先日、台湾で「日本統治時代に活躍した「台湾の孫文」没後85年も政界で存在感」(2016年4月2日、中央社フォーカス台湾→こちら)という記事が出ていた。蔡英文・次期総統が、蒋渭水没後85年を記念するコンサートに出席したことから説き起こされている。
蒋渭水は1891年、宜蘭に生まれた。台湾総督府医学校を卒業後、医師として開業するかたわら、台湾文化協会、台湾民衆党などを立ち上げ、台湾民族運動中間派・左派のリーダーとして知られている。1931年に病没。彼の生涯については、黄煌雄《蒋渭水傳:臺灣的孫中山》(台北:時報出版)を参照のこと(→こちらで紹介したことがある)。
蒋渭水は台湾民族運動を進めるにあたり、孫文の三民主義の影響を受けていたことから「台湾の孫中山」と呼ばれることがある。馬英九総統など国民党の立場からすると、三民主義と中華民族主義に立脚して抗日運動をリードしたという点で台湾における中華民国の正統性を示すにうってつけの人物ということになる。彼は忠烈祠にも祀られている。ただし、蒋渭水が戦後まで生きて実際の国民党を目の当たりにしたとしたら、どのように評価しただろうか? 正義感の強い彼のことだから、おそらく国民党の腐敗体質を厳しく批判して弾圧された可能性は高い(例えば、魯迅が長生きしたら、文化大革命でどんな運命をたどったか?というのと同じ趣旨の仮定である)。実際、蒋渭水の弟の蒋渭川は二二八事件でブラックリストに載せられ、その娘(つまり、蒋渭水の姪)が殺されている。
無所属で台北市長に当選した医師出身の柯文哲も常々、蒋渭水への敬意を語っているが、これは医師であると同時に社会問題に関心を寄せた先達としての意味合いが強い。また、柯文哲が卒業した台湾大学医学部は、蒋渭水の卒業した台湾総督府医学校の後身であり、遠い先輩という関係でもある。
蔡英文など民進党の立場からすれば、台湾総督府の弾圧に屈せず政治の民主化のため立ち上がり、民族運動を通して台湾主体意識の形成に貢献した先達の一人という位置づけになるだろう。ここで注意すべきなのは次の二点。第一に、民進党は国民党に比べて「親日」的であると日本ではみなされているが、他方で台湾アイデンティティーの確立という観点から日本統治時代における抗日闘争については肯定的な位置づけがなされていること。第二に、蒋渭水が信奉していた三民主義については、現行憲法の枠内で尊重するという立場であって、中華民族主義的な発想については留保されていること。
蒋渭水の抗日闘争を評価するにしても、その対抗軸を祖国(=中国)に置くか、台湾に置くかで、ロジックの取り方が異なってくる。蒋渭水が生きていた当時は、さしあたっての敵は日本帝国主義であり、中華意識の中に台湾も包含されていたことから、このあたりは矛盾として意識されていなかった。中国と台湾とを切り離す言説は、戦後になってから明確化された思考方法である。国民党など中台統一派(藍色=ブルー)は三民主義や中華意識に注目し、他方で民進党など台湾主体派(緑色=グリーン)は民族運動を通した台湾主体意識の形成プロセスに注目する。蒋渭水という一人の人物の中に様々な要素が凝縮されているが、彼は1931年の時点で病没しており、当然ながら1945年以降の政治情勢に対しては何らの判断をも示すことはできなかった。そうであるがゆえに、後世の人々はそれぞれの立場に応じて都合の良い部分をピックアップして彼を称揚しているとも言える。台湾は複雑な歴史的変転を経てきているため、歴史上の人物についてこうしたシンボル操作がされやすい傾向があることには留意しておく必要がある(鄭成功などもその一例だ)。