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台湾をめぐるあれこれ

2015年04月

李乾朗《百年古蹟滄桑:臺灣建築保存紀事》(典藏藝術家庭,2014年)

・欧米や日本での事例も参照例として言及しながら、それらとの比較の中で台湾において古跡保存の取り組みがどのように行われてきたのか、百年間の経緯と問題点をまとめている。以下は簡単なメモ。

・日本統治時代における古跡保存の七段階(69頁)
第一段階:原住民族および漢文化習俗の調査と保存。
第二段階:領台時に来た軍隊や日本人殉難者に関わる古跡(芝山巌六君子遭難碑など)。
第三段階:都市計画や市区改正により漢人の古建築が壊された。
第四段階:大正デモクラシーの時期には寺廟建築が盛んに建てられた。1919年には日本国内で史蹟保存法令が整備される
第五段階:史蹟や天然記念物を保護するためのリスト作成。
第六段階:皇民化運動→清代の重要建築が破壊された。
第七段階:台湾史研究流行に注意がうながされ、安平や赤崁楼の発掘調査。

・国民党政権が来台して以降の1950~60年代は古跡保存について無知の時代。そうした中でも台南の石陽睢、黄典権、台北の楊雲萍、林衡道といった人々が孤軍奮闘しながら保存の努力。

・1970~80年代になって政府もようやく古跡保存の問題に注意を向けるようになった。道路拡張のため林安泰古厝の解体が決められ、林衡道や席徳進たちが保存のため反対の論陣を張ったが、1978年に結局解体されてしまったことの反省は大きな転換点となった(林安泰古厝は後に再建)。

・1982年に行政院文化建設委員会が設立、1982年に文化資産保存法が公布(日本の法令を参考)。また、日本統治時代に建てられた桃園神社の保存をめぐり政治的な感情から反対論も強かったが、1990年代に古跡指定を受けた。こうして過去に対する心理的障壁がクリアされると、日本統治時代の建造物も次々と古跡指定を受けるようになった。

・古跡の「真実性」(Authenticity)をめぐる問題。一つの古跡には異なる時代の様々な痕跡が刻み込まれているわけだが、古跡を修復・復元するにあたり、どこまでさかのぼって考えるのか? その古跡が閲してきたそれぞれの時代ごとに重要な意義がある点に留意。

・「古跡」と「歴史建築」の相違(後者は比較的新しい建築だが、歴史的事件のとの関わりで重要な場合)。また、産業建築の再利用(松山菸廠、九份・金瓜石の金鉱地区、台南・総爺の糖廠など)。

・ハンセン病患者が収容された楽生療養院のように負の歴史を考えるための保存。

・歴史建築保存の考え方に柔軟性を持たせる必要。①歴史的情感をしのばせる。②教育資源として。③レジャー文化施設として。④観光資源として地方産業に結び付ける。

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・蕭怡靖・鄭夙芬「台灣民眾對左右意識型態的認知:以統獨議題取代左右意識形態檢測台灣的政黨極化」(《台灣政治學刊》第18卷第2期,2014年12月)を読みながらとったメモ。

・欧米の民主主義国家では「左派/右派」という政治的意識形態によって政党の両極化が進んでいる。こうした事情を踏まえて編み出されたDaltonの政党両極化指数を本論文でも用いる(指数は政党間の両極化傾向を示す)。

・ただし、台湾の一般人は「左派/右派」という概念にあまり馴染みがなく、しばしば誤解すらしている。従って、Daltonの指数を用いて政党分布の国際比較を進めようとしても、「左派/右派」概念を前提とすると、台湾の場合、有意な結果が得られない。そこで、本論文では「左派/右派」概念の代わりに「統一/独立」概念を基準とすることで、台湾の一般の人々の政党イメージを検証する。

・アンケート調査では、「左派/右派」イメージについてどのように捉え、自らをどこに位置付けているかを質問している他、「台湾独立/両岸統一」のどちらを重視するか、「環境保護/経済発展」のどちらを重視するか、「福祉を推進するか否か」、「大幅な改革を支持するか、それとも社会的安定を重視するか」といった項目がある。

・全般的には国民党=右派、民進党=左派というイメージが見られる。1996年から2012年まで実施された5回の総統選挙の際のデータを踏まえると、1996年・2000年時よりも、2004年・2008年時の方が指数は大きい。これは、藍緑対立の構図が徐々に確立されてきたことと、陳水扁政権下では立法院は野党(国民党など)が多数を占めるという「分立政府」の状況にあって与野党が正面から激突する場面が多かったことに理由が求められる。また、2012年では指数が若干下がっているが、これは馬英九政権が「不独・不統・不武」の両岸中立政策を掲げたことと、民進党が大陸政策の修正を模索し始めたことに理由が求められる。

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  台湾へやって来たオランダ東インド会社は1624年、安平の地にゼーランディア城(Fort Zeelandia、熱蘭遮城)を築き、東アジア交易の拠点とした。ゼーランディア城の防備力を強化するため、1639年、かたわらの小高い丘に築き上げたのがユトレヒト支城(Fort Utrecht、烏特勒支堡)である。1661~62年にかけて鄭成功が安平へ攻め寄せてきたとき、ユトレヒト支城をめぐる攻防戦が最大の山場となり、ここが陥落すると間もなくゼーランディア城のオランダ人は降伏せざるを得なくなった。

  ユトレヒト支城が打ち捨てられた後、この小高い丘は近隣の人々の墓所となり、あたり一面は墓石で埋め尽くされている。現在は安平第一公墓となっているが、これ以上の拡大は禁じられているようだ。そうした一角に「安平十二軍夫墓」と記された看板が立っている。

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  1937年に日中戦争が始まると、安平の男性も軍属として動員されることになった。理由としては、第一に安平人は漁撈や塩田作業など力仕事に長けた人々とみなされたこと、第二に公学校教育を通して日本語の普及度が高かったこと、第三に近隣の人々をまとめて徴用すれば戦場でもお互いに助け合うだろうと期待されたことが挙げられる。

  安平からは合わせて400人以上が徴用された。上海から武漢三鎮まで駆り出された後、海南島まで転戦。いったん台湾へ戻ったものの、一部の人々は再訓練を受けて再び広東方面に派遣されたという。ここには大陸の戦場で命を落とした軍夫たち12人の遺骨や遺品が葬られている。

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