ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

2019年02月

   日清戦争から台湾占領という過程で、日本仏教各宗派はそれぞれ従軍布教使を送り込んだが、その中でもとりわけ本願寺派の出足が早かった。台湾接収のため1895年5月22日に旅順港を出港した近衛師団には大江俊泰(本願寺派)、林彦明(浄土宗)、椋本龍海(真言宗)が従軍布教使として同行しており、同月に本願寺派は海外布教に従事する僧侶の養成のため「清韓語学研究所」を開設している。澎湖占領部隊にも従軍布教使が同行していたが、彼らが1895年末までに帰国すると、翌1896年から台湾へ開教使や布教使が派遣された。本願寺派の場合、軍隊布教を中心にしていた点に特色があり、併せて現地人への宣撫工作にも協力していく(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』三人社、2016年、36-44頁)。

  宮本(旧姓:荻野)英龍は1896年に本願寺派から台南へ派遣された一人である。1865年1月21日、和歌山県に生まれた(彼の履歴については次を参照:「宮本英龍ヘ臺南監獄教誨事務ヲ囑託ス」(1902年10月04日),〈明治三十五年永久保存進退追加第十七卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000798018)。1876年には得度しており、その後、本願寺派からの派遣留学の形で1891年に東京専門学校を卒業している。1895年には「清韓語学研究所」研究員となっており、このときに中国語を学んだと考えられる。翌1896年1月に台湾派遣軍隊慰問使となることが大本営より許可、6月には本願寺より台南布教所主任及開導学校長、7月には台南衛戍監獄教誨事務嘱託となる。他方で、彼の履歴書には、本願寺執行所から布教のため台湾出張を申し付けられたのは同年7月22日となっているのだが、時系列が少々混乱している。

  本願寺派は軍隊布教を主としていたので、1897年3月に宮本は台湾守備混成第三旅団旅団長の比志島義輝陸軍少将から感謝状を送られている。本願寺派が台南で開設した日本語学校である開導学校については、次のように説明されている。

「(一)台南開導学校 明治二十九年四月台南城内様仔奎楼書院駐在布教使荻野英龍平田博慈二氏より布教の傍土人子弟に日本語の教育を開かんことを本山に伺出で認可を得て六月に至り該奎楼書院に於て日本語の教授を始め開導学校と名く、其後五帝廟街三官廟に移り三十年八月更に関帝廟街三十三番戸に移る、生徒の員数は二十九年七月の調査に於て三十七名ありしも、漸次増加して同年十二月には百二十六人、三十年十二月には百五十人に達せり、学科は語学科正科の二に分ち語学科は日本語を教授し正科は小学課程に依る、二十九年十二月に卒業生五名、三十年十二月に卒業生四十名を出だせり」(『教海一瀾』1898年3月、中西直樹『植民地台湾と日本仏教』88頁より孫引き)

  この引用では日本語学校としては語学科と正科に分けられているとされているが、宮本自身の説明によると、15歳以下を対象とする予科と15歳以上を対象とする語学科、さらに商家の番頭手代を対象とする夜学があった。また、「土語」(台湾語)を研究する日本人のため台湾人教師を招聘して毎晩研究会を開いており、主に官吏や憲兵など三十数名が来ているという(「本願寺開導學校卒業式」『臺灣日日新報』明治31年3月20日、第3版)。1898年11月16日に両廣會館で開催された第四回卒業証書授与式では、本島人学生(顔茂修、蘇震修)が「国語」(日本語)であいさつしたほか、二人の日本人(今村寛之という13歳の少年、及び東恩納盛展)が「土語」であいさつした(「國語卒業」『臺灣日日新報』明治31年11月20日、第3版)。開導学校は台湾人に日本語を教えるだけでなく、台南在住日本人が台湾語を学ぶ場としての役割も担っていたことが分かる。

  なお、「国語卒業」の記事中で、今村寛之という13歳の少年に言及されているが、記事には東京府士族と明記されている。当時の台南在住日本人で今村姓の東京府士族という条件で考えると、おそらく台南法院検察官・今村幾の息子であると推測される(「今村幾訴訟代人免許」(1898年03月31日),〈明治三十一年乙種永久保存第四十七卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000305013)。

  宮本は台南教育会の例会にも参加しており、1898年9月15日に開催された教育会例会で、宮本が盲唖院生徒の蔡渓を紹介している(「臺南教育會例會」『臺灣日日新報』明治31年10月1日、第2版)。蔡渓はもともとウィリアム・キャンベルの盲学校の生徒で、1897年に訪日するトマス・バークレーに連れられて東京へ行き、東京盲唖学校に留学した三人の台湾人盲学生の一人である。この例会では台湾語と日本語で日本内地でのことを語ったようであるが、キリスト教人脈で東京留学をした蔡渓が、どういういきさつで本願寺派の宮本と知り合い、台南教育会例会に連れてこられたのか、興味が引かれる。

  1900年12月、宮本は台南布教所主任、開導學校長、軍隊布教監獄教誨事務を辞職する。履歴書上では病気のためとされているが、当時の報道によると、「恒春地方の蕃界に投じて殖民化蕃の業を創めんとて稟議の為め本山へ帰れり」(「西本願寺の布敎師」『臺灣日日新報』明治33年12月21日、第2版)と記されており、彼は原住民布教に意欲を持っていたようだ。1902年9月には台南へ戻って復職するのだが、その後、宮本が原住民地域へ向かった記録はないので、おそらく彼の提案は本山で却下されたのであろう。

  1903年12月30日付で、宮本は台湾総督府に台南監獄教誨事務嘱託の辞職願を提出している(「臺南監獄教誨事務囑託宮本英龍依願解囑ノ件」(1903年12月30日),〈明治三十七年永久保存進退第一卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00001011021)。翌1904年3月には開導学校は閉鎖された(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』三人社、2016年、92頁)。1906年4月の新聞報道で宮本が汕頭にいることが確認できるので、本願寺派の中国南部布教の方針に従って大陸へ渡ったことが分かる(「本願寺開教南清」『漢文臺灣日日新報』明治39年4月6日、第5版)。

  なお、本願寺派から台南へ派遣された日本人としては、宮本英龍のほか、布教使の平田博慈、開導学校教員の鈴川知之、藤谷峻岱といった名前が確認できる(「國語卒業」『臺灣日日新報』明治31年11月2日第3版)。また、台南で本願寺派に帰属した現地僧侶として、石以能(彌陀寺住職)、曾慧義(水仙宮住職)、呉以錦(大士殿住職)、徐青揚(三官廟住職)、陳善本(溫陵祖廟住職)、林開淇(銀同祖廟住職)の6名がいたという(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』、71頁)。
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  1903年1月には『臺南毎日新聞』が発刊された。もともと、台南弁護士会長の高木鑛太郎が前年11月頃から新聞を出そうと考え、商人の河端、前田、佐々木の三紙の同意を取り付けて八千円の資本金を準備していた。同じく新聞発行を計画していた高橋常吉と先に『台南日日新報』を発行していた田村武七が共同して高木に合併を申し込み、高木もこれに応諾したため、高木、田村、高橋という三弁護士によって経営されることになった。寺田盛代(元台南新報記者)の名義により1月23日付で台南廰から発行が許可される(「臺南通信 臺南每日新聞發行の計畫」『臺灣日日新報』明治36年1月30日、第2版)。印刷機械輸入の関係もあり、同年4月をめどに発行されることになった(「臺南毎日新聞の一號発刊期」『臺灣日日新報』明治36年3月25日)。

  その後、高木社長が同社募集の義援金を横領した容疑で拘引されるなど波瀾もあったが(「高木辯護士の拘引に就て」『臺灣日日新報』明治36年10月14日、第2版)、1906年5月には高木鑛太郎、田村武七、高橋常吉、西川利藤太の四人による共同経営体制となっている(「臺南每日新聞の刷新」『臺灣日日新報』明治39年5月18日、第2版)。その後、台南ローカルではなく全国紙を目指して同年9月より『全臺日報』と名称を変更したが(「臺南每日新聞の改題」『臺灣日日新報』明治39年8月31日、第5版)、結局振るわず、伊藤政重が新たに社長となって経営立て直しを図ったものの、1909年7月8日に『全臺日報』は解散することになった(「全臺日報の其後」『臺灣日日新報』明治42年7月13日、第2版)。

  なお、1898年1月の時点で、『臺南毎日新聞』発行人の浅井清亮が、台南廰から新聞掲載を禁じられた事項について、新聞ではなく自社前に掲示したことから、二年間の台湾在住禁止の処分によって退去を命じられた、という記事が見られるので(「臺南毎日の発行人退去を命ぜらる」『臺灣日日新報』明治31年1月24日、第七版)、1898年の時点で『臺南毎日新聞』という新聞が存在していたわけだが、それと1903年創刊のものとの関係は分からない。

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  台湾で最も古いとされている新聞は台南の長老教会で発行された『台湾府城教会報』(1885年)であり、これは現在も続く息の長いメディアであるが、キリスト教布教を目的としたものである。日本統治時代に入ってから商業性を備えた新聞が刊行される。領台直後の1896年には『台湾新報』、『台湾日報』の二紙が発刊されたが、1898年に統合されて『台湾日日新報』となった。その翌年の1899年1月には台南で新聞『台湾』が発刊されたが(『臺灣日日新報三十年史 臺灣の言論界』臺北:臺灣日日新報社、1928年、17頁)、その詳細については調査不足でよく分からない。

  台南ローカル紙の基礎作りを担ったのは台南活版舎という印刷会社である。創業者の矢島篤政(1868-1899)は熊本県宇土の出身で、濟々黌に学ぶ。九州日日新聞社に勤務していたが、日清戦争に従軍、台湾占領部隊に従って来台し(「本多督二外四名台南地方法院管內破產管財人ヲ命ス」(1898年10月14日),〈明治三十一年乙種永久保存進退追加第十卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000345061)、そのまま居ついたようである。1896年4月に台南活版舎を創業、同社は九州日日新聞の分身としての性格があったようであるから、矢島自身としては印刷業を基礎に新聞業へ事業を拡大させようという思惑があったのかもしれない。ところが、彼は1899年3月にペストで亡くなってしまう(中神長文『臺南事情』臺南城内:小出書店、1900年、97頁)。同年6月に後述する『台澎日報』が創刊されており、1900年2月に台南活版舎と『台澎日報』社が合併して『台南新報』となった。

  『台澎日報』は1899年6月に奥村金太郎、富地近思、平野六郎、江口音三らによって創刊された(平野六郎「治臺私見と偉人」『臺灣日日新報』大正4年6月17日、第51版)。創刊時の社主・奥村は矢島と同郷の熊本県宇土の出身で、しかも同い年でもあるから、よく見知った関係だったのだろう。『台澎日報』と台南活版舎との合同にはそうした人間関係があったように推測される。

  奥村金太郎(1868-1916)は郷党の先覚・佐々友房の創立した同心学校(濟々黌の前身)で中国語を学び、1888年に上海へ渡った。大陸では荒尾精の設立した日清貿易研究所(東亜同文書院の前身)とも関わりを持っており、同所の幹事的役割を果たしていた宗方小太郎の日記に奥村の名前も時折登場する(例えば、大里浩秋「宗方小太郎日記 明治22-25年」『神奈川大学人文学研究所報』第40号、2007年3月、78頁)。日清戦争が勃発すると奥村は陸軍通訳として従軍し、戦後は台湾総督府の通訳官として来台した(黒龍会編『東亜先覚志士記傳』下巻、191頁、東亜同文書院編『対支回顧録』下巻、546頁)。1895年8月に台南県廰詰の辞令が出されている(「奧村金太郎雇員任命」(1895年08月09日),〈明治二十八年乙種永久保存進退第六卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000047044)。その後、通訳官の職を辞して『台澎日報』の社主となり、『台澎日報』と台南活版舎の合同後の『台南新報』でも主筆となる。日露戦争が勃発すると再び通訳官として戦地に赴いたが、戦後も台南へ戻って『台南新報』副社長・主筆として引き続き活動した。彼はまた『臺南縣誌』(台湾日報社、1904年)の編纂委員となっている。編纂委員は奥村、蔡國琳、陳脩五、葉芷生の四名であり、同書は日本語であることから、実質的に奥村の執筆になるものと推測される。

  なお、1900年時点で台南活版舎・台南新報の陣容は次の通りであった。
台南活版舎長:奥村金太郎
同理事:平野六郎
同会計監督:江口音三
同舎員:水島忠新、田中健太郎、手島康、寺川喜三郎、大宮健次、樋口忠三
台南新報編輯局:奥村金太郎、平野六郎、北川壽、中島庸一、陳慶〔雨冠+洪〕、連雅堂(中神長文『臺南事情』97-98頁)

  『台南新報』は1903年1月に株式会社となり、台湾総督府に勤務していた富地近思(1857-?)が社長兼専務取締役となり、平野、奥村、江口が常務取締役、片山昻と蘇雲梯が監査役となった(「臺南新報の株式組織」『臺灣日日新報』明治36年1月13日第2版)。富地近思は北海道出身、1879年に陸軍省参謀本部より清国語学生徒として北京留学に派遣された。日清戦争後の1896年4月に総督府民政局通訳事務を委嘱され、7月に台南県へ派遣された。台南では土語通訳兼掌者銓衡委員、学務課長心得、知事官房記録係長心得、保安課兼務、臺南県文官普通試験委員、臨時文書編纂委員長、台湾公学校訓導検定委員、学事視察員、臺南県臺南第一公学校教務嘱託、文書課長兼学務課長、鳳山饗老典事務委員、臺南県誌編纂委員長、臺南県博物館評議員などの職務をこなした後、前述の通り公職を辞して1903年1月より台南新報社長となった。

  台南新報の関係者には奥村、富地の経歴から分かるように、中国語通訳として来台した後、官を辞して新聞業に身を投じた者が目立つ。奥村は上海の日清貿易研究所に関わっていたが、平野六郎と江口音三も同所の出身者である。宗方小太郎日記に奥村が出てくることは前述したが、平野、江口、それから矢島篤政の名前も散見される。矢島が中国語をマスターしていたかどうかは確認できないのだが、彼が学んだ濟々黌は佐々友房が創立した同心学校の後身で中国語教育に力を入れていたことから、富地、奥村、平野、江口と同様に矢島もまた「支那通」的なメンタリティーを持っていたと想定できるだろう(濟々黌や日清貿易研究所出身の中国語通訳については次を参照した。野口宗親「明治期熊本における中国語教育(1)」『熊本大学教育学部紀要 人文科学』第48号、1999年12月、同「明治期熊本における中国語教育(2)」『熊本大学教育学部紀要 人文科学』第51号、2002年12月)。

  平野六郎は佐賀県出身。1894年に上海の日清貿易研究所を卒業したとき日清戦争が勃発したため、陸軍通訳として従軍。1895年5月に台湾総督府付として台湾に上陸した。漢民族の文化に精通しているという自負があったが、自らの建言が容れられなかったため、二度辞職して帰国している。その後、1897年2月に台南県鳳山支廰嘱託。1899年に上述の『台澎日報』発刊に参加し、漢文部長となった。また、1899年10月には清代以来の台南の伝統的商業ギルド「三郊」が「三郊商業組合」として復活を図るにあたり、顧問となっている。安平と香港を結ぶ定期航路の就航にも奔走した。新学会、天足会などの発足にあたっても黒幕として動いたという(中神長文『台南事情』155-156頁;平野六郎「治臺私見と偉人」『臺灣日日新報』大正4年6月17日、第51版;「台南近信」『臺灣日日新報』明治32年11月26日、第3版)。

  江口音三は諫早の出身。1890年に日清貿易研究所に入り、平野と同じく1894年に卒業、そのまま日清戦争に通訳官として従軍した。1895年に台湾総督府付として来台、台南民政支部詰となって法院や警察の通訳を兼ねた。『台澎日報』の創刊に参加。平野と同様に「三郊商業組合」の顧問となる(中神長文『台南事情』154頁)。

  『台南新報』以外にも、1900年の時点でさらに三紙が刊行されていた。『台湾時報』は1900年5月13日に創刊。同紙の関係者としては、高橋常吉、片山昂、河島直方、脇山逸眞の名前が挙げられている。いずれも台南印刷局という印刷会社のメンバーと共通しており(中神長文『台南事情』98-99頁)、印刷会社を基礎として新聞業に進むという台南活版舎と同様のプロセスが見られる。このうち河島は台湾日日新報台南支局員も兼ねており、河島天橋という筆名で執筆していた。メンバーはそれぞれ本業を持っており、高橋常吉は訴訟代人、片山昂は弁護士、河島直方は火薬銃砲販売、脇山逸眞は物品販売、土木請負、旅館業を営んでいる。

  このうち興味深いのは脇山逸眞で、彼は熊本県出身、『紫溟新報』の記者をしていたことがある。1889年頃から中国貿易に携わっており、宗方小太郎日記にも脇山の名前が見える(大里浩秋「宗方小太郎日記 明治26-29年」『神奈川大学人文学研究所報』第41号、2008年3月、35頁)。こうして見ると、「支那通」的雰囲気も感じられるが、来台後は官庁御用達の仕事で儲けていたようである。台南廰が開設されたばかりの時に来たため、当然ながら職員の物資が欠乏している。そこで香港から輸入して稼いだという。安平税関の開設当日の最初の輸入業者になったという(脇山逸眞「馬鹿らしかった事 得意の事」『臺灣日日新報』大正4年6月17日、第51版)。

  『台南商業時報』は月刊誌で、1900年3月の創刊。古閑太一郎が独力で刊行している(中神長文『台南事情』99頁)。古閑は長崎の出身で、本木昌造の「新街義塾」を卒業。その後は東京で曙新聞の職工となった。苦学した後に大陸へ渡り、天津に三年間滞在した後、郷里に戻って長崎新報の編輯部に入る。日清戦争に従軍後、1896年に渡台、憲兵隊や県庁に勤務した後、『台澎日報』の創刊に参加。翌年には辞職して、雑貨業を営みながら一人で『台南商業時報』を切り盛りしている(中神長文『台南事情』148頁)。

  『台陽日報』は1900年10月18日に刊行許可されている(「臺陽日報発行の認可」『臺灣日日新報』明治33年10月20日、第1版)。古閑太一郎と梶村吉路の二人で刊行するかたわら、印刷業も兼ねている(中神長文『台南事情』99頁)。梶村も通訳として来台したようだが、1898年8月に辞職している(「通譯梶村吉路辭職ノ件(元臺南縣)」(1898年08月01日),〈明治三十一年元臺南縣公文類纂永久保存進退第十九卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00009541079)。

  以上のように見てくると、日本統治時代初期台南における新聞関係者は中国語通訳出身者が中心となっており、とりわけ熊本濟々黌─上海日清貿易研究所という佐々友房・荒尾精に連なる「支那通」人脈との関わりが目立つ(奥村金太郎、平野六郎、江口音三、矢島篤政)。これは台南に限らず、佐々─荒尾系「支那通」が中国語通訳の主要な供給源となっていたことに起因するのだろう。脇山逸眞は商人として来台したが、かつては佐々友房と関わりの深い『紫溟新報』にいたし、上海では荒尾側近の宗近小太郎と関わりを持っていたから、脇山も佐々─荒尾系と考えていいだろう。富地近思は陸軍系、古閑太一郎と梶村吉路の背景は分からないが、いずれも中国語通訳として来台している。

  『台南新報』はその後、『台湾日日新報』や『台湾新聞』と共に日本時代の台湾三大紙と呼ばれるようになり、1921年以降に関しては復刻版も出されているが、それ以前の紙面(『台澎日報』時代も含め)を確認することができない。また、『台湾時報』、『台南商業新報』、『台陽日報』については、記録を通してその存在が分かっているが、やはり原資料がないので、内容的なことは分からないのが残念である。


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清水麗『台湾外交の形成──日華断交と中華民国からの転換』(名古屋大学出版会、2019年)

  本書では戦後においていくつかの局面の変化を経ながら「現状維持」が継続されてきたことに着目しながら台湾(中華民国)の外交が分析されている。本書の特色は、「一つの中国」原則に則った思考・行動様式に基づく「中華民国外交」から、「台湾」としての国際的認知を求める「台湾外交」への移り変わりとして戦後台湾(中華民国)外交を把握しているところにある。

  戦後台湾(中華民国)外交について本書では次の三つの時期に分けて論じられている。第一期が1949年の台湾移転から1971年の国連脱退までで、「中華民国外交」の時期にあたる。「中華民国外交」は渡台以前の外交との継続性が認められる。第二期は国連脱退から1980年代後半までで、蒋経国の指導の下で行われていた実質外交の時期である。台湾内外の様々な拘束要因に左右されつつ生き残りをかけた実務外交が展開されたが、「中華民国外交」の原則も放棄されたわけではない。この時期の外交は、「中華民国外交」がさらに継続されるか、もしくは「台湾外交」へ転換されるか、まだ不確定であったと指摘される。第三期は1980年代後半に民主化が始まり、李登輝が登場してから現在に至るまでの「台湾外交」の時期にあたる。それぞれの段階における論点については目次を写しておく。

序章 「現状維持」を生み出すもの
第一章 台湾の中華民国外交の特徴
第二章 1950年代の米台関係と「現状維持」をめぐるジレンマ
第三章 1961年の中国代表権問題をめぐる米台関係
第四章 政経分離をめぐる日中台関係の展開
第五章 1960年代の日華関係における外交と宣伝工作
第六章 中華民国の国連脱退とその衝撃
第七章 日華断交のとき 1972年
第八章 外交関係なき「外交」交渉
第九章 中華民国外交から台湾外交へ
終章 「現状維持」の再生産と台湾外交の形成

  日台関係に関して言うと、戦後台湾外交において「日華」と「日台」との二重性はよく指摘される。前者の日華議員懇談会のように蒋介石を象徴的存在として結び付いた人脈から、後者において日本語を話せる本省人などが駐日代表として派遣されてチャネルを再構築した人脈、言い換えると李登輝を象徴的存在として結び付いた日台人脈への転換という論点に興味を持った。

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家永真幸『国宝の政治史──「中国」の故宮とパンダ』(東京大学出版会、2017年)

  東京国立博物館で開催中の「顔真卿展」を見に行ったら、会場内のあちこちから中国語が聞こえてきた。ちょうど春節休暇中でもあり、中国や台湾からも多くの観客が見に来ていることが分かる。ところで、台湾や中国でこの展覧会に対する非難の声が上がった。出品された中でも目玉とされた「祭姪文稿」の劣化を心配し、国宝級の作品を国外へ持ち出すことに疑念が表明されていた。ただし、「祭姪文稿」は台北の故宮博物院の所蔵品で、こうした言説には野党・国民党による民進党政権批判のための政治利用という側面があり、それに中国の「環球時報」などが便乗したという背景がある。同じく以前に日本で「故宮博物院展」が開催されたときは、「故宮博物院」という名称に「国立」をつけるか否かも論争の的となった(台湾では「国立故宮博物院」が正式名称となる)。

  このように故宮の「国宝」は、中台関係が絡むと政治的争点になりかねない。本書はそうした中台関係の政治力学において「国宝」というシンボルの果たした役割を分析している。本書の特色は、「国宝」という概念を故宮文物に限定せず、パンダも合わせて考察対象に含めているところにある。故宮文物は共和国の成立や中華文化を象徴し、対してパンダは「稀少さ」が国宝的価値を帯び、「可愛さ」が対外的なアピール・ポイントになる。故宮文物は台湾へ渡り、他方でパンダは大陸に残ったという相違が問題をより複雑にする。なお、パンダと中台関係に関して著者はすでに『パンダ外交』(メディアファクトリー新書、2011年)を刊行している。

  本署の第一部「中国の近代国家建設と国宝形成」では、故宮文物やパンダが中華民国によって政治的シンボルを帯びた「国宝」となっていくプロセスがたどられる。故宮博物院は1925年に成立したが、北京の紫禁城にあった文物や民間にあった重要文物などを政府の管轄下に置く形で収蔵品を充実させた。国共内戦で国民党が敗れると、故宮文物の大半が台湾へ移転され、当初は台中の倉庫に保管されたが、1965年に台北で現在の故宮博物院が開設された(正式には中山博物院という名称で、それを故宮博物院が管轄するという形式を取った)。「故宮文物は中国国家の公的な財産であり、故宮文物の保護者こそ合法中国政府である」(195頁)という論理は中国、台湾(中華民国)の双方で共有されており、そうであるがゆえに対外的にも正統性アピールの争点となる。パンダに関しては抗日戦争中に対外宣伝工作の一環として政治資源になっていた。こうした背景を踏まえ、第二部「分断国家の国宝をめぐる中台関係の展開」では「中国統一」をめぐる双方の政治的駆け引きが分析される。

  故宮文物の展示貸し出しやパンダの国外動物圓への寄贈といった「国宝」の移動は「どの国の国境か?」という問題を浮上させる。他方で、第二部で分析される実際の駆け引きを見ていくと、中台双方による複数の解釈を如何にして同時に成り立たせるかという力学も同時に働いているのが興味深い。2015年には台湾の嘉義県に故宮博物院南院が開館し、南院はアジアの中の中国・台湾というコンセプトを示していることもあり、故宮博物院は何を展示するための博物館なのか、という問題が提起されてくる。故宮の正統性をめぐる複雑な駆け引きの一方で、2016年12月に中国は「香港故宮文化博物館」の建設計画を表明し、中国側としては膠着状態を前提にして「地方政府に与えた恩恵」として読み替えていく可能性も示唆される。また、台湾独立派からすれば故宮文物は「中国」のシンボルとして批判対象となるはずだが、民進党政権になってもその返却もしくは破壊が政治的争点になっていない点にも本書は注目している。

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