ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

2014年01月


 小田急江ノ島線の大和駅から歩いて20分ほどのところにある「ふれあいの森」公園。その一角に、「台湾亭」と名付けられたあずまやがひっそりと建っている。戦時中、この近くに戦闘機を製造する高座海軍工廠(現在の神奈川県座間市栗原)があり、そこでは台湾出身の少年たちが働いていた。

 終戦間際の昭和20年7月30日、台湾少年工たちが寄宿舎(現在の神奈川県大和市上草柳)に戻る途中、米軍機の攻撃を受けて6人が亡くなってしまうという悲劇がおこる。台湾少年工の同窓会組織「台湾高座会」の人たちが中心となって、ゆかりのあるこの地に「台湾亭」が寄進されたのだという。

台湾亭


台湾亭説明板


台湾亭由来1



台湾亭由来2




台湾亭の柱の詩文




台湾亭の階段



 

 台湾亭の前で佇んでいると、頭上を自衛隊機が激しい爆音をあげて飛び去っていった。すぐ近くに厚木基地があり、着陸態勢をとって低空飛行している。そういえば、ここで働いていた台湾少年工たちも、日本の敗戦直後、厚木空港でマッカーサーを迎える準備の整地作業に動員されたらしい。

 昭和17年、戦線の拡大に伴い、戦闘機増産のため高座海軍工廠の設立されることになった。ところが、兵員不足に陥っていた当時、優秀な労働力の確保には限界がある。そこで、工員を台湾で募集することになった。働きながら勉強ができて、国民学校高等科卒業生なら工業学校卒業、中学校卒業生なら高等工業学校卒業の資格が得られるという好条件のため多数の台湾人少年たちが応募した。昭和18年5月から19年5月にかけて、合わせて8400名以上の少年たちが海を渡った。

 南国の台湾からやって来た少年たちにとって、冬には零下にもなるこの地の気候は非常につらいものだった。軍隊式生活の理不尽さは日本人・台湾人を問わず泣かされることもしばしばあったはずだ。それでも懸命に働いた彼らの実力は認められた。

 当時の日本では人手不足が慢性化しており、若くて優秀な台湾少年工は実地研修の意味も含めて各地の工場へ送られた。しかしながら、戦争も末期になると、軍需工場は米軍による爆撃の標的となり、彼らの仲間も次々と命を落としていった。

 昭和38年11月、高座海軍工廠の技手であった早川金次さんが大和市内の善徳寺に「戦没台湾少年の慰霊碑」を建立した。現場の技術指導者として台湾少年工をみていた早川さんにはよそ様の子供たちを預かっているという責任感があったのだろう。しかしながら、昭和20年7月の米軍機による爆撃の際、自らの判断で寄宿舎へ帰らせたところ、その途中で子供たちを死なせてしまった。当時としてはやむを得ない事情があったにせよ、早川さんには強い悔恨と贖罪意識があったという。早川さんは慰霊碑を建立しただけでなく、台湾の少年たちの遺族のもとを訪ねた。こうした誠意には台湾側でも感ずるところがあり、台湾少年工だった人々と高座の地との結びつきが強まっていった。

台湾少年工慰霊碑1



台湾少年工慰霊碑2



台湾少年工慰霊碑3



善徳寺の光景



 戦後の元台湾少年工たちはそれぞれに苦難の道を歩むことになる。敗戦の混乱の中、彼らが期待していた卒業資格は結局得られず、そのまま放り出されてしまった。中学校卒業のリーダーを中心に「台湾省民自治会」を結成、政府関係機関と交渉して台湾へ戻る船を確保する。ようやく帰ることのできた故郷・台湾では国民党政権が蟠踞しており、やがて二二八事件が起こる。日本滞在経験のある彼らは声を潜めて生きなければならなくなった。

 台湾高座会の方々については、石川公弘『二つの祖国を生きた台湾少年工』(並木書房、2013年)に記されている。著者が台湾高座会と接点をもったのは偶然の機会だったそうだが、著者の父親が台湾少年工の寄宿舎の舎監をしていたという縁があった。本書で取り上げられている宋定國さんは酒井充子監督「台湾人生」に、黄茂己さんは同「台湾アイデンティティー」にも登場していた。

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 1月23日、東京都知事選挙が告示された。元大臣や元首相まで立候補して、国政選挙並みの大騒ぎ。ところで、おとなり台湾でも台北市長選挙がヒートアップしている。焦点となっているのは、台湾大学病院の外科医、柯文哲だ。世論調査によると野党候補としての人気はダントツのトップ。実は台北市長選挙が行われるのは今年の12月でまだまだ先の話なのだが、ずぶの素人が政治の世界に乱入したことで一つの社会現象にまでなっている。

 こうした「柯文哲現象」については、すでに朝日新聞1月17日朝刊の記事「(世界発2014)台湾政界、素人の乱 台北市長選、54歳医師が有力」で報じられている(http://digital.asahi.com/articles/DA3S10929343.html?_requesturl=articles/DA3S10929343.html&ref=comkiji_txt_end_s_kjid_DA3S10929343)。

 柯文哲は1959年生まれ。祖父は日本統治時代に中学校の教師をしていたが、二二八事件で拷問され、釈放はされたものの1950年に亡くなった。柯文哲が生れる前のことである。彼の父親は二二八事件受難遺族としての暗い記憶を抱えているため、息子が政治の世界へ入ることには反対しているという。

 台湾では戦後しばらく国民党による一党独裁が続いたが、そうした権威主義体制がもたらした二二八事件や白色テロといった恐怖政治に対する批判として民主化運動が胎動、政治体制の中枢は外省人によって独占されていたことへの反発から台湾独立の主張もここに重なった。1986年には民進党が結成され、中台統一派の泛藍陣営(国民党や、国民党から分裂した新党、親民党など)、台湾独立派の泛緑陣営(民進党や李登輝を支持する台湾団結連盟など)という二大勢力が対立する政治構造が形作られてくる。

 柯文哲は二二八事件受難遺族に生れたという出身背景から分かるように、政治意識としては明確に泛緑陣営に立っている。入獄した陳水扁の支持者でもあるし、昨年12月に東京で講演した折には李登輝へのシンパシーを語っている(http://news.rti.org.tw/index_newsContent.aspx?nid=468155)。なお、この東京講演の時点ではまだ立候補の正式表明はしていないのだが、日本の選挙でよく見かける片目が空白のダルマを贈られている。

 他方で、泛藍陣営と泛緑陣営の対立構造がすでにマンネリ化して、政治的争点を効果的に汲み上げられなくなっていることに対して国民の不満も根強い。柯文哲は国民党だけでなく民進党も含め、既存政治すべてに対して歯に衣着せぬ発言をしているため、そこが一般の人々からは受けているらしい。2011年に台湾大学病院でエイズ感染者の臓器を誤って移植してしまう事件が起こったとき、柯文哲も監督責任を問われた。ところが、行政も含めたシステム全体の問題を一方的に押し付けられたことに対し彼は臆せず発言したため注目を浴びたという。いずれにせよ、既存の政治社会システムに対する不信感を彼が代弁しているとみなされているのだろう。

 こうした動向を民進党もかなり意識している。現在の党主席・蘇貞昌は独自候補擁立にこだわっていたが、かつて総統選挙に立候補した経験のある有力者、蔡英文や謝長廷が柯文哲を支持する意向を表明し、蘇貞昌も「柯文哲現象」を無視できなくなっている(http://www.bbc.co.uk/zhongwen/trad/taiwan_letters/2014/01/140109_twletter_taibeimayorelection_bywuyanling.shtml)。民進党は必ずしも一枚岩の政党ではなく、有力政治家同士の足の引っ張り合いも頻繁に見られるから、そうした党内パワー・バランスの影響があるのかもしれない。いずれにせよ、柯文哲に対して民進党への入党を条件に正式な候補者とするという話も出たが、無所属のまま民進党は支援するという方向で落ち着きそうだ。

 台北市長は任期四年、再選は1度までしか認められていないため、現職の郝龍斌は出馬できない。国民党から出る対立候補としては連勝文の名前が取り沙汰されている。連戦・元副総統の息子というサラブレッドである。そう言えば、郝龍斌も郝柏村・元行政院長の息子という世襲政治家だ。「政治素人」柯文哲の存在がいっそう引き立つ。なお、2010年に連勝文が銃撃されて負傷するという事件が起こったが、その時に救急外科医として対応したのが柯文哲だったという因縁もある(http://udn.com/NEWS/NATIONAL/NATS3/6007066.shtml)。

 柯文哲に勝ち目はあるのだろうか? 以下、台北市長選挙の過去のデータや分析については小笠原欣幸(東京外国語大学、台湾政治)「2010年台北・新北市長選挙の考察――台湾北部二大都市の選挙政治」(http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/ogasawara/)を参照する。

 台湾の選挙では北部は国民党が強く、南部は民進党が強いという色分けがくっきりと出る。台北市に関しても、①外省人及びその第二世代、第三世代の比率が高い。②公務員・軍・教育関係者の比率が高い。③一人当たりの平均所得が高い、という特徴がある。こうしたことから、国民党は台北市で固い基礎票を持っており、民進党はもともと劣勢だと指摘される。1994年に陳水扁が当選できたのは、当時の李登輝総統に反発して国民党を離党した人々が結成した「新党」が独自候補者を擁立し、泛藍陣営が分裂していたからである。この時以外は国民党の候補(馬英九、郝龍斌)が50%以上の得票で当選しており、民進党から出馬した謝長廷(2006年)や蘇貞昌(2010年)といった有力政治家を下している。

 上記の小笠原論文では藍緑両陣営の基礎票を捉える指標として台北市議員選挙の得票率について考察している。1994年から2010年にかけての両陣営の得票率の推移を見ると、泛藍陣営は低下傾向(60.8→54.8%)にある一方、泛緑陣営は増加傾向(30.1→39.0%)にある。トレンドとして見ると、基礎票のレベルで両者の差は徐々に縮まりつつあるようだ。となれば、こうした基礎票を固めつつ、浮動票を取り込む戦術を効果的に実施することができれば、民進党系の候補者にも可能性がないわけでもない。その点、柯文哲の場合には「素人」という世論受けする持ち味が武器になる。

 いずれにせよ、台北市長選挙はまだまだ先のことで、情勢も色々と変化するだろう。柯文哲の勝敗はともかくとして、彼の得票率には藍緑両陣営に飽き足らぬ無党派層の投票行動が反映されることになるはずだ。そこから、台湾における政治社会の一定の変化を垣間見ることができるのかもしれない。

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 イスラム史や東西交渉史の碩学として著名な前嶋信次(1903~1983)がかつて台湾で暮らしていたというのは、彼の盛名を知っている人には意外に感じられるかもしれない。

 前嶋は東京外国語学校フランス語科を卒業した後、改めて東京帝国大学東洋史学科へ入りなおした。それまで日本の東洋史学を牽引してきた白鳥庫吉が引退して藤田豊八が教授として迎えられたばかりの頃で、前嶋は藤田の指導を受けた。

 1928年、新たに新設された台北帝国大学文政学部の学部長として藤田が赴任することになり、前嶋は助手として一緒に台湾へ渡る。神戸から瑞穂丸という船に乗り、途中3泊して4月1日に基隆港に入ったが、この船には台北帝大の初代総長幣原坦をはじめ、大学に赴任する人々がたくさん乗っていたようだ。

 ところが、藤田は台湾の風土が体に合わなかったのか健康を害し、翌1924年の5月末頃には東京へ戻り、7月には池袋の自宅で永眠してしまう。前嶋はあくまでも藤田の弟子という立場で助手の職にあっただけなので、研究者としてまだ格別な成果も出していない。師匠の急死でいきなり放り出されてしまった感じで、だいぶ心細い思いをしたようだ。

 大学の卒論以来、彼はアラビアにとりつかれていた。椰子の葉の緑に南国の強烈な陽光が照りつける台湾に渡って来ても、アラブとか大食などということばかり口にしており、同僚の助手、宮本延人(土俗人種学講座教授となった移川子之蔵と共に来台していた)からは「大食先生」とあだ名をつけられたらしい。しかし、頼りの恩師はすでにいない。「私は学窓を出て、台湾に流寓し、坎柯落々として学業も秋毫に似て細くなりゆくのみであったけれども…」とふさぎ込んでしまった。学内の人間関係のもつれもあったらしく、1932年には台北帝大を辞職し、台南第一中学校教諭となる。

 生涯のテーマと思い定めたアラビア研究に打ち込めず、台南へ逃げ出すことになってしまった。そうした鬱屈を抱え込んだ前嶋にとって、台南生活の当初は失意の日々となったらしい。しかしながら、いったん気持ちの区切りをつければ、台湾という土地もそれなりに興味深い対象ではある。まだ台南へ行く前の1929年の秋には神田喜一郎(台北帝国大学助教授、東洋学者・書誌学者)のお供をして福州へ行き、「朝夕、博士からいわゆる「支那学」のこと、内藤湖南博士の思い出、その他のお話を伺いつつ榕城(福州県城)の風物に接し、そこの人々と交わったりしているうちに、心は西域と遊離し、華南の文化の魅力にとりつかれてしまった。これから帰台したあとも、中国の社会や文献が強く心をとらえてしまい、あれほどのアラビア熱が、その奥にとじこめられてしまったような傾きがあった」(前嶋信次『アラビア学への途――わが人生のシルクロード』NHKブックス、1982年、212ページ)という。

 台南では、郷土史家の石暘睢や台南高等女学校の教員となっていた國分直一たちと一緒に歴史探索をするようになり、台湾の歴史や民俗をテーマとした文章を書く。台南第一中学校での教え子には、後に台湾語学の第一人者となる王育徳や美術史家の上原和もいた。

 前嶋が台湾に関連して書いた文章は杉田英明・編『〈華麗島〉台湾からの眺望――前嶋信次著作選3』『書物と旅 東西往還――前嶋信次著作選4』(平凡社・東洋文庫)に収録されているが、それらを並べてみると下記の通り。()内は初出の書誌情報である。台湾現地の新聞にも寄稿したというから、探せばもっと色々あるだろう。

・「蕃薯考」(『島田謹二教授還暦記念論文集 比較文学比較文化』弘文堂、1961年7月)
・「鄭芝龍招安の事情について」(『中国学誌』第一本、泰山文物社、1964年5月)
・「日月潭の珠仔嶼」(『民族学研究』第二巻第二号、1936年4月)
・「台湾の瘟疫神、王爺と送瘟の風習に就いて」(『民族学研究』第四巻第四号、1938年10月)
・「台南の古廟」(『科学之台湾』第六巻第一・二巻、1938年4月)
・「赤崁採訪冊」(『愛書』第三輯、1934年12月)
・「枯葉二三を拾ひて」(『愛書』第十輯、1938年4月)
・「呉徳功氏と彰化県続志の著者」(『南方土俗』第一巻第四号、1932年4月)
・「媽祖祭」(『三田文学』第四十二巻第四号、1952年6月)
・「文献蒐集の思ひ出」(『台湾時報』第二百五十四号、1941年2月)
・「国姓爺の使者」(『三色旗』第百四十三号、1960年2月)
・「少女ジヤサ」(『三田文学』第二十一号、1948年9月)
・「死に急ぐなかれ」(『クリティーク』第一巻第六号、1967年6月)
・「忘れ得ぬ町々」(『三田評論』第七百六十一号、1976年7月)

 漢籍をひもときながら過去の事蹟や由来をつづっていく、手堅い文献史学的な論考が多い。「枯葉二三を拾ひて」には、『台湾通史』の著者である連雅堂の失意で落魄した姿を見かけたり、晩年のバークレー牧師と交流したことなども記されている。

 こうした中でも「媽祖祭」はなかなか好きな文章だ。幻想的なロマンティシズムを湛えたエッセイで、前嶋という人の詩的感性をうかがわせる。彼はイスラム史の泰斗として知られるが、もともと文学にも造詣が深く、例えば『アラビアン・ナイト』の翻訳を手がけるなど、幻想譚への嗜好も人一倍あった。

 媽祖は航海の安全を守ってくれる、台湾では最もポピュラーな女神様。もちろん台湾各地で媽祖祭は行われているが、前嶋は台南の媽祖祭にこだわる。彼の脳裡に鮮烈な印象を刻み付けた、中国的な繁華街で目の当たりにしたあの光景への追憶を敢えて語ろうとする。土地の古老から聞いた、日本の領台より二十数年も前に托鉢僧に姿をやつした樺山資紀(初代台湾総督)を見かけたという奇譚もまじえる。祭礼の風俗を竜宮城にたとえて、自分がその場にいた不思議な気持ちを仮託する。

 夜になっても興奮がさめやらず、前嶋は再び街に出た。

「もう深夜に近く、空には月がかかっていた。その光を白々と浴びて、一群の少女が舞をまつていた。極めてゆるやかな優美な舞である。誰も大きなつくりものの貝殻を持つていて、一斉にその下にかくれることもある。どこかで花鼓と笛をならしているが、それにつれて貝殻を開いて月光の中に現れては舞いつづける。皆、十七八歳の乙女で、身には薄絹の長衣をまとつていた。月光がもやでかすんでいたから、どの少女もこの世のものとも思えぬほどに美しかつた。一体何人位居つたろうか。向うのはしの方は深夜のこととて視界がぼやけてよくわからなかったが、随分遠くの方にまで居る様に見えた。」
「今になつて考えると少しく妖怪じみた光景であつたが、その時は一向にそう云う感じはしなかつた。ただ恍惚として、そして骨髄に沁みわたる様な孤独感を味いながら見ていたのである。今にして思えば、あのころわたくしはやつと三十歳位であつた。今の数え方だとまだ二十代であつた。であるから、なに、この位の不思議さ、美しさ、なつかしさはまだこれから何度も体験出来るだろうとたかをくくつていたのである。それで踵をめぐらして、その場を立去つたから、せいぜい三四十分間位眺めていただけであつたろう。」
「しかし、あの様な情景にめぐり合うことは二度と出来なかつた。わたくしは今老齢に入ろうとして、平凡だつた一生をふりかえり、あの夜ほどのあやしさ、夢みる如き美しさはただ一回切りしかなかつた事をさつとている。そうと知つたら何故、あの夜、水仙宮前の広場に立ちつくして、少女達の舞の果てるまで待たなかつたのだろうと悔やまれてならぬのである。もし舞がいつまでも果てなかつたらそのまゝ黎明の訪れるまでいても何の差支えもなかつたろうではないか。」(杉田英明・編『〈華麗島〉台湾からの眺望――前嶋信次著作選3』平凡社・東洋文庫、2000年、410~411ページ)

 前嶋は1940年に東京へ戻り、満鉄の東亜経済調査局勤務を経て慶應義塾大学の教員となって、最初の志の通りにイスラム史研究へと戻っていく。だが、弟子にあたる坂本勉(トルコ民族史)が次のように語っているのが興味深い。

「私が学生時代にうけた先生の講義のなかでも台湾とその対岸の福建地方の話は、ご専門のイスラム史の話よりもよほど精彩があったように記憶しています。台湾の基隆だとか、対岸の福州、泉州だとかの地図を書いて蜜柑がたわわに実るこれらの街々を駕篭にのって旅行された時の話など、瘴癘の地として聞こえる台湾、閩越の地方に清涼なる風が吹きわたるかのような錯覚にとらわれ、思わず引き込まれたことを覚えています。」(坂本勉「イスラム研究の系譜と慶応義塾(一)」『史学』60巻2-3号、1991年、103ページ)

 不本意な境遇に落ち込んでしまい、失意の日々を過ごした前嶋の台湾時代。しかしながら、いや、むしろそうであればこそ、神経過敏となった彼の若い感受性は、台湾の風物から新鮮な美しさを感じ取った。そうした体験は、ひょっとしたらその後のイスラム史や東西交渉史の研究をする上でも間接的に役立っていたのではないか。一見、遠回りのように見えて、実はそれ以上に彼にとっては豊穣な収穫があったと言えるだろう。

※台南時代の前嶋信次については、大東和重「前嶋信次の台南行脚――一九三〇年代の台南における歴史散歩」(『近畿大学語学教育部紀要』第7巻第2号、2007年12月)が詳細に論じており、私も参考にさせていただいた。

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 「国内の山村にして遠野より更に物深き所には又無数の山人山神の伝説あるべし。願はくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ。」

 柳田國男『遠野物語』冒頭の一節である。初めて読んだ中学生の頃、ちょっと異様な迫力を感じてワクワクした気分になったことを覚えている。自分の見知った当たり前な「平地」とは異なる世界が「山」にあるというイメージから、ある種のファンタジーをかき立てられた。実際、初期の柳田の書き物に見られる「山人」論には、詩人的感性を持った彼ならではのロマンティシズムが漂っているとはよく言われることである。

 「柳田国男の「山人論」とは、日本の山中には先住民族の末裔が今も生存しており、その先住民の姿を山人や山姥・天狗などと見誤って成立したものだという仮説である」と大塚英志は記している(大塚英志・編『柳田国男 山人論集成』[角川ソフィア文庫、2013年]「あとがき」)。後年の柳田の「常民」論に対しては、「国民国家」的同質性を成り立たせるイデオロギーだという批判もあるが、少なくともこの時点での「山人」論には国内に抱えた「多民族性」を可視化するレトリックとして作用する余地もあったと言えるだろうか。

 柳田の「山人」論には台湾の原住民族、当時の表現では「高砂族」が投影されているとつとに指摘されてきた。例えば、柳田の著した「天狗の話」には「隘勇線」という言葉がさり気なく使われている。「隘勇線」とは、台湾の平地にいた漢族系住民が山地の原住民からの襲撃をしのぐために設けた防御線のことである。

 台湾総督府から出された『蕃族調査報告書』を柳田は熱心に読み込んでいた。そもそも、台湾原住民の研究に先鞭をつけた伊能嘉矩は遠野の出身である。柳田は伊能と親交があり、先に亡くなった伊能の遺著を集めた『台湾文化志』の刊行に尽力している。

 台北帝国大学文政学部に赴任した政治学者の中村哲は、池田敏雄や金関丈夫が中心になって刊行された『民俗台湾』の編集同人として名前を連ねていた。中村の専門は憲法論であったが、自宅のすぐ近所に柳田國男が住んでいたため、学生の頃から柳田の書斎に出入りしていたという。中村は『柳田國男の思想』(法政大学出版局、1967年)で次のように記している。

「『遠野物語』から発して『山の人生』に及び、山にひとり住む異常な人間の話は自然の怪奇ではなく、生死の霊妙な人間についての柳田国男の特異感覚を示すものである。が、そこには西欧民俗学からの問題意識、中国の怪奇談、馬琴などの稗史類の着想なしには展開されなかったと思われるものがある。山はかつて人間が死体を遺棄して鳥獣のついばむにまかせた立ち入りを忌む場所であって、しかも、そこには、山だけに住む山窩あり、山の木によって細工をする木地屋あり、一歩道を踏みあやまれば地獄谷と称する野ざらしの死体遺棄所に迷い込む。その峯々をわたる山伏あり、山男、山姥、山女、すべてこれらの「山人は此島国に昔繁栄して居た先住民の子孫である」(「山人外伝資料」)という。これは大陸の漢民族に逐われて寒冷の高地に住みつくより他はなかった台湾の蕃族からの着想によるものであったし、しかもそこには外国文学より得たキリスト教人種に逐われる異教徒の行方にも注意してのことであった。」(「西欧文化との接触」24~25ページ。なお、原住民が漢民族に追われて寒冷の高地に逃げたという捉え方は正しくない)

「…柳田が、山の怪に、ときには不気味なほどの好奇心をよせた学問的真意を注目したい。彼の解答の錠は正にこのように科学的であって、彼自身は神秘や奇怪をそのままに信ずる常民の非合理的な態度をそのまま肯定するわけではないのである。この山人についての推測はさきにも触れたことのある台湾原住民が漢民族によって山地に逐いたてられた事例から類推して、この当時公刊された『台湾旧慣調査報告書』による比較研究が基となっている発想であった。」(「田園への愛慕」256ページ)

 こうした台湾原住民の存在にも触発された「山人」論に対して、村井紀『南島イデオロギーの発生――柳田国男と植民地主義』(福武書店、1992年)は「山人」と「平地人」との対立を見出し、これを柳田の植民主義のモデルであると捉えている。日韓併合の際、柳田が法制局の官僚として法律整備に関わっていたことにも言及し、柳田に対する視線は厳しい。

 他方で、『民俗台湾』の事実上の中心人物であった池田敏雄は「柳田国男と台湾――西来庵事件をめぐって」(國分直一博士古稀記念論集編纂委員会『日本民族文化とその周辺 歴史・民族篇』新日本教育図書、1980年)で次のエピソードを取り上げている。1917年に柳田は台湾旅行に出かけた。各地を一通り回って台北へ戻り、歓迎会に出席したときのこと。「大君はかみにしませば民草のかかる嘆きも知ろしめすらし」と柳田が吟じて、せっかくの歓迎会がシーンとなってしまったという。ちょうど、1915年に起こった西来庵事件で大量の死刑判決が出されていた頃で、そうした異常事態を柳田はこの句で批判していたのではないかと池田は指摘する。さらに、日韓併合に法案整備という形で関与してしまったことについても悔恨の念があったのではないかと推測を重ねている。

 どちらの見解が正しいのかは私には分からないが、台湾原住民から触発されたとされる柳田の「山人」論をめぐって、植民地主義に関わる議論が交わされていることだけをとりあえず紹介しておく。

 柳田國男は大審院判事・柳田直平の婿養子となっているが、直平の弟は陸軍の軍人で台湾総督となった安東貞美であり、國男にとっては義理の叔父にあたる。そうした縁で柳田は台湾旅行に出かけたわけだが、田山花袋が「山の巡査達」という作品でその折の柳田の姿を描いている(大塚英志・編『柳田国男 山人論集成』所収)。

 なお、折口信夫も『台湾蕃族調査報告書』を読み、そこから「マレビト」論のヒントを得ていると村井紀『南島イデオロギーの発生』で指摘されているが、詳細を私は確認していない。

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 東アジアの近代を考える上で梁啓超の存在感は大きい。日本統治下における台湾民族運動の立役者として知られる林献堂もまた政治的方向性を模索する中で梁啓超からの影響を受けていた。

 1907年に27歳だった林献堂は初めて東京へ行った。当時、戊戌の政変(1898年)に敗れて日本へ亡命していた梁啓超は横浜で「新民叢報」社を設立して、清朝の立憲改革を求める言論活動を精力的に展開していた。かねてから梁啓超の盛名を聞いていた林献堂は是非とも面会したいと思い、横浜の彼の寓居を訪問したが、あいにくなことに不在。後ろ髪を引かれる思いで立ち去ったが、台湾へ帰る途中に寄った奈良で、旅行中だった梁啓超と偶然に出会う。

 梁啓超は広東訛り、林献堂は閩南語を話す。二人は言葉が通じないため筆談で語り合った。漢民族意識の強い林献堂は日本の植民地とされた台湾の苦境を訴えたが、梁啓超の返答はこうだった。「中国には今後30年間、台湾人を助ける力はない。だから、台湾同胞は軽挙妄動していたずらに犠牲を増やすべきではない。むしろ、大英帝国におけるアイルランド人のやり方を見習って、日本の中央政界の要人と直接結び付き、その影響力を利用して台湾総督府を牽制する方が良い」(黄富三《林献堂伝》国史館台湾文献館、2006年、24頁)──当時、アイルランド自治法案の可決に努めていたイギリス自由党のグラッドストン内閣を念頭に置いていたのだろう。

 林献堂の熱心な招待を受けて梁啓超は1911年3月に台湾を訪れた。梁啓超としては、自らの立憲運動や新聞事業のため募金集めをしようという思惑があった。林献堂は連雅堂(『台湾通史』の著者で、連戦・元副総統の祖父)を伴って日本からの船が到着する基隆まで出迎え、そこから汽車へ同乗、台北駅に降り立った梁啓超は多くの人々から熱烈な歓迎を受ける。

 梁啓超は台湾各地を回って在地の名士たちと語り合った。言葉は通じないので筆談となるが、儒教的伝統の知識人は詩文を取り交わすのが習わしだから問題はない。しかし、在地の知識人は総督府の専制政治への不満を訴えるものの、梁はむしろ日本統治による近代化を評価しており、両者の考えは必ずしも一致していなかった。ただし、平和的・漸進的に政治改革を進めるべきだという梁啓超の示唆は一定の影響を及ぼす。

 中国の伝統的な知識人としての自負があった林献堂は、檪社という詩文グループに属していた。檪とは無用の木のことで、すなわち日本統治下では無用の人間という意味合いが込められている。そのような命名からうかがわれるように、詩社には清朝遺民の気風を持つ知識人が多く集まっていた。台中の檪社の他、台北の瀛社、台南の南社が有名で、こうした人的ネットワークが梁啓超歓迎の際にも機能したのだろう。

 梁啓超が台湾を去った1911年、辛亥革命が勃発する。1912年には中華民国が成立し、この機会に乗じて清朝の皇帝を退位させた袁世凱が自ら大総統の地位に就く。梁啓超は袁世凱の招きを受けて財政総長に就任した。

 林献堂は1913年に北京へ赴いて新政権の様子をうかがうのと同時に、袁世凱政権と対立関係にあった国民党の要人とも接触する。中国の実情を自ら観察した林献堂は、国内がこのように混乱している以上、台湾を助けるどころではないことを見て取った。その点では、確かに梁啓超が言うとおりである。そうなると、台湾人は自助努力によって目標を達成しなければならない。

 第一に武力で日本の統治者に抵抗するのは難しい、第二に現時点で中国には台湾を解放する能力はない、第三に日本統治による近代化は一定の成功を収めている──こうした認識を踏まえて考えるなら、日本統治を当面の前提とした上で権利の向上を図るのが次善の策となる。そこで林献堂は、台湾人の地位や待遇を日本人と同等にするよう求めることに民族運動の最初の照準を合わせた。

 林献堂は東京で板垣退助や大隈重信などの政治的有力者に面会を求めた。1914年には二度にわたって板垣を台湾へ招く。かつて自由民権運動の闘士であった板垣は、林献堂の話を聞いて台湾人の置かれた差別的境遇に同情した。他方で、国権論者でもある板垣は、日本の南進政策や「日支親善」の架け橋となることを台湾人に期待していた。

 板垣の思想は、尊厳と権利の向上を求める台湾人側の思いとは同床異夢だったかもしれない。いずれにせよ、板垣の肝いりで同年12月20日に台湾人差別の撤廃を目指した「台湾同化会」が成立する。こうした動きを台湾総督府は警戒していたが、板垣の名声を前にしておいそれとは手が出せない。林献堂は「中央政界の要人と手を組め」という梁啓超のアドバイスを的確に実行したわけである。ただし、板垣が日本へ帰ると、翌年の1915年2月に「台湾同化会」は解散させられてしまった。

 1910年代以降、日本へ留学する台湾人が増えつつあった。植民地台湾とは異なり比較的自由な東京で先進的な知識や思想に出会った彼らは植民地体制の矛盾をますます認識するようになり、そうした気運は台湾民族運動を新たな方向へと導くことになった。東京にいた台湾人留学生が議論を交わした最重要のテーマが「六三法撤廃」問題である。

 台湾も大日本帝国の版図に含まれた以上、本来ならば日本人と同様に帝国臣民としての権利を享受できるはずである。ところが、日本政府は植民地統治の特殊性に鑑みて台湾における憲法の施行を保留し、明治29年法律第63号(通称を六三法といい、その後、明治39年法律第31号に引き継がれる)によって台湾総督の栽量による法律制定を可能にしていた。つまり、台湾総督府の専制的統治を批判し、台湾も憲政の枠内に組み入れるよう求めるのが「六三法撤廃」問題の要点である。こうした考えから林献堂たちは「六三法撤廃期成同盟」を設立して運動を展開した。板垣退助と共に設立した「台湾同化会」も同様の考え方に基づいていたと言える。

 ところで、六三法を撤廃して台湾を日本の憲法の枠内に組み込むと、台湾人を権利面で同等な立場に引き上げることはできるかもしれない。他方でそれは、台湾人を日本人に吸収=同化させてしまうことにならないか? ちょうど第一次世界大戦が終わり、ウィルソンの提唱した民族自決の原則が世界中で大きな反響を巻き起こしていた時期である。留学生たちはむしろ、台湾の特殊性を強調して台湾自治のための議会設立を優先させるべきだと考えた。こうした論争を受けて、林献堂も1920~21年頃に六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動へと方針を転換させる。

 憲法を台湾に施行して台湾人にも日本人と同様の権利・義務を持たせる考え方を内地延長主義といい、六三法撤廃運動はこれに依拠していた。しかし、こうした方向性は民族主義的な立場からすると日本人への同化主義と捉えられる。対して、台湾の特殊性を理由として日本内地とは別建ての統治システムを実施することを特別統治主義という。六三法によって憲法を棚上げした台湾総督の統治はその具体化であった。他方で、これを台湾の特殊性を認めるものと捉えるなら、同化を拒む民族主義的な立場からは自治への方向性を読み取ることも可能である。日本人か、台湾人かという立場の相違、専制的統治か民主的統治かという方向性の相違によって解釈は異なってくるが、いずれにせよ、六三法撤廃運動から台湾議会設置請願運動への方針転換は、権利向上重視から民族的独自性重視への思潮の変化として捉えることができる。

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