張國立《張大千與張學良的晩宴》(印刻文學生活雜誌出版、2014年3月)

  1994年、台北。すでにハワイへ移住した張学良(1901~2001)の収蔵品がオークションにかけられているシーンからこの小説は始まる。様々な思惑から注目が集まる中、とりわけ目立ったのが世界的に著名な画家・張大千(1898~1983)の書。1981年の旧暦正月16日、張大千が張学良や張群(1989~1990)を招いて晩餐会を行なったとき、自らメニューを認めたものだという。

 このオークション会場に来ていた主人公・梁如雪は何か探し物がありげな様子。偶然、旧知の人物と出会ったのをきっかけに、かつて張学良と共に過ごした日々を思い出し始める。

  外省人の軍人だった父、台湾人の母との間に生まれた一人娘だった彼女は、大学の法学部を卒業後、情報機関に入る。父の影響が大きい。ただし、仕事一筋で家庭を省みなかった父との関係はむしろ疎遠であった。訓練終了後、最初に配属されたのは台北近郊の温泉地・北投。そこには自宅軟禁中の張学良がいる。張学良の世話係として彼の動静を監視するのが彼女に課せられた任務であった。1981年のことである。

  情報機関の上官たちは張学良の一挙手一投足に神経をとがらせている。国民党統治下の台湾では、たとえ抗日統一戦線の呼びかけが大義名分だったとしても西安事変で蒋介石に矛を向けた張学良に対する評価は極めて厳しい。それに、張学良や張大千(四川省出身)といった著名人が共産党の呼びかけに応じて大陸へ帰ってしまったら、国民党の対外的権威にとってマイナスである。ところが、総統に就任したばかりの蒋経国は張学良と仲が良く、彼に対する態度が甘い。「小蒋」には危機感が乏しい、と情報機関幹部は歯ぎしりするばかり。
 
 娘が張学良の世話係になったことを知った父親は嬉しそうな表情。そんな父に彼女は反感を覚える。張学良は「叛国叛党の徒」ではないか。ところが、父の見解は違う。張学良は国家や人民の行く末を心から憂えていたはずだ、と言う。父はかつて孫立人の指揮する部隊で戦った経験を持つ。蒋介石によって排除された孫立人への同情が張学良にも投影されているのではないか、と彼女は考えた。

  ところが、梁如雪も身近に張学良と接するにつれて、今まで教えられてきた「歴史」に違和感を抱き始める。何よりも戦争に翻弄された父にとって「歴史」は切実な問題であった。家に引きこもっていた父は真実を知りたいという思いから、やおら図書館通いを始め、張学良について調べ始める。知り得たことはまず娘に知らせたい。疎遠だった父と娘だが、共に語らう時間がいつしか増えてきた。世代によって異なる歴史認識が、「真実」を知りたいという気持ちを共有することで、その距離を縮めていく。そうした関係性がこの親子関係に表現されている。

  1931年の満洲事変に際して、張学良は放蕩生活に身を持ち崩していたから日本軍に敗れたのか。それとも、蒋介石から不抵抗主義の訓令を受けていたから敢えて撤退したのか。梁如雪は上官から「老総統(蒋介石)が張学良に宛てた古い電文が隠されているはずだ。それを見つけて来い」と命じられた。蒋介石が日本軍へ抵抗しないよう訓令した事実を隠蔽しようという意図である。同じ頃、父からは「日本軍が攻めて来たとき、本当は遊んでなんかいなかったのではないか。そのことを張学良に確かめて欲しい」と頼まれていた。果たして張学良は電文を隠していたのか? 真実は如何に…?

  ところで、この小説では張大千が料理の支度を進めるシーンが所々で挿入されている。1981年の旧暦正月16日、かつて蒋介石側近だった張群の車が突然、張学良邸を訪れた。警備にあたる情報機関員は制止しようとしたが、すでに老いたりとはいえ張群の政治的権威に逆らうことはできない。張群は張学良夫妻を連れ出し、そのまま張大千邸で開催される晩餐会へと向かった。

  1980年代後半、台湾が民主化へと向かうのとほぼ同じ頃、半世紀近くにも及んだ張学良の軟禁状態もようやく解かれるようになった。作者が1993年に張学良にインタビューした記録が本書の巻末に収録されている。そこで張学良はこう語っている。「蒋介石は生涯を通して王陽明を崇拝しており、『我看、花在;我不看花、花不在』という王陽明の言葉を信じていた。でも、私はそういうのとは違ってこう思うんだよ。『我看、花在;我不看花、花還在』とね。」

  蒋介石が王陽明から引用していた言葉は、ある意味、為せば成るという主観的な精神主義を表している。それは一面において積極的な行動力として具現化され、歴史を動かす起爆剤となった。他方で、「我不看花、花不在」という部分は、政治権力を正統化するイデオロギーによって歴史はいくらでも歪曲されかねないことを暗示していたとも言えるだろう。

  これに対して、張学良の態度はどうであったか。私が見ていようといまいと、花がそこにある事実に変わりはない。それは、権力の都合によって歴史解釈が左右されようとも、自分の知っている歴史的事実は変えようがないという意味を帯びる。さらに、周囲の思惑が喧しくても、そんなことには頓着せず、自分は自分に与えられた宿命の中で生きていくしかない。そうした人生態度も引き出せる。この小説での張学良はそうした悠然たる態度を持した人物として描かれている。さらに、張大千が淡々と楽しそうに料理の支度を進める描写が折に触れて挿入されることで、そうした二人の老人のマイペースな姿が、監視する情報機関の慌てぶりを際立たせ、面白い味わいを醸し出している。

※ブログ「ものろぎや・そりてえる」から転載。