陳澄波の生誕120周年を記念した大型展覧会企画が今年の初めに台南で実施されたのを皮切りとして始まり、上海、北京、東京とめぐって12月5日から台北の故宮博物院にて「藏鋒──陳澄波特展」と題して行われている(2015年3月30日まで開催。公式HPはこちら)。

  彼の習作時代の水彩画(おそらく恩師・石川欽一郎の影響か)や東京美術学校留学当時の作品、その後、上海に渡って中国画の影響を受けながら描かれた作品、第2次上海事変の勃発で台湾へ戻って後に描かれた作品と続き、最後は1947年の二二八事件で殺害される直前に描かれた「玉山雪景」で締めくくられるという構成になっている。

  私はやはり「嘉義公園」などに見られる、南国の木々が画面からあふれ出んばかりに力強く繁茂した、あの鮮やかな緑の色彩が好きだ。

  今年、各地で開催された陳澄波展のうち、台南の4か所(国立台湾文学館、鄭成功文物館、台南文化中心、新営文化中心)で開催された陳澄波展と、東京芸術大学美術館で開催された「青春群像」展は見てきたが、台南ではとにかく展示量が膨大で(彼に関心を持つ人には絶好の機会であったが)すべて見て回るのは一苦労だった。東京の「青春群像」展は東京美術学校に留学した台湾人の群像を紹介するという趣旨であったため、陳澄波はあくまでもその中の一人という位置づけだった。こうした以前の展覧会と比べると、今回は陳澄波という画家の生涯にわたる作品を一通り眺め渡すにはちょうど良いボリュームの展示になっていると思う。

  以前に台南で行われた陳澄波展を見に行ったときのことは「台南で陳澄波展を見た」に記してある。また、彼の生涯に関わる問題については「陳澄波と沈黙の時代」で取り上げた。考えてみると、私が台湾美術史に関心を持つようになったきっかけは7年ほど前、初めてこの故宮博物院を訪れたときに見た李澤藩の展覧会であった(→こちらを参照)。陳澄波の恩師にあたる石川欽一郎の名前もその時に初めて知った。

  今回、故宮博物院で実施された展覧会の「藏鋒」というタイトルには「hidden talent」という英訳が与えられている。この英訳を見たとき、二二八事件で殺害されて以降タブーとなっていた彼の才能の再発見という意味合いがあるのだろうか、と勝手に思っていた。実際には中国画や書道の技法を指すらしく、詳しいことは私には分からない。今回の展覧では彼の絵画から見出される中国画の影響に焦点を合わせて「中西融合」という側面が強調されている。このタイトルにはむしろ油絵という技法の外見だけから分からない部分に底流している中国画の技法という意味合いを持たされているのかもしれない。

  今回の展覧会のコンセプトとなっている陳澄波の言葉を以下に掲げておく。1934年に『台湾新民報』のインタビューを受けた時の返答である。

「我因一直住在上海的關係,對中國畫多少有些研究。其中特別喜歡倪雲林與八大山人兩位的作品。倪雲林運用線描使整個畫面生動,八大山人則不用線描,而是表現偉大的擦筆技巧。我今年的作品便受這兩人影響而發生大變化。我在畫面所要表現的,便是線條的動態,並且以擦筆使整個畫面活潑起來,或者說是,言語無法傳達的,某種神秘力滲入畫面吧! 這使是我作畫用心處。我們是東洋人不可以生呑活剥地接受西洋人的畫風。」

  最後の一節、「我々は東洋人であり、西洋人の画風を鵜呑みにするわけにはいかない」という言葉がやはりカギとなる。彼が「東洋」に関心を持つに至るにはどのような経緯があったのか。彼の言う「東洋」の意味内容はどのようなものなのか。それは中国だけを意味するのか、それとも日本も含まれるのか。様々なポイントで興味がひかれる。

  彼は東京美術学校を卒業後、仕事がなかなか見つからないという状況の中、招聘されて上海の美術学校へ渡り、教鞭をとることになった。そこで中国の芸術家たちと交わり、西湖をはじめ江南の風景に馴染んだことが、中国画の技法に関心を寄せた理由の第一に挙げられる。

  第二に、石川欽一郎の勧めがあったことも見過ごせない。当初はヨーロッパ留学を希望していた陳澄波に対して、洋行は学費がかかるし、むしろ東洋(中国、インド)の絵画を勉強する方が身になるはずだ、と石川は勧めている(→こちらに手紙の文面を写してある)。また、石川は「南画」の技法を熟知しており、陳澄波を含めた学生たちに何らかの影響があったはずだという指摘もある(蕭瓊瑞「藏鋒於拙──陳澄波油彩創作中的水墨特質」『故宮文物月刊』381期、2014年12月)。

  第三に、上海で描かれた「私の家庭」の画面の中に日本語書籍『プロレタリア絵画論』が敢えて描き込まれていることに注目してみよう。当時、左派的な議論に関心を寄せる学生や知識人は経済的・社会的階級の問題だけでなく、民族問題という観点にも重きを置いていた。日本の帝国主義的支配に対して批判的な台湾人の間では「中華民族」の一員としての自覚を強める傾向があり、そうした思想的風潮が陳澄波の中国画への関心を促す一因として作用していたことも考えられるだろう。

  石川欽一郎から陳澄波に宛てたハガキ2点が展示されており、その文面もメモしておいたので最後に掲げておく。

◆石川欽一郎(東京市砧村成城〔?〕八四)から陳澄波(嘉義市西門町二ノ一二五)宛のハガキ(1935年1月23日)

「春台の君の御作拝見、大体あれで結構ですが、慾を言へばも少し咀みしめた味が出るやうに希望、やゝスサンだホコリ臭い感じがするのは、陰の色の単調に起因するものかと思ひます。陰の色に、紫調を考へて見ては如何、そして画面の扱方に暗示味を加へるやうに考究しては如何。嘗て君の上野の表慶館のやうな柔らかな味と潤ひ、自然を愛し仕事を愛したあの気持が希望したいのです。李梅樹君は非常な大作ながら不徹底で不可。」


◆石川欽一郎から陳澄波(本郷區湯島切通坂町三九佐藤方)宛のハガキ(1934年10月13日)

「お目出度いと祝するよりも君の努力に對する當然の結果です。世の中のことはチャンスでは現はれて来ません。眞面目の奮闘と開拓です。君の入選がそれを立証します。
  君の入選美談に就て講談社へ一寸知らせて置きました。或は編輯の人が君を訪ねるかも知れません。」