ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

2014年12月

  星空を見上げながら、どこかぎこちなく、どこかはにかみながら夜道を歩く小鳳(林妍柔)と張北川(林柏宏)。極地では夜が長く、真っ暗らしい。張北川が大学の講義で聞いたばかりの話をすると、小鳳は「じゃあ、北緯69度であなたを待ってるよ」。一昔前、まだ清潔なあどけなさすら感じられた二人の関係にもやがて終わりが来る。やむを得ない事情で小鳳は渡米することを決意。台湾に残された張北川は後を追うようにアラスカへ行き、そのまま消息を絶った。


  それから24年が経過。小鳳のお腹に宿されていた張北川の娘、艾利莎(楊丞琳)はアメリカで生まれたが、実の父親を知らないコンプレックスを抱えている。彼女も恋をするようになったが、相手は昔の恋人と別れられないまま。失恋した勢いで母親の小鳳(季芹)と大喧嘩をしたが、まさにその日、小鳳が急死してしまう。二重の悲しみに打ちひしがれる艾利莎。そんな彼女のことを見守っている同僚の小開(宥勝)は何くれとなく気を配っているのだが、艾利莎は気づいていない。


  小鳳と艾利莎の母娘二人、24年を隔てて彼女たちそれぞれが青春時代にぶつかった「初恋」、その苦悩が交互に語られながら映画は進行する。演劇家・李國修の「北極之光」という演劇が基になっており、息子の李思源がメガホンを取って映画化されたという。ある種の純愛物語としての盛り上がりは十分で、映画館内ではすすり泣いている人もいた。


  原作を知らないので解釈を間違っているかもしれないが、この作品で言う「初恋」とは、自分が若い頃、生涯をかけて追い求めようと心中に燃え盛った情熱で、ただ、その後の人生の荒波の中で挫折し、いつしかそうした情熱も忘れかけてしまう。それでも何とか追い求め、決して完成されることはなくとも、自分なりに決着をつけようとする。そのようにもがき続けた人生は、仮に非業に終わったようであっても、見守ってくれている人が必ずどこかにいる。そうした寓意として解釈できるのだろうかと思った。そう考えると、「初戀的存在是為了遺憾」(初恋は悲しむためにある)(これは小鳳の文章にある言葉で、小開が知らずに口に出すが、艾利莎がそれは母の言葉だと指摘する)、「遺憾就是沒有結局的故事」(本当に悲しいのは、物語に結末がつかないことだ)(艾利莎)といったセリフも生きてくるように思う。


  実はこの映画のロケを私は成功大學キャンパスでたまたま見かけていた。その時は何のドラマの撮影なのか全く知らなかったが、今回、この映画を見て初めてそれが小鳳(林妍柔)と張北川(林柏宏)の初恋のシーンだったと気づいた次第(その時点で二人の服装が何となく古くさいなあ、とは感じていた)。成功大學は台南にある。また、映画中で、張北川が小鳳を自宅に招いて両親に紹介したとき、台南名物のサバヒーという魚でもてなすシーンもあったから、彼らの初恋の舞台は台南という設定なのだろう。対して、艾利莎と小開の初恋の舞台はおそらく台北。過去と現在とを対比させるとき、現代的な台北に対して、台南はノスタルジーの象徴のような位置づけになるのだろうか。

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  李國鼎故居で案内してくださったボランティアガイドの方から、他にも近くに日式家屋があるよ、と教えていただき、早速訪れてみたのが、ここ齊東詩舎。番地は台北市濟南路二段25號。日本統治時代、このあたりには台湾総督府の「幸町職務官舎」が広がっていた。李國鼎故居を含む南側には高官クラスの官舎が、北側には1940年頃に比較的階級の低い公務員向け宿舎が建てられたという。

  齊東詩舎は二棟の建物から成る。濟南路二段25號にある25號建築は展示室となっている。入ってみると、内部はだいぶ改修された様子で、李國鼎故居とは違って生活臭は一掃されており、日本情緒ただよう雰囲気である。私が訪れたときには「詩 手跡」というテーマで展示が行われていた。台湾の著名な詩人たちの手稿が展示されており、中には巫永福が若い頃に日本語で書いた詩の原稿もあった。

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  隣の27號建築は多目的スペースとして利用されているようだが、私が訪れたときには閉まっていた。こちらは空軍副総司令として1949年に来台、後に参謀総長にまで出世する王淑銘という軍人の邸宅となっていたようだ。

  齊東詩舎という名称は作家の龍應台がつけたという。以前、台北市文化局長を務めていた彼女のイニシアティブでここの日式家屋群の保存が決められたという経緯があるらしい。管理運営には台湾文学館も関わっている。2014年からここを拠点として「詩的復興」というプロジェクトも立ち上げられているそうだ。

  齊東詩舎の北側の敷地にはすでに崩れた木造家屋が見られた。こちらは1940年頃に下級公務員向けに建てられた官舎で、おそらくそれなりに狭かったろうから、戦後も地位の低い外省人公務員が住んでいたのだろう。すでに撤去作業は始まっている様子だが、中途半端に放置された状態になっている。こちらはどのように生まれ変わるのか、気になるところである。

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(写真は2014年12月20日に撮影)

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  台北市内を横に走るMRT板南線、その善導寺駅と忠孝新生駅の中間あたり、やや南側の一画にはかつて台湾総督府や軍関係者などが暮らす官舎が集まっていた。そうした中に李國鼎故居は位置している。濟南路二段、金山南路一段が交わる交差点の近く、現在の番地名は台北市泰安街二巷三號、日本統治時代は台北市幸町149番地。

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  李國鼎(1910~2001年)はかつて国民党政権で経済部長(1965~1969年)や財政部長(1969~1976年)を務めた経済テクノクラート的な政治家で、科学技術振興に努めたことから「台湾科技之父」とも称される。加工出口区や科学園区といった構想を立案、具体化し、彼が打ち出した一連の工業化政策は農業中心だった台湾経済を近代化へと向けて強力に牽引していくことになる。改革開放期の中国が実施した経済特区などの政策も、もともとはこうした李國鼎の構想を真似したものだとも言われる。

  李國鼎は南京で生まれた。国立東南大学(後の国立中央大学)で物理学を専攻、1934年にはケンブリッジ大学へ留学。本来は天文学に興味があったようだが、1937年に日中戦争が激化すると中国へ帰国し、生産工作等に従事した。1948年に台湾へ派遣され、経済テクノクラートとしての能力は台湾で活用されることになる。

  戦後、大陸から台湾へ多くの人々が渡って来たが、住居がすぐには用意できない。そこで、日本人が引き上げて残された家屋が外省人にあてがわれた。李國鼎が住んだこの建物も、もともとは台湾総督府官僚の住居だったところである。1935年築造というから、ほぼ80年を経過している。

  故居の隣には展示館があり、李國鼎の生涯を解説する写真パネルが掲げられている。中ではボランティア解説員の方が待機していて、参観客を案内してくれる。故居に入ってみると、東京近郊にもありそうな雰囲気で何となく親近感がわく。もちろん、一般サラリーマンの家に比べたら大きめだが、国民党の有力政治家の邸宅だったことを考えると意外に質素だという印象も受ける。来客も頻繁に来ただろうからむしろ手狭だったのではないか。

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  故居の内部は李國鼎が亡くなった当時のまま残されている。ボランティア解説員の方が、屋内に見られるちょっとした特徴をヒントに李國鼎の考え方を解き明かしてくれるのが面白かった(基本的に中国語だが、私が外国人であることを考慮して英語もまじえてくれた)。

  例えば、ほとんどの部屋にラジオやテレビが置かれている。画面が3つはめ込まれて3つのチャンネルを同時に見ることができる、当時としては珍しいテレビもあった。李國鼎は欧米や日本など海外の情報をリアルタイムで把握するよう努めており、どの部屋にいても最新情報が耳に入るよう心がけていた。また、書斎に日本やヨーロッパの人形が置いてあった。これは単にお土産というのではなく、その構造を分析させて輸出産品の参考にさせていたのだという。彼は飯廳で突っ伏した状態で亡くなっているのが見つかったのだが、その当日のカレンダーが残されている。メモ書きできる形式のカレンダーで、死の前日まで毎日、最高気温と最低気温がメモされている。農業への影響を常に気にかけていたことが分かる。彼は利権からは距離をおいており、例えば息子が大学を卒業すると、あとは自分で仕事を見つけろ、と突きはなし、コネは一切使わせなかったという。

  李國鼎が経済テクノクラートとして戦後の台湾経済をリードしたことは知識としては知っていたが、住んでいた当時の様子からその人となりをうかがい知ることができたのは、ある意味、新鮮な面白さを感じた(李國鼎故居のHPはこちら)。

(写真は2014年12月20日に撮影)

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港千尋『革命のつくり方 台湾ひまわり運動──対抗運動の創造性』(インスクリプト、2014年)

  中国との「サービス貿易協定」が台湾にもたらしかねない悪影響への懸念から世論の反発が強いにもかかわらず、与党・国民党は多数を占める立法院(国会)でまともな審議もしないまま強行採決しようとした。ふとしたスキをついて学生グループが立法院に入り込んで座り込んだところ、世論の大きなバックアップを得たこの占拠活動は585時間の長きに及んだ。このいわゆる「ひまわり学生運動」は、最終的には王金平・立法院長の仲介で終息を迎えることになる。

  民主主義の具体的制度化としての代表制が機能不全に陥り、その「見せかけ」の欺瞞に彼らは気づいた。「今日の革命とは代表制の限界を明らかにし、別の政治のつくり方を考えること、そのための創意工夫に求められる。その実験は世界中で始まっているが、太陽花運動の学生はそのやり方をストレートに示してみせた」(90~91頁)と著者は評している。

  社会的なプロテストとして群衆が声を上げる行動。最近では2011年の「ウォール・ストリートを占拠せよ」運動が世界的に広がったことも記憶に新しい。こうした抗議行動のグローバルな横の広がりという視野の中で「ひまわり学生運動」の意義をめぐって思索を進めるのが本書の趣旨である。ただし、群衆行動の「革命」性という著者の問題関心に引き付けた内容であって、必ずしも台湾の政治・社会・歴史に内在的な要因をもとに分析しているわけではない。

  例えば、立法院占拠の当時、私も周囲を見て回ったことがあるが、一つ気付いたのは、学生たちは立法院側面のストリートで座り込みをしていた一方、立法院正門前には台湾独立運動の旗を掲げた老人たちが集まっていたこと。両者の雰囲気の相違は際立っており、棲み分けをしているように見えたのが印象的だった。こうした台独派老人たちの姿は本書では完全に無視されており、その影すら見当たらない。著者の問題関心のパースペクティブの中で彼らの存在を取り込もうとすると、テーマ上の整合性が取れなくなってしまうからだろう。しかしながら、90歳代半ばの「台独大老」史明が立法院内に現れ、「ひまわり学生運動」のリーダーたちと握手している姿も報道されており、こうした関係を全くオミットしてしまうわけにもいかないのではないか。あくまでも学生たちの行動に著者なりの「希望」を仮託しながら再構成された「記録」なので、この点は注意しながら読む必要がある。

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  陳澄波の生誕120周年を記念した大型展覧会企画が今年の初めに台南で実施されたのを皮切りとして始まり、上海、北京、東京とめぐって12月5日から台北の故宮博物院にて「藏鋒──陳澄波特展」と題して行われている(2015年3月30日まで開催。公式HPはこちら)。

  彼の習作時代の水彩画(おそらく恩師・石川欽一郎の影響か)や東京美術学校留学当時の作品、その後、上海に渡って中国画の影響を受けながら描かれた作品、第2次上海事変の勃発で台湾へ戻って後に描かれた作品と続き、最後は1947年の二二八事件で殺害される直前に描かれた「玉山雪景」で締めくくられるという構成になっている。

  私はやはり「嘉義公園」などに見られる、南国の木々が画面からあふれ出んばかりに力強く繁茂した、あの鮮やかな緑の色彩が好きだ。

  今年、各地で開催された陳澄波展のうち、台南の4か所(国立台湾文学館、鄭成功文物館、台南文化中心、新営文化中心)で開催された陳澄波展と、東京芸術大学美術館で開催された「青春群像」展は見てきたが、台南ではとにかく展示量が膨大で(彼に関心を持つ人には絶好の機会であったが)すべて見て回るのは一苦労だった。東京の「青春群像」展は東京美術学校に留学した台湾人の群像を紹介するという趣旨であったため、陳澄波はあくまでもその中の一人という位置づけだった。こうした以前の展覧会と比べると、今回は陳澄波という画家の生涯にわたる作品を一通り眺め渡すにはちょうど良いボリュームの展示になっていると思う。

  以前に台南で行われた陳澄波展を見に行ったときのことは「台南で陳澄波展を見た」に記してある。また、彼の生涯に関わる問題については「陳澄波と沈黙の時代」で取り上げた。考えてみると、私が台湾美術史に関心を持つようになったきっかけは7年ほど前、初めてこの故宮博物院を訪れたときに見た李澤藩の展覧会であった(→こちらを参照)。陳澄波の恩師にあたる石川欽一郎の名前もその時に初めて知った。

  今回、故宮博物院で実施された展覧会の「藏鋒」というタイトルには「hidden talent」という英訳が与えられている。この英訳を見たとき、二二八事件で殺害されて以降タブーとなっていた彼の才能の再発見という意味合いがあるのだろうか、と勝手に思っていた。実際には中国画や書道の技法を指すらしく、詳しいことは私には分からない。今回の展覧では彼の絵画から見出される中国画の影響に焦点を合わせて「中西融合」という側面が強調されている。このタイトルにはむしろ油絵という技法の外見だけから分からない部分に底流している中国画の技法という意味合いを持たされているのかもしれない。

  今回の展覧会のコンセプトとなっている陳澄波の言葉を以下に掲げておく。1934年に『台湾新民報』のインタビューを受けた時の返答である。

「我因一直住在上海的關係,對中國畫多少有些研究。其中特別喜歡倪雲林與八大山人兩位的作品。倪雲林運用線描使整個畫面生動,八大山人則不用線描,而是表現偉大的擦筆技巧。我今年的作品便受這兩人影響而發生大變化。我在畫面所要表現的,便是線條的動態,並且以擦筆使整個畫面活潑起來,或者說是,言語無法傳達的,某種神秘力滲入畫面吧! 這使是我作畫用心處。我們是東洋人不可以生呑活剥地接受西洋人的畫風。」

  最後の一節、「我々は東洋人であり、西洋人の画風を鵜呑みにするわけにはいかない」という言葉がやはりカギとなる。彼が「東洋」に関心を持つに至るにはどのような経緯があったのか。彼の言う「東洋」の意味内容はどのようなものなのか。それは中国だけを意味するのか、それとも日本も含まれるのか。様々なポイントで興味がひかれる。

  彼は東京美術学校を卒業後、仕事がなかなか見つからないという状況の中、招聘されて上海の美術学校へ渡り、教鞭をとることになった。そこで中国の芸術家たちと交わり、西湖をはじめ江南の風景に馴染んだことが、中国画の技法に関心を寄せた理由の第一に挙げられる。

  第二に、石川欽一郎の勧めがあったことも見過ごせない。当初はヨーロッパ留学を希望していた陳澄波に対して、洋行は学費がかかるし、むしろ東洋(中国、インド)の絵画を勉強する方が身になるはずだ、と石川は勧めている(→こちらに手紙の文面を写してある)。また、石川は「南画」の技法を熟知しており、陳澄波を含めた学生たちに何らかの影響があったはずだという指摘もある(蕭瓊瑞「藏鋒於拙──陳澄波油彩創作中的水墨特質」『故宮文物月刊』381期、2014年12月)。

  第三に、上海で描かれた「私の家庭」の画面の中に日本語書籍『プロレタリア絵画論』が敢えて描き込まれていることに注目してみよう。当時、左派的な議論に関心を寄せる学生や知識人は経済的・社会的階級の問題だけでなく、民族問題という観点にも重きを置いていた。日本の帝国主義的支配に対して批判的な台湾人の間では「中華民族」の一員としての自覚を強める傾向があり、そうした思想的風潮が陳澄波の中国画への関心を促す一因として作用していたことも考えられるだろう。

  石川欽一郎から陳澄波に宛てたハガキ2点が展示されており、その文面もメモしておいたので最後に掲げておく。

◆石川欽一郎(東京市砧村成城〔?〕八四)から陳澄波(嘉義市西門町二ノ一二五)宛のハガキ(1935年1月23日)

「春台の君の御作拝見、大体あれで結構ですが、慾を言へばも少し咀みしめた味が出るやうに希望、やゝスサンだホコリ臭い感じがするのは、陰の色の単調に起因するものかと思ひます。陰の色に、紫調を考へて見ては如何、そして画面の扱方に暗示味を加へるやうに考究しては如何。嘗て君の上野の表慶館のやうな柔らかな味と潤ひ、自然を愛し仕事を愛したあの気持が希望したいのです。李梅樹君は非常な大作ながら不徹底で不可。」


◆石川欽一郎から陳澄波(本郷區湯島切通坂町三九佐藤方)宛のハガキ(1934年10月13日)

「お目出度いと祝するよりも君の努力に對する當然の結果です。世の中のことはチャンスでは現はれて来ません。眞面目の奮闘と開拓です。君の入選がそれを立証します。
  君の入選美談に就て講談社へ一寸知らせて置きました。或は編輯の人が君を訪ねるかも知れません。」

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