スクーターの調子がおかしかったのだが、ここしばらく忙しすぎて時間がとれず、今日ようやく検査してもらった。タイヤやオイルを交換、必要な補修もしてもらい、一安心。不安なく走れるのは実に心地よい。幸い、今日は火急の用件もないので、このままどこかへ行きたいと思い立ち、海へ向かった。スクーターを走らせながら、台南の海側で半日旅行プランを立てられそうだなあ、とアイデアが浮かんできた。即席で下記のルートを組み立て、これに沿って走ってみることにした。
・台江國家公園管理處(鹽水溪から安平港方向を望む)
・海沿いの田舎道
・府城天險、鎮門宮
・鹿耳門天后宮
・四草大衆廟(マングローブ遊覧船)
・旧安順塩田
・旧台湾総督府専売局台南支局安平分室
・東興洋行、徳記洋行
・安平古堡(ゼーランディア城)
・安平老街
このルート、台湾史の重層性を実地に見て取れるという点で悪くないと考えている。台南駅前でスクーターを借りれば、半日から一日で回ることが出来る。自転車でもいいかもしれない。複数人で行くなら、タクシーを貸切るのも手だろう。
【台江國家公園管理處】
安平の北側を流れる鹽水溪。この北側はかつて台江内海と呼ばれる内海だったが、大部分は土砂に埋まって、今では湿地帯が広がっている。鹽水溪を挟んで対岸に位置する安平方向を望む。清代後期、開港地となった安平が現役の貿易港だった頃、この鹽水溪に面した側にヨーロッパ商人の商館が並び、荷物を積んだり下ろしたりしていた。
この地図は史料的にも有名である。よく見ると、地図の左側に「日本人居住地」と記されている。オランダ時代の1620~30年代、日本人もここへ来て交易を行っていた。地図中のオランダ商館は四草のあたりで、その左側はおそらく現在の鹿耳門渓にあたる。従って、日本人居住地はそこよりも左側(北側)にあたるが、正確な場所は分からない。
台江國家公園管理處には土産物売場や簡単な喫茶コーナーがあり、ここで一休みできる。
近くには「大員港」という船着き場がある。観光遊覧船の一部がここへ寄る。「大員」という地名は古地図にも見え、発音的に「台湾」の語源の可能性がある。
鹽水溪の河口にかかる四草大橋は海を臨むスポットとして知られている。この下をくぐって海側へ行くのだが、橋のかたわらに上掲のオランダ時代の地図が描かれていた。
四草大橋の下をくぐって、海沿いの田舎道をひたすら走る。ここは車やバイクの通行が少ないので快適。写真は堤防から望む海。
【府城天險と鎮門宮】
府城天險。鹿耳門溪が海へそそぐ河口に位置している。台江内海には主要な出入り口が二つあり、一つは安平附近(現在の鹽水溪)、もう一つがここ鹿耳門溪。鄭成功が攻め寄せて来たとき、安平の方はゼーランディア城の防備が固く、突破は難しかった。そこで、オランダ東インド会社で通訳をしていた何斌の進言により、現在の鹿耳門溪の方から攻め込んだ。まずプロビンシア城(赤崁樓)を攻め落とし、最後に孤立したゼーランディア城を包囲する形になった。いずれにせよ、府城天險は鄭成功の最初の台湾上陸地点とみなされ、彼を記念してかたわらに鎮門宮が建立された。鎮門宮の人物画は洋画風であることでも知られている。鹿耳門溪は清代になってからも沿岸交易の拠点として機能した。
【鹿耳門天后宮】
府城天險と鎮門宮から鹿耳門溪沿いに進むと鹿耳門天后宮がある。言わずと知れた媽祖を祀った廟である。媽祖を祀った天后宮が建立されたのも、当然ながらこの近辺が海上交通の要衝だったという歴史的背景に由来する。
【四草】
四草は昔から沿岸防衛の拠点として重視されていたため、清代には砲台も設置された。
四草のランドマークは大衆廟である。大衆廟とは、日本語的に言うと無縁仏を祀った廟である。ここは沿岸防衛上の拠点であったため、過去に何度か戦場となったことがあり、戦死者の遺骨が見つかっている。四草大衆廟はそうした戦没者を慰霊するために建てられた。最も古いのは、鄭成功軍とオランダ軍との戦いで、大衆廟の裏にはオランダ人とおぼしき遺骨を祀った塚もつくられている。
四草大衆廟は、朱一貴の乱で活躍した陳酉(陳海元帥)が主神とされているが、その後殿では昭和の年号が入った「男歸服祿位」「女歸服祿位」が置かれており、無縁仏を祀った大衆廟としての性格が分かる。すぐ隣にある忠聖堂も明らかに無縁仏を祀っている。
四草はマングローブ林の中を航行する遊覧船で有名である。遊覧船乗り場の脇には抹香鯨博物館もある。
【旧安順塩田】
四草大衆廟の遊覧船乗り場の前をさらに進むと、塩田生態区に入る。ここには日本時代から塩田があり、安順塩田と呼ばれた。戦後も台湾製塩公司の経営下で継続され、その職員住宅が残されている。すでに操業は終わっているため、今はどこも無人だが、このほのかな廃墟感が私は好きで、ときどきわざわざここまで足を延ばす。
当時としては比較的先進的な集合住宅だったのではないかと思われる建築も残っている。今では中は空っぽなので、勝手に入ることもできる。面白いのは、二棟の集合住宅に挟まれる形で廟があったこと。この廟もすでに機能していない。
【夕遊出張所】
旧安順塩田から四草を経由して安平へ戻る途中、旧台湾総督府専売局台南支局安平分室がリノベーションされて観光化されている。夕陽がきれいだからか、夕遊出張所と名づけられている。
【安平】
そして、安平へ戻る。まずはドイツ商人の商館だった東興洋行、総督府専売局安平分室長官舎の前をまわる。両方とも現在は閉鎖中だが、外から建物を眺めても面白い。安平分室は皇太子時代の昭和天皇が立ち寄った所でもある。東興洋行の前には「安平追想曲」をモチーフにした像も設置されている。ここから歩いて、徳記洋行や安平樹屋まではすぐ。そして、ゼーランディア城は定番中の定番。ここまで来たら、台湾で最も古い市街地とされる安平の街並みを散策すると面白い。剣獅が見られる。また、ゼーランディア城の向かい側、オランダ時代にはユトレヒト砦があったとされる丘は墓所となっており、そこには日中戦争に駆り出された台湾人軍夫の墓も残されている。
お腹がすいたら、安平老街で牡蠣オムレツやエビ揚げでご飯にしたり、おやつに豆花やエビセンを食べてもいいだろう。上記のルートの出発点をここ安平にしてもいいし、逆に最後にしてここで時間調整をしてもいい。
文献上において確認できるという意味で「台湾」の「歴史」が始まったのは台南であり、さらに言うとここ安平及び沿岸部こそが「台湾史」の発端である。上記ルートはオランダ東インド会社と鄭成功との死闘をメインに据えているが、それと同時に海洋交易を通じた外界との関係が台湾史においてカギとなることが理解できる。安平の開港後はヨーロッパ商人もこの地へ来ていた。媽祖や大衆廟からは漢人の宗教意識もうかがわれる。塩業という産業遺産に注目すれば、日本時代から戦後への連続性も見えてくる。安平出身軍夫もからめて戦争の歴史としてこの地を理解することもできる。
ゼーランディア城を最初に見てから上記ルートを回ってもいいし、その逆でもいい。ゼーランディア城は定番観光地なので多くの人が訪れるだろうが、ここだけだと「ふーん」という感想で終わってしまうおそれがある。周囲を自身で巡ってみることで、オランダ時代以来の台湾史の重層性が地理的にも地層をなして、そこかしこに顔をのぞかせている様相がじかに見えてくるはずだ。
・台江國家公園管理處(鹽水溪から安平港方向を望む)
・海沿いの田舎道
・府城天險、鎮門宮
・鹿耳門天后宮
・四草大衆廟(マングローブ遊覧船)
・旧安順塩田
・旧台湾総督府専売局台南支局安平分室
・東興洋行、徳記洋行
・安平古堡(ゼーランディア城)
・安平老街
このルート、台湾史の重層性を実地に見て取れるという点で悪くないと考えている。台南駅前でスクーターを借りれば、半日から一日で回ることが出来る。自転車でもいいかもしれない。複数人で行くなら、タクシーを貸切るのも手だろう。
【台江國家公園管理處】
安平の北側を流れる鹽水溪。この北側はかつて台江内海と呼ばれる内海だったが、大部分は土砂に埋まって、今では湿地帯が広がっている。鹽水溪を挟んで対岸に位置する安平方向を望む。清代後期、開港地となった安平が現役の貿易港だった頃、この鹽水溪に面した側にヨーロッパ商人の商館が並び、荷物を積んだり下ろしたりしていた。
この地図は史料的にも有名である。よく見ると、地図の左側に「日本人居住地」と記されている。オランダ時代の1620~30年代、日本人もここへ来て交易を行っていた。地図中のオランダ商館は四草のあたりで、その左側はおそらく現在の鹿耳門渓にあたる。従って、日本人居住地はそこよりも左側(北側)にあたるが、正確な場所は分からない。
台江國家公園管理處には土産物売場や簡単な喫茶コーナーがあり、ここで一休みできる。
近くには「大員港」という船着き場がある。観光遊覧船の一部がここへ寄る。「大員」という地名は古地図にも見え、発音的に「台湾」の語源の可能性がある。
鹽水溪の河口にかかる四草大橋は海を臨むスポットとして知られている。この下をくぐって海側へ行くのだが、橋のかたわらに上掲のオランダ時代の地図が描かれていた。
四草大橋の下をくぐって、海沿いの田舎道をひたすら走る。ここは車やバイクの通行が少ないので快適。写真は堤防から望む海。
【府城天險と鎮門宮】
府城天險。鹿耳門溪が海へそそぐ河口に位置している。台江内海には主要な出入り口が二つあり、一つは安平附近(現在の鹽水溪)、もう一つがここ鹿耳門溪。鄭成功が攻め寄せて来たとき、安平の方はゼーランディア城の防備が固く、突破は難しかった。そこで、オランダ東インド会社で通訳をしていた何斌の進言により、現在の鹿耳門溪の方から攻め込んだ。まずプロビンシア城(赤崁樓)を攻め落とし、最後に孤立したゼーランディア城を包囲する形になった。いずれにせよ、府城天險は鄭成功の最初の台湾上陸地点とみなされ、彼を記念してかたわらに鎮門宮が建立された。鎮門宮の人物画は洋画風であることでも知られている。鹿耳門溪は清代になってからも沿岸交易の拠点として機能した。
【鹿耳門天后宮】
府城天險と鎮門宮から鹿耳門溪沿いに進むと鹿耳門天后宮がある。言わずと知れた媽祖を祀った廟である。媽祖を祀った天后宮が建立されたのも、当然ながらこの近辺が海上交通の要衝だったという歴史的背景に由来する。
【四草】
四草は昔から沿岸防衛の拠点として重視されていたため、清代には砲台も設置された。
四草のランドマークは大衆廟である。大衆廟とは、日本語的に言うと無縁仏を祀った廟である。ここは沿岸防衛上の拠点であったため、過去に何度か戦場となったことがあり、戦死者の遺骨が見つかっている。四草大衆廟はそうした戦没者を慰霊するために建てられた。最も古いのは、鄭成功軍とオランダ軍との戦いで、大衆廟の裏にはオランダ人とおぼしき遺骨を祀った塚もつくられている。
四草大衆廟は、朱一貴の乱で活躍した陳酉(陳海元帥)が主神とされているが、その後殿では昭和の年号が入った「男歸服祿位」「女歸服祿位」が置かれており、無縁仏を祀った大衆廟としての性格が分かる。すぐ隣にある忠聖堂も明らかに無縁仏を祀っている。
四草はマングローブ林の中を航行する遊覧船で有名である。遊覧船乗り場の脇には抹香鯨博物館もある。
【旧安順塩田】
四草大衆廟の遊覧船乗り場の前をさらに進むと、塩田生態区に入る。ここには日本時代から塩田があり、安順塩田と呼ばれた。戦後も台湾製塩公司の経営下で継続され、その職員住宅が残されている。すでに操業は終わっているため、今はどこも無人だが、このほのかな廃墟感が私は好きで、ときどきわざわざここまで足を延ばす。
当時としては比較的先進的な集合住宅だったのではないかと思われる建築も残っている。今では中は空っぽなので、勝手に入ることもできる。面白いのは、二棟の集合住宅に挟まれる形で廟があったこと。この廟もすでに機能していない。
【夕遊出張所】
旧安順塩田から四草を経由して安平へ戻る途中、旧台湾総督府専売局台南支局安平分室がリノベーションされて観光化されている。夕陽がきれいだからか、夕遊出張所と名づけられている。
【安平】
そして、安平へ戻る。まずはドイツ商人の商館だった東興洋行、総督府専売局安平分室長官舎の前をまわる。両方とも現在は閉鎖中だが、外から建物を眺めても面白い。安平分室は皇太子時代の昭和天皇が立ち寄った所でもある。東興洋行の前には「安平追想曲」をモチーフにした像も設置されている。ここから歩いて、徳記洋行や安平樹屋まではすぐ。そして、ゼーランディア城は定番中の定番。ここまで来たら、台湾で最も古い市街地とされる安平の街並みを散策すると面白い。剣獅が見られる。また、ゼーランディア城の向かい側、オランダ時代にはユトレヒト砦があったとされる丘は墓所となっており、そこには日中戦争に駆り出された台湾人軍夫の墓も残されている。
お腹がすいたら、安平老街で牡蠣オムレツやエビ揚げでご飯にしたり、おやつに豆花やエビセンを食べてもいいだろう。上記のルートの出発点をここ安平にしてもいいし、逆に最後にしてここで時間調整をしてもいい。
文献上において確認できるという意味で「台湾」の「歴史」が始まったのは台南であり、さらに言うとここ安平及び沿岸部こそが「台湾史」の発端である。上記ルートはオランダ東インド会社と鄭成功との死闘をメインに据えているが、それと同時に海洋交易を通じた外界との関係が台湾史においてカギとなることが理解できる。安平の開港後はヨーロッパ商人もこの地へ来ていた。媽祖や大衆廟からは漢人の宗教意識もうかがわれる。塩業という産業遺産に注目すれば、日本時代から戦後への連続性も見えてくる。安平出身軍夫もからめて戦争の歴史としてこの地を理解することもできる。
ゼーランディア城を最初に見てから上記ルートを回ってもいいし、その逆でもいい。ゼーランディア城は定番観光地なので多くの人が訪れるだろうが、ここだけだと「ふーん」という感想で終わってしまうおそれがある。周囲を自身で巡ってみることで、オランダ時代以来の台湾史の重層性が地理的にも地層をなして、そこかしこに顔をのぞかせている様相がじかに見えてくるはずだ。