蕭文《水交社記憶》(臺灣商務印書館、2014年)

  台南の市街地の南側に「水交社」と呼ばれる一角がある。日本の近代史に関心がある人なら、旧日本海軍将校の親睦組織を想起するだろうが、この地名はまさにその「水交社」に由来する。

  1940年に台南空港が完成、太平洋戦争開戦直前の1941年10月には台南海軍航空隊が成立した。こうした時代状況の中、台南の市街地と空港との中間にあたるこの場所に海軍関係者の宿舎が建てられた。水交社も同時に設立されたため、この一帯は「水交社」と呼びならわされる。戦後は中華民国空軍に接収され、ここは空軍関係者が家族と共に暮らす「眷村」となった。抗日英雄として顕彰されたパイロット・周志開にちなんだ「空軍志開新村」というのが正式名称だが、戦後も通称として「水交社」と呼ばれ続けていたという。

  著者自身が「水交社」の眷村で生まれ育った人である。ここに日本海軍航空隊が来る以前の歴史から戦後の眷村における生活光景まで史料を調べ上げ、当時を記憶する老人たちへのインタビューをまじえながら「水交社」という土地の変遷を丹念に描き出している。台湾を特徴づける歴史的重層性が、この「水交社」という限られた区域からも如実に見えてくるのが面白い。

  「水交社」のランドマークとなるのは「桂子山」という小高い丘。「鬼仔山」「貴子山」とも書かれ、他に「魁斗山」という別称も持つ。「魁斗」とは、かつて台南近辺の平地に暮らしていた原住民族(平埔族)・シラヤ族の言語で平たい桶を意味するKatarという言葉に由来するという。このあたりの小高く隆起した様子が桶を伏せたように見えるからである。なお、清代の文献に見える「桂子山」の位置は現在のものとは異なり、本来は「五妃廟」のあたりだったと指摘されている。現在「桂子山」と呼ばれている丘は、日本海軍が建設した大型防空壕ではないかと推測される。

  2009年に「水交社」の一帯が整地された際、清代に渡来した漢族の墳墓が発見された。実はこの辺りにはもともと墓地が広がっていたのである。日本統治時代の都市計画で墓地が強制移転されて地元民の不満が募り、1928年には「台南墓地事件」が起こっている。こうした上に海軍の宿舎が建設され、戦後には「眷村」の生活が営まれていた。墓地の上で暮らしていたわけだから不吉な感じもする。著者もそうした疑問を古老に向けたところ、「いや、変なことは何も起こらなかったよ。むしろ、昔の人は風水的に良い場所を選んで墓地にしたんだと思う」との返事。

  1941年12月8日の日米開戦にあたり、台南海軍航空隊はバシー海峡を渡ってルソン島の米軍クラーク基地を攻撃した。坂井三郎、笹井醇一、西澤廣義、太田敏夫、岩本徹三といったエースパイロットも台南基地にいたことがあるという。1944年12月からは「神風特攻隊」の訓練が始まり、台南基地の特攻隊は大西瀧治郎によって「神風特攻隊新高隊」と名付けられた。

  日本の敗戦直後、台南空港や「水交社」の宿舎群は使い道もなく放置されていたという。ところが、国共内戦に敗れた国民党政権が台湾へ移転、空軍の精鋭部隊が台南空港へも次々と降り立ち始めると、再び活気を帯びる。来台した空軍関係者の住む家がないため「水交社」の日式家屋があてがわれた。いずれにせよ、台南空港は中華民国空軍の重要な基地となった。とりわけここに拠点を置いていた曲技飛行隊の「雷虎小組」は有名で、本書でも一章が割かれている。

  こうして大陸から来台した軍人とその家族によって形成された「眷村」は独特な雰囲気を醸し出していた。その特徴を挙げると、
・中国大陸各地から来た風俗習慣の異なる人々が一ヶ所に集まっていた。
・すぐにも大陸へ戻るつもりだったため、日式家屋だけでは賄いきれずに急ごしらえされた宿舎は粗末な作りで、間もなくひび割れはじめる。
・「国語」を共通語としており、周囲の台湾人が用いる閩南語とは異なる。
・軍隊関係者の住居として設定されたため、職業的な同質性が高い。
・軍事基地の延長としての性格を持つため閉鎖性が強く、生活条件は政府に依存していた。

  1957年からアメリカ空軍が台南空港へ進駐しており、核弾頭やU2偵察機も配備されていたという。アメリカ人が住み始めたため、「水交社」の近くには牛肉ステーキのお店や自動車修理工場などアメリカ人向けのお店も当時はあった(昔の台湾人は牛肉を食べなかった)。

  「眷村」の第一世代が退役し、その子供や孫の世代は「眷村」の外へ出て行ってしまうと、高齢化が著しくなった。2004年までに「眷村」の人々は転出し、現在は「水交社眷村文化園区」として当時の日式家屋が保存されている。

(写真1、2:郵便局や道路名に見える「水交社」)
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(写真3、4:「水交社眷村文化園区」へ)
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(写真5、6、7:現在も残る日式家屋)
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(写真8、9、10:眷村や雷虎小組を記念するという位置づけ)
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(写真11:整地された後の空地)
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(写真は2014年7月21日に私が撮影)