日清戦争から台湾占領という過程で、日本仏教各宗派はそれぞれ従軍布教使を送り込んだが、その中でもとりわけ本願寺派の出足が早かった。台湾接収のため1895年5月22日に旅順港を出港した近衛師団には大江俊泰(本願寺派)、林彦明(浄土宗)、椋本龍海(真言宗)が従軍布教使として同行しており、同月に本願寺派は海外布教に従事する僧侶の養成のため「清韓語学研究所」を開設している。澎湖占領部隊にも従軍布教使が同行していたが、彼らが1895年末までに帰国すると、翌1896年から台湾へ開教使や布教使が派遣された。本願寺派の場合、軍隊布教を中心にしていた点に特色があり、併せて現地人への宣撫工作にも協力していく(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』三人社、2016年、36-44頁)。
宮本(旧姓:荻野)英龍は1896年に本願寺派から台南へ派遣された一人である。1865年1月21日、和歌山県に生まれた(彼の履歴については次を参照:「宮本英龍ヘ臺南監獄教誨事務ヲ囑託ス」(1902年10月04日),〈明治三十五年永久保存進退追加第十七卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000798018)。1876年には得度しており、その後、本願寺派からの派遣留学の形で1891年に東京専門学校を卒業している。1895年には「清韓語学研究所」研究員となっており、このときに中国語を学んだと考えられる。翌1896年1月に台湾派遣軍隊慰問使となることが大本営より許可、6月には本願寺より台南布教所主任及開導学校長、7月には台南衛戍監獄教誨事務嘱託となる。他方で、彼の履歴書には、本願寺執行所から布教のため台湾出張を申し付けられたのは同年7月22日となっているのだが、時系列が少々混乱している。
本願寺派は軍隊布教を主としていたので、1897年3月に宮本は台湾守備混成第三旅団旅団長の比志島義輝陸軍少将から感謝状を送られている。本願寺派が台南で開設した日本語学校である開導学校については、次のように説明されている。
「(一)台南開導学校 明治二十九年四月台南城内様仔奎楼書院駐在布教使荻野英龍平田博慈二氏より布教の傍土人子弟に日本語の教育を開かんことを本山に伺出で認可を得て六月に至り該奎楼書院に於て日本語の教授を始め開導学校と名く、其後五帝廟街三官廟に移り三十年八月更に関帝廟街三十三番戸に移る、生徒の員数は二十九年七月の調査に於て三十七名ありしも、漸次増加して同年十二月には百二十六人、三十年十二月には百五十人に達せり、学科は語学科正科の二に分ち語学科は日本語を教授し正科は小学課程に依る、二十九年十二月に卒業生五名、三十年十二月に卒業生四十名を出だせり」(『教海一瀾』1898年3月、中西直樹『植民地台湾と日本仏教』88頁より孫引き)
この引用では日本語学校としては語学科と正科に分けられているとされているが、宮本自身の説明によると、15歳以下を対象とする予科と15歳以上を対象とする語学科、さらに商家の番頭手代を対象とする夜学があった。また、「土語」(台湾語)を研究する日本人のため台湾人教師を招聘して毎晩研究会を開いており、主に官吏や憲兵など三十数名が来ているという(「本願寺開導學校卒業式」『臺灣日日新報』明治31年3月20日、第3版)。1898年11月16日に両廣會館で開催された第四回卒業証書授与式では、本島人学生(顔茂修、蘇震修)が「国語」(日本語)であいさつしたほか、二人の日本人(今村寛之という13歳の少年、及び東恩納盛展)が「土語」であいさつした(「國語卒業」『臺灣日日新報』明治31年11月20日、第3版)。開導学校は台湾人に日本語を教えるだけでなく、台南在住日本人が台湾語を学ぶ場としての役割も担っていたことが分かる。
なお、「国語卒業」の記事中で、今村寛之という13歳の少年に言及されているが、記事には東京府士族と明記されている。当時の台南在住日本人で今村姓の東京府士族という条件で考えると、おそらく台南法院検察官・今村幾の息子であると推測される(「今村幾訴訟代人免許」(1898年03月31日),〈明治三十一年乙種永久保存第四十七卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000305013)。
宮本は台南教育会の例会にも参加しており、1898年9月15日に開催された教育会例会で、宮本が盲唖院生徒の蔡渓を紹介している(「臺南教育會例會」『臺灣日日新報』明治31年10月1日、第2版)。蔡渓はもともとウィリアム・キャンベルの盲学校の生徒で、1897年に訪日するトマス・バークレーに連れられて東京へ行き、東京盲唖学校に留学した三人の台湾人盲学生の一人である。この例会では台湾語と日本語で日本内地でのことを語ったようであるが、キリスト教人脈で東京留学をした蔡渓が、どういういきさつで本願寺派の宮本と知り合い、台南教育会例会に連れてこられたのか、興味が引かれる。
1900年12月、宮本は台南布教所主任、開導學校長、軍隊布教監獄教誨事務を辞職する。履歴書上では病気のためとされているが、当時の報道によると、「恒春地方の蕃界に投じて殖民化蕃の業を創めんとて稟議の為め本山へ帰れり」(「西本願寺の布敎師」『臺灣日日新報』明治33年12月21日、第2版)と記されており、彼は原住民布教に意欲を持っていたようだ。1902年9月には台南へ戻って復職するのだが、その後、宮本が原住民地域へ向かった記録はないので、おそらく彼の提案は本山で却下されたのであろう。
1903年12月30日付で、宮本は台湾総督府に台南監獄教誨事務嘱託の辞職願を提出している(「臺南監獄教誨事務囑託宮本英龍依願解囑ノ件」(1903年12月30日),〈明治三十七年永久保存進退第一卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00001011021)。翌1904年3月には開導学校は閉鎖された(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』三人社、2016年、92頁)。1906年4月の新聞報道で宮本が汕頭にいることが確認できるので、本願寺派の中国南部布教の方針に従って大陸へ渡ったことが分かる(「本願寺開教南清」『漢文臺灣日日新報』明治39年4月6日、第5版)。
なお、本願寺派から台南へ派遣された日本人としては、宮本英龍のほか、布教使の平田博慈、開導学校教員の鈴川知之、藤谷峻岱といった名前が確認できる(「國語卒業」『臺灣日日新報』明治31年11月2日第3版)。また、台南で本願寺派に帰属した現地僧侶として、石以能(彌陀寺住職)、曾慧義(水仙宮住職)、呉以錦(大士殿住職)、徐青揚(三官廟住職)、陳善本(溫陵祖廟住職)、林開淇(銀同祖廟住職)の6名がいたという(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』、71頁)。
宮本(旧姓:荻野)英龍は1896年に本願寺派から台南へ派遣された一人である。1865年1月21日、和歌山県に生まれた(彼の履歴については次を参照:「宮本英龍ヘ臺南監獄教誨事務ヲ囑託ス」(1902年10月04日),〈明治三十五年永久保存進退追加第十七卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000798018)。1876年には得度しており、その後、本願寺派からの派遣留学の形で1891年に東京専門学校を卒業している。1895年には「清韓語学研究所」研究員となっており、このときに中国語を学んだと考えられる。翌1896年1月に台湾派遣軍隊慰問使となることが大本営より許可、6月には本願寺より台南布教所主任及開導学校長、7月には台南衛戍監獄教誨事務嘱託となる。他方で、彼の履歴書には、本願寺執行所から布教のため台湾出張を申し付けられたのは同年7月22日となっているのだが、時系列が少々混乱している。
本願寺派は軍隊布教を主としていたので、1897年3月に宮本は台湾守備混成第三旅団旅団長の比志島義輝陸軍少将から感謝状を送られている。本願寺派が台南で開設した日本語学校である開導学校については、次のように説明されている。
「(一)台南開導学校 明治二十九年四月台南城内様仔奎楼書院駐在布教使荻野英龍平田博慈二氏より布教の傍土人子弟に日本語の教育を開かんことを本山に伺出で認可を得て六月に至り該奎楼書院に於て日本語の教授を始め開導学校と名く、其後五帝廟街三官廟に移り三十年八月更に関帝廟街三十三番戸に移る、生徒の員数は二十九年七月の調査に於て三十七名ありしも、漸次増加して同年十二月には百二十六人、三十年十二月には百五十人に達せり、学科は語学科正科の二に分ち語学科は日本語を教授し正科は小学課程に依る、二十九年十二月に卒業生五名、三十年十二月に卒業生四十名を出だせり」(『教海一瀾』1898年3月、中西直樹『植民地台湾と日本仏教』88頁より孫引き)
この引用では日本語学校としては語学科と正科に分けられているとされているが、宮本自身の説明によると、15歳以下を対象とする予科と15歳以上を対象とする語学科、さらに商家の番頭手代を対象とする夜学があった。また、「土語」(台湾語)を研究する日本人のため台湾人教師を招聘して毎晩研究会を開いており、主に官吏や憲兵など三十数名が来ているという(「本願寺開導學校卒業式」『臺灣日日新報』明治31年3月20日、第3版)。1898年11月16日に両廣會館で開催された第四回卒業証書授与式では、本島人学生(顔茂修、蘇震修)が「国語」(日本語)であいさつしたほか、二人の日本人(今村寛之という13歳の少年、及び東恩納盛展)が「土語」であいさつした(「國語卒業」『臺灣日日新報』明治31年11月20日、第3版)。開導学校は台湾人に日本語を教えるだけでなく、台南在住日本人が台湾語を学ぶ場としての役割も担っていたことが分かる。
なお、「国語卒業」の記事中で、今村寛之という13歳の少年に言及されているが、記事には東京府士族と明記されている。当時の台南在住日本人で今村姓の東京府士族という条件で考えると、おそらく台南法院検察官・今村幾の息子であると推測される(「今村幾訴訟代人免許」(1898年03月31日),〈明治三十一年乙種永久保存第四十七卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000305013)。
宮本は台南教育会の例会にも参加しており、1898年9月15日に開催された教育会例会で、宮本が盲唖院生徒の蔡渓を紹介している(「臺南教育會例會」『臺灣日日新報』明治31年10月1日、第2版)。蔡渓はもともとウィリアム・キャンベルの盲学校の生徒で、1897年に訪日するトマス・バークレーに連れられて東京へ行き、東京盲唖学校に留学した三人の台湾人盲学生の一人である。この例会では台湾語と日本語で日本内地でのことを語ったようであるが、キリスト教人脈で東京留学をした蔡渓が、どういういきさつで本願寺派の宮本と知り合い、台南教育会例会に連れてこられたのか、興味が引かれる。
1900年12月、宮本は台南布教所主任、開導學校長、軍隊布教監獄教誨事務を辞職する。履歴書上では病気のためとされているが、当時の報道によると、「恒春地方の蕃界に投じて殖民化蕃の業を創めんとて稟議の為め本山へ帰れり」(「西本願寺の布敎師」『臺灣日日新報』明治33年12月21日、第2版)と記されており、彼は原住民布教に意欲を持っていたようだ。1902年9月には台南へ戻って復職するのだが、その後、宮本が原住民地域へ向かった記録はないので、おそらく彼の提案は本山で却下されたのであろう。
1903年12月30日付で、宮本は台湾総督府に台南監獄教誨事務嘱託の辞職願を提出している(「臺南監獄教誨事務囑託宮本英龍依願解囑ノ件」(1903年12月30日),〈明治三十七年永久保存進退第一卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00001011021)。翌1904年3月には開導学校は閉鎖された(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』三人社、2016年、92頁)。1906年4月の新聞報道で宮本が汕頭にいることが確認できるので、本願寺派の中国南部布教の方針に従って大陸へ渡ったことが分かる(「本願寺開教南清」『漢文臺灣日日新報』明治39年4月6日、第5版)。
なお、本願寺派から台南へ派遣された日本人としては、宮本英龍のほか、布教使の平田博慈、開導学校教員の鈴川知之、藤谷峻岱といった名前が確認できる(「國語卒業」『臺灣日日新報』明治31年11月2日第3版)。また、台南で本願寺派に帰属した現地僧侶として、石以能(彌陀寺住職)、曾慧義(水仙宮住職)、呉以錦(大士殿住職)、徐青揚(三官廟住職)、陳善本(溫陵祖廟住職)、林開淇(銀同祖廟住職)の6名がいたという(中西直樹『植民地台湾と日本仏教』、71頁)。