星空を見上げながら、どこかぎこちなく、どこかはにかみながら夜道を歩く小鳳(林妍柔)と張北川(林柏宏)。極地では夜が長く、真っ暗らしい。張北川が大学の講義で聞いたばかりの話をすると、小鳳は「じゃあ、北緯69度であなたを待ってるよ」。一昔前、まだ清潔なあどけなさすら感じられた二人の関係にもやがて終わりが来る。やむを得ない事情で小鳳は渡米することを決意。台湾に残された張北川は後を追うようにアラスカへ行き、そのまま消息を絶った。
それから24年が経過。小鳳のお腹に宿されていた張北川の娘、艾利莎(楊丞琳)はアメリカで生まれたが、実の父親を知らないコンプレックスを抱えている。彼女も恋をするようになったが、相手は昔の恋人と別れられないまま。失恋した勢いで母親の小鳳(季芹)と大喧嘩をしたが、まさにその日、小鳳が急死してしまう。二重の悲しみに打ちひしがれる艾利莎。そんな彼女のことを見守っている同僚の小開(宥勝)は何くれとなく気を配っているのだが、艾利莎は気づいていない。
小鳳と艾利莎の母娘二人、24年を隔てて彼女たちそれぞれが青春時代にぶつかった「初恋」、その苦悩が交互に語られながら映画は進行する。演劇家・李國修の「北極之光」という演劇が基になっており、息子の李思源がメガホンを取って映画化されたという。ある種の純愛物語としての盛り上がりは十分で、映画館内ではすすり泣いている人もいた。
原作を知らないので解釈を間違っているかもしれないが、この作品で言う「初恋」とは、自分が若い頃、生涯をかけて追い求めようと心中に燃え盛った情熱で、ただ、その後の人生の荒波の中で挫折し、いつしかそうした情熱も忘れかけてしまう。それでも何とか追い求め、決して完成されることはなくとも、自分なりに決着をつけようとする。そのようにもがき続けた人生は、仮に非業に終わったようであっても、見守ってくれている人が必ずどこかにいる。そうした寓意として解釈できるのだろうかと思った。そう考えると、「初戀的存在是為了遺憾」(初恋は悲しむためにある)(これは小鳳の文章にある言葉で、小開が知らずに口に出すが、艾利莎がそれは母の言葉だと指摘する)、「遺憾就是沒有結局的故事」(本当に悲しいのは、物語に結末がつかないことだ)(艾利莎)といったセリフも生きてくるように思う。
実はこの映画のロケを私は成功大學キャンパスでたまたま見かけていた。その時は何のドラマの撮影なのか全く知らなかったが、今回、この映画を見て初めてそれが小鳳(林妍柔)と張北川(林柏宏)の初恋のシーンだったと気づいた次第(その時点で二人の服装が何となく古くさいなあ、とは感じていた)。成功大學は台南にある。また、映画中で、張北川が小鳳を自宅に招いて両親に紹介したとき、台南名物のサバヒーという魚でもてなすシーンもあったから、彼らの初恋の舞台は台南という設定なのだろう。対して、艾利莎と小開の初恋の舞台はおそらく台北。過去と現在とを対比させるとき、現代的な台北に対して、台南はノスタルジーの象徴のような位置づけになるのだろうか。