頼するため来台したこともあった。従って、台湾総督府としても、孫文の利用価値は状況に応じて変化しており、孫文の秘書役として動いていた池や萱野についても動向をチェックしていたのであろう。


  なお、池亨吉の詩集『涙痕集』には、1897年の台湾滞在時までの詩が収録されているらしいので、探して読んでみたい。


  いずれにせよ、私は日本のアジア主義者にとっての台湾というテーマにも以前から関心を持っている。池と萱野についても何らかの形で取り上げられたらと思ってはいたが、彼らの台湾滞在時間は短く、また史料も少ないので、ちょっと難しそうだ。何か別のテーマで論ずる中で、ついでに言及する程度になるだろうな。


(1)「稅關屬池享吉依願免本官」(1897年11月01日),〈明治三十年乙種永久保存進退追加第八卷乙〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000235005。
(2)「汕頭附近ノ暴動記事進達(汕頭領事)」(1907年08月01日),〈明治四十年十五年保存追加第二十三卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00005036003。
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