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台湾をめぐるあれこれ

2014年03月

  この3月から台南に住み始めて僥倖だと思っているのは、台湾出身の画家・陳澄波の生誕120周年を前にして企画された「澄海波瀾 陳澄波百二誕辰東亜巡廻大展 台南首展」にぴったりのタイミングだったこと(2014年1月18日~3月30日まで)。この後、北京、上海と回った後、東京では9月12日~10月26日まで彼の母校・東京芸術大学にて開催される。それから再び台湾に戻り、故宮博物院にて11月から来年3月まで開催予定。

  陳澄波は台湾中部の都市・嘉義に生まれた。奇しくも嘉義農林学校野球部が初めて甲子園出場を果たした活躍を描く映画「KANO」がこの2月から公開されたばかり。この映画の中で、嘉義中心街の噴水広場が建設途中である様子が見えるが、陳澄波の作品にもこの噴水広場で描かれたものがある。ただ、嘉義農林が甲子園に出場した1931年、陳澄波は上海にいたので、彼らの活躍について直接見聞きすることはなかっただろう。

  陳澄波展は台南市内の4ヶ所でテーマごとに分けて開催されている。台南市の北郊・新営にある新営文化中心では「美育前線・現代之眼」。台南市中心部に近い台南文化中心では「世界座標・巴黎想像」。鄭成功文物館では「東方情緒」。国立台湾文学館では「波光瀲灎」と題して、陳澄波の作品それぞれに台湾の詩人たちが詩文を寄せている。いずれも参観無料。陳澄波の主だった作品から関連資料まで潤沢に展示されており、彼の軌跡をトータルで把握することができる。

  陳澄波は1895年、台湾が清朝から日本へ割譲されたまさにその年に生まれた。母を早くに喪い、家計も経済的に苦しいなど難しい状況にあったが、公費で通える総督府国語学校に進学する。ここで美術教師だった石川欽一郎と出会い、絵画の才能を見いだされた。石川は水彩画家として当時は著名な人物で、台湾で美術教育に果たした役割の大きさから台湾近代洋画の父と位置付けられている。

  国語学校は本来、教員養成のための学校であったため、陳澄波は卒業後、いったん故郷・嘉義へ戻り、公学校(台湾人向けの小学校)の教員を務める。しかしながら、絵画への情熱やみがたく、30歳という年齢を目前にして上京、東京美術学校へ進学する。美術学校では田辺至に師事したが、修錬の遅れを自覚していた彼は本郷洋画研究所の夜間部にも通って岡田三郎助からも習った。1926年、「嘉義郊外」で帝国美術展覧会(帝展)の洋画部門にみごと入選、台湾人としては初めての快挙であった(ただし、彫刻部門では黄土水がすでに帝展に入選している)。

  今回の展覧会で興味深いのは、東京美術学校在学当時の習作も多数展示されていたこと。油彩画、水彩画はもちろんのこと、日本画や書道まである。美術学校師範科に在籍していたので、あらゆるジャンルを一通り身に付けておかねばならなかったのだろう。また、彼が東京で買い求めた蔵書類も展示されている。例えば、『みずゑ』『アトリヱ』等々の美術雑誌。それから美術全集もあり、ちょうど円本ブームの時代だったから比較的入手しやすかったものと思われる。東京で開催された展覧会の展示目録や絵葉書もたくさんある。当時の東京は欧米の先進思潮を後追いながら消費する文化的・経済的基盤が徐々に整いつつあった。それこそフランスやソ連の前衛芸術も含め、陳澄波はこの東京で世界の芸術動向に触れ、貪欲に吸収しようとしていた様子が窺われる。海外文学・思想書の翻訳も当然ながら読んでいたはずで、例えば日本語訳された『ゴッホの手紙』のページ余白に色々と書き込みをしているのを見かけた。彼の画風からすると、ゴッホに傾倒していたのはさもありなんという感じがする。

  1929年に東京美術学校の研究科を卒業したものの、目ぼしい就職先はない。フランス留学への憧れを抱いていたが、経済的には難しい。そこで、恩師・石川の助言もあり、上海の美術学校の教員として赴任した。ここで中国の画家たちと交わり、中国画の技法も取り込んでいく。こうした経験は彼の視野をさらに広げ、画法を洗練させていくことにつながった。台湾へ置いていった家族も上海へ呼び寄せ、久方ぶりに落ち着いた気分で創作に励んだことであろう。

  ところが、1932年、上海は戦乱に巻き込まれる。前年に成立した「満洲国」の目くらましとして第一次上海事変が勃発したのである。家族の身を案じた陳澄波は台湾へ戻ることにした。1934年に台湾人の画家仲間と共に台陽美術協会を設立するなど旺盛な活動を続ける。1945年、日本の敗戦で中華民国が台湾を接収することになると、上海滞在経験があって北京語のできる陳澄波は故郷・嘉義市で自治協会理事や参議会議員などの公的役職に就く。しかし、1947年の二二八事件で運命は暗転。嘉義市代表の一人として国民党軍側との交渉に赴いたところ、逆に逮捕されて処刑されてしまった。その後、台湾で民主化の機運が高まるまで陳澄波の名前はタブーのままであった(このあたりの事情は以前にこちらの記事「陳澄波と沈黙の時代」で触れた)。

  油彩の化身──陳澄波は自らをこう称していた。彼の油絵、とりわけ風景画を見ていると、大胆な色遣いの迫力が強く目に焼き付けられる。例えば、嘉義公園を描いた木々の緑。緑の色合いがまるで生命力を帯びて今にも動き出しそうな勢い。色遣いそのものがフォルムを食い破っていく。台湾式家屋、あるいは総督府など洋風建築の煉瓦の赤色。海面や湖水、そして青空の色合い。それぞれが深くて濃い。しかし、組み合わされたとき、そうした対照の鮮烈さはむしろ華やかな明るさを浮かび上がらせる。エネルギッシュな明るさ。南国の光が画面いっぱいにみなぎって、描かれた木々や山や水面や建物を照り輝かせている。

  エネルギッシュと言えば、裸婦像のスケッチも同様な印象を受ける。乳房やおなかが突き出ていたり、太腿を強調したり、ふくよかな肉の厚みを感じさせる女性たちのボディー・ラインは決して美しくない。何か地母神のようなイメージも浮かんでくる。大地にしっかりと根付いた力強い女性像。

  他方で、油彩で描かれた人物像はどれもどことなく陰を帯びているように感じられる。自画像を見ても、表情が暗い。あるいは、上海に呼び寄せた家族5人がそろった絵。一家団欒という楽しさはない。1932年の上海事変に至る時世的な暗さが否応なく出てしまったのだろうか。いずれにせよ、風景画で自然を描いた時に漲っているエネルギッシュな力強さと、人物画を描いた時にどことなく漂う暗さ、こうした対照的な相違をどのように理解したらいいのか、気になっている。

  当時の台湾は「近代化」という過渡期の時代。それは、陳澄波の描いた作品からも窺われる。例えば、帝展に初入選した「嘉義郊外」(1926年の作品。失われてしまったため、現在はモノクロの写真でしか見られない)には水道工事の光景が描きこまれている。あるいは、嘉義の近辺を一望した「展望諸羅城」(諸羅とは嘉義の古称)。木々の緑があふれかえっている中、画面を横切る小道には電信柱が立ち並び、遠くに見える煙突からは煙がモクモクと上がっている。インフラ整備が着々と進んでいる様子も身近な光景である以上、風景画から外してしまうわけにもいかない。

  美術における「近代」的態度としては、おおまかに言って次の二点が挙げられるだろう。第一に、事象を客観的に観察して描くこと。伝統的な山水画はモチーフ重視、様式美重視で、写実性にはこだわらない。対して、近代絵画は写実性を重んじる。科学的思考の基礎となる観察眼を養うという点で美術は国策としての教育政策にかなう。同時に、身近な風景をつぶさに観察し、それを絵画の中に描き込もうとしたとき、台湾という風土の持つ美しさを改めて認識することになった。

  第二に、主観的な個性の表現、オリジナリティーの主張といった側面はむしろリベラルな教育観で重視される。型にはまった技巧を凝らすのではなく、自分の眼に映った主観的な美しさをそのまま積極的に打ち出そうとする。フォルムの崩れた荒々しさは、観る人を当惑させるかもしれない。しかしながら、そこにこそ陳澄波という一つの個性によって捉えられた世界の見え方が映し出されている。

  恩師・石川欽一郎から陳澄波に宛てられた書簡が2通展示されていたので、メモ帳に書き写してきた。1通目は1933年11月21日の日付。陳澄波は台陽美術協会設立について石川に事前に相談していたことが分かる。文中に出てくる藍君とは水彩画家の藍蔭鼎のこと。2通目は1934年7月15日の日付。この年、石川はすでに台湾から引き上げて東京に戻っていた。文中に出てくる廖君とは、陳澄波とは東京美術学校の同窓にあたる廖継春のこと。審査員問題とは、台湾美術展覧会(台展)の審査員を誰にするのかでもめていたのだろう。

(1通目:1933年11月21日)
 臺陽美術協会は実によい計画です。之は当然起るべきものが起つたのです。会員各位の熱と力とで将来の発達を確信します。慶賀申上ます。
 帝展も臺展もよいが陽展は君が自身に育て上げるつもりで全力を盡くされんことを切望します。
 藍君にも機会があれば勧めませう。然し今藍君は少し退いて静に沈思自省した方が同君の技のためには適當かと思ふのです。藍君の繪がこのごろどうも精神を反響して居ないので私は藍君に世間と成るべく離れて自分と自然を相対視して何物かを悟るやうに勧めて居る處です。
 今年の臺展は兎に角 君の藝術が認められたことに就て私は欣びます。今年の帝展は、洋画は何れの絵も苦しい窮屈さがあまりに見え過ぎて居て絵に對しても愉快を得られません。反省すべきことと思ひます。日本の洋画が今になつてもまだこの状態を寧ろ悲しく思ひました。どうしてもつと嬉しさのある 伸び伸びした 朗らかな繪が出来ぬものかと訝しみます。
 日本画の方は重味が減りました。モット足元をよく見てやつてもらひ度いと思ひました。

(2通目:1934年7月15日)
 大兄愈御精励で大慶に存じます。何とぞ一生懸命にやつて下さい。藝術は生涯の研究ですから。
 審査員問題などなど困難なことでせう。一体小生は廖君よりも大兄を望んで居たのでしたが君が上海に行かれたりしたので、一寸台湾に縁が遠くなつたわけです。他の候補者は小生まだ不適當と思ひますが 運動の世の中ですから、どんな結果になるか解かりません。
 それはそれとして、大兄は以前のやうに純な個性のよく現はれた 巧まく描かうとしないやうなあの絵の行き方で進んでやつたら奈何です。そして帝展その他東京の主なる展ラン会を目標としてやつてごらんなさい。さうすれば臺展などは附随して来ませう。
 什うも台展も内容がまだ貧弱な割合には体裁ばかりヱラさうで小生などの気持には合ひませんが、やつて居るうちには何とか成るでせう。
 フランスは今、為替が高いから当分行くのはバカらしいでせう、東洋美術(支那や印度)を研究なさるやうお勧めします。支那の古画は我々の好参考でフランスよりも有益です。
 東京も此頃台湾位熱いです。

  上記の書簡を見てみると、その人の「精神を反響させた」作品、「もっと嬉しさのある」「伸び伸びとした」「朗らかな」作品を石川は求めており、陳澄波に対しては「純な個性のよく現れたうまく描こうとしない」作風に立ち返るよう勧めている。つまり、その人が切実に描きたいという何かを、その人なりの個性に従って描いていくところに石川は重きを置いていた。石川のスッキリしたタッチの水彩画と、陳澄波の荒々しいまでにフォルムの崩れた油彩画とでは作風が全く対照的であるが、それはあくまでも表面的なことに過ぎない。陳澄波という人の個性を見抜き、彼が描きたいように描かせたところに、石川の名伯楽たる役回りがあったと言えよう。それから、フランスへ行くよりは東洋美術の研究を勧めているところにも石川のアドバイスがあったことが分かる。

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【映画】「KANO」

 3月8日に台南の威秀影院で馬志翔監督「KANO」を観た。脚本を書いた魏徳聖は本作ではプロデューサーにまわっている。以下、内容に関わる記述もあるので、気になる方は注意されたい。日本でも今年中には上映されるらしい。

 今まで一勝すらしたことのない、だらけきった野球チーム。周囲からは白い目で見られてばかり。そこへ突然現れた謎の鬼監督。無駄口など一切たたかず、一方的に命令ばかりする高圧的な態度に、部員たちは戸惑う。しかし、「一緒に甲子園へ行くんだ!」という監督の気迫は徐々に彼らの心中にも浸透、チームは瞬く間に生まれ変わり、快進撃を始める──。

 ある意味、スポ根ドラマの王道である。そういう映画として観ても十分に面白いし、そもそも野球に興味のない私でもいつしか感情移入しながら興奮していた。三時間近くの長丁場だが、テンポが良いので飽きさせない。それ以上に私の場合には、当時の時代背景をストーリー的にも映像的にもしっかり描き込もうとしているところに関心を持ちながら観た。

 KANOとは、台湾中部にあった嘉義農林学校の野球部のユニフォームに見える略称である。謎の鬼監督は近藤兵太郎(永瀬正敏)。本職は会計士だが、かつて母校の松山商業学校で野球チームの監督をしていたことがある。しかし、失意のうちに台湾へ来ていた彼にとって、嘉義農林を甲子園へ出場させることは雪冤の悲願であった。

 台湾ローカルの大会ですら勝てなかったこのチームが、甲子園初出場にしてみごと準優勝までしたという実話に基づく。1931年のことであった。魏徳聖が監督した前作「セデック・バレ」のテーマである霧社事件は1930年の出来事であり、実は時期的にそれほど隔たっていない。

 当時は台湾の大会でも出場チームのほとんどが日本人で占められていた中、嘉義農林は日本人、漢人、「高砂族」と呼ばれた原住民族(アミ族とプユマ族の選手がいた)の混成チームという点が特徴である。こうした多民族混成チームが甲子園に出場したこと自体が極めて異例であった。

 その一方で、民族が異なるとコミュニケーションがうまくいかず、チームワークに支障を来すのではないか?という疑問もしばしば向けられた。それどころか、「高砂族なんて野蛮人に野球ができるんですか?」と差別意識むき出しの質問を平気で投げかける記者までいた。憤った近藤監督は「野球に民族の違いなんて関係ないでしょう! この子たちの活躍を、あなた自身の目で確かめてください!」と怒鳴りつける。

 「高砂族の選手は足が速い。漢人の選手は打撃が強い。日本人の選手は守備に長けている。それぞれの長所を組み合わせればすごいチームになる」というのが近藤監督の考え方であった。民族的多元性をプラスのものと捉える発想は、この映画が製作された現代の台湾だからこそ強調されるポイントであろう。

 当時の甲子園の出場校には台湾代表・嘉義農林のほか、満洲代表・大連商業、朝鮮代表・京城商業といった名前も見られ、「帝国」の広がりが印象付けられる。この映画で、決勝戦よりも、準決勝で対決した北海道代表・札幌高商のエース投手とのやり取りの方をクローズアップさせているのは、「帝国」における「辺境」(=台湾や北海道)から「中央」(=甲子園)へのし上がりたいという上昇意識のあり方を際立たせている。

 映画の中では時折、台湾のシンボルとなるモチーフが示される。例えば、マウンド上に現れた蝶。生態系の豊かな台湾はとりわけ蝶の種類が多いことで知られている。また、嘉義農林の前監督で農業技師の濱田先生がパパイヤにまつわるたとえ話で選手を激励するシーンがある。パパイヤも台湾の風土ならではの果物であるが、作家の龍瑛宗が『改造』懸賞小説に入選して台湾人として初めて「中央」文壇にデビューした作品が「パパイヤのある街」(1937年)であったことも連想される。

 映画の背景には「近代化」の過程を示すエピソードが散りばめられている。足の速いチームメイトが走って仲間たちを追い越すときに「汽車が来たぞ!」と叫ぶのは、台湾縦貫鉄道開通の印象がまだ生々しかったからであろう。濱田先生がバナナやパパイヤの品種改良に努力しているのは農業近代化を示しており、磯永吉たちが開発した蓬莱米も同時期のものである。そして、農業生産力の増大を可能にしたのが、八田與一(大沢たかお)の建設指導で完成した嘉南大圳であった。ただし、映画の中では嘉義農林の甲子園出場と嘉南大圳の完成とが同時期であるかのように描かれているが、これはあくまでも演出上の話である。

 ところで、八田與一の登場は、映画のストーリー構成上、必ずしも必然性のあるものとは言えない。それにもかかわらず、なぜ八田が出てきたのか。

 近藤兵太郎の寡黙で厳しい鬼監督ぶり、八田與一の柔和な表情──パーソナリティーとしては極めて対照的に描かれている。しかしながら、甲子園出場にせよ、嘉南大圳にせよ、実現は到底無理としか思われなかった難事業に本気で取り組み、それこそ最初は「変な人だなあ」という程度にしか思われていなかったものの、真摯な姿がやがて現地台湾の人々からの共感を集めるようになったという点では共通している。

 いわゆる「植民地近代化論」の是非についてここで論ずるつもりはない。ただ、台湾の人々が支持したのは、日本の国策としての近代化というよりは、むしろ現地でじかに接した一人ひとりの個人としての日本人に対する信頼感であり、そしてそれに応じるだけの底力を台湾の人々が持っていたからこそ成し遂げられた事業であった。その意味では、日本人からの一方的な指導ではなく、双方の協同的インタラクションによるものであった点は確認しておく必要があるだろう。近藤監督の期待に応えて成果を出した嘉義農林の活躍がまさにそうであった。

 嘉義農林のエース投手・呉明捷(映画中では「アキラ」と日本風に呼ばれている)の失恋は何を示しているか。書店員をしている憧れの女性を自転車の後ろに乗せていたとき、彼女が荷台に立って両手を広げるところは「タイタニック」の有名なシーンを思わせる。「タイタニック」の二人は身分の異なる悲恋に終わったが、呉明捷にしても同様である。憧れの女性は裕福な医師のもとへ嫁いでいった。当時の台湾において医師の社会的・経済的ステータスは極めて高く、優秀な子弟がいたら必ず医学部へ進学させようとしたと言われる。貧困にあえぐ農民の息子では到底かなわない。

 民族差別の壁。「辺境」から「中央」への壁。そして、恋愛感情も阻まれてしまう社会経済的な壁──どんな壁があろうとも挫けずに、自ら進む道を切り開こうと鼓舞してくれたのが、近藤監督から叩き込まれた「一球入魂」の精神であったと言えるだろうか。

※ブログ「ものろぎや・そりてえる」から転載。

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