李乾朗《百年古蹟滄桑:臺灣建築保存紀事》(典藏藝術家庭,2014年)
・欧米や日本での事例も参照例として言及しながら、それらとの比較の中で台湾において古跡保存の取り組みがどのように行われてきたのか、百年間の経緯と問題点をまとめている。以下は簡単なメモ。
・日本統治時代における古跡保存の七段階(69頁)
第一段階:原住民族および漢文化習俗の調査と保存。
第二段階:領台時に来た軍隊や日本人殉難者に関わる古跡(芝山巌六君子遭難碑など)。
第三段階:都市計画や市区改正により漢人の古建築が壊された。
第四段階:大正デモクラシーの時期には寺廟建築が盛んに建てられた。1919年には日本国内で史蹟保存法令が整備される
第五段階:史蹟や天然記念物を保護するためのリスト作成。
第六段階:皇民化運動→清代の重要建築が破壊された。
第七段階:台湾史研究流行に注意がうながされ、安平や赤崁楼の発掘調査。
・国民党政権が来台して以降の1950~60年代は古跡保存について無知の時代。そうした中でも台南の石陽睢、黄典権、台北の楊雲萍、林衡道といった人々が孤軍奮闘しながら保存の努力。
・1970~80年代になって政府もようやく古跡保存の問題に注意を向けるようになった。道路拡張のため林安泰古厝の解体が決められ、林衡道や席徳進たちが保存のため反対の論陣を張ったが、1978年に結局解体されてしまったことの反省は大きな転換点となった(林安泰古厝は後に再建)。
・1982年に行政院文化建設委員会が設立、1982年に文化資産保存法が公布(日本の法令を参考)。また、日本統治時代に建てられた桃園神社の保存をめぐり政治的な感情から反対論も強かったが、1990年代に古跡指定を受けた。こうして過去に対する心理的障壁がクリアされると、日本統治時代の建造物も次々と古跡指定を受けるようになった。
・古跡の「真実性」(Authenticity)をめぐる問題。一つの古跡には異なる時代の様々な痕跡が刻み込まれているわけだが、古跡を修復・復元するにあたり、どこまでさかのぼって考えるのか? その古跡が閲してきたそれぞれの時代ごとに重要な意義がある点に留意。
・「古跡」と「歴史建築」の相違(後者は比較的新しい建築だが、歴史的事件のとの関わりで重要な場合)。また、産業建築の再利用(松山菸廠、九份・金瓜石の金鉱地区、台南・総爺の糖廠など)。
・ハンセン病患者が収容された楽生療養院のように負の歴史を考えるための保存。
・歴史建築保存の考え方に柔軟性を持たせる必要。①歴史的情感をしのばせる。②教育資源として。③レジャー文化施設として。④観光資源として地方産業に結び付ける。