鍾明宏《一九四六──被遺忘的台籍青年》(沐風文化出版、2014年)

  日本敗戦の1945年から中華人民共和国が成立する1949年に至るまでの激動期、海峡両岸をまたがって様々な人の動きがあった。本書で取り上げられるテーマは1946年に中国大陸へ渡った台湾人留学生。台湾海峡が分断されて帰れなくなった後、双方の政治的事情からタブーとなって、その存在が歴史の暗闇の中に消えてしまった人々も多い。著者は大陸でも調査を繰り返し、こうした悲劇的な人々の記憶を遅まきながらも掘り起こそうとした労作である。

  台湾に住む漢族系住民は主に閩南語や客家語を話す。その上、日本統治時代には日本語教育が徹底されたため、台湾が中華民国に接収されても標準的な中国語(国語、普通話)の分かる台湾人はほとんどいなかった。従って、統治にあたって支障を来すであろうことは当然ながら予想され、中国語と中国文化を熟知した台湾人エリートの育成が急務とみなされた。そこで、台湾省行政長官公署教育処は学費、生活費のすべてを公費でまかなう破格の条件で台湾人留学生を大陸の大学へ派遣することを決め、1946年に試験を実施、選抜された100名の台湾人青年が11月には大陸へと渡った。1948年には自費の留学生50名も派遣され、こうした合わせて150名を本書では「公派生」と呼んでいる。

  この奨学生たちはどのような動機から応募したのか? 第一に、「留用」されていた日本人教員が次々と日本へ引き上げていく中、台湾で向学心に燃える青年を受け入れられる教育機関に限界があり、他方で大陸の北京大学、清華大学、復旦大学といった著名大学の名前には吸引力があったこと。第二に、日本統治時代に台湾人は二等国民として見下されていた屈辱的な体験が中国文化への祖国意識を強めていたことが挙げられる。

  しかしながら、大陸へ渡った奨学生たちは間もなく政治的・社会的矛盾をまざまざと見せつけられ、燃え上がる学生運動から強い影響を受けることになる。まず、1946年12月に北京大学の女子学生がアメリカ軍人に乱暴された沈崇事件は反米帝国主義の学生運動を引き起こした。それから、1947年に上海で行われた五四運動を記念する活動は「反飢餓反内戦反迫害運動」へと盛り上がっていく。何よりも、同年に台湾で起こった二二八事件は決定的だった。国民党に対して疑念を抱いた「公派生」の中から共産党へシンパシーを寄せる学生も次々と現われ始める。

  1949年、国共内戦で敗北した国民党政権が台湾へ移転すると海峡の分断が決定的となり、多くの「公派生」が台湾へ戻れなくなってしまった(中には林金莖[李登輝政権下で駐日代表]のように早めに台湾へ戻っていた人もいる)。もちろん人それぞれで事情は異なるが、たいていの場合、当初は知識分子として重用されたものの、反右派闘争・文化大革命と続く中、「国民党のスパイ」等の罪状で迫害を受けることになる。他方、台湾では大陸残留者の戸籍は抹消され、その家族は国民党特務の監視下に置かれた。台湾へ戻った「公派生」の中には白色テロで殺害されてしまった人もいる。

  「公派生」として本書で言及された台湾人奨学生の中で私が興味を持った人物について以下にメモしておく。

・陳弘:彼はかつて基隆中学に在学中に関わった事件で停学処分となり、台湾で進学することができなくなったため、日本へ留学した。この事件については田村志津枝『台湾人と日本人──基隆中学「Fマン事件」』(晶文社、1996年)が取り上げている。その後、周恩来や鄧小平の日本語通訳も務め、中央編訳局で『鄧小平文選』日本語訳作業の統括もした。かつて、撫順の日本戦犯管理所でも働いていたことがあるらしい。

・陳天章:文革後に名誉回復されてからは上海対外貿易学院で教鞭を執る。両岸関係が緩和されて以降、大陸へ投資する台商の仲介者となった。

・楊威理:中央編訳局図書館館長を長らく務めていたが、1989年以降は日本へ移住。新潟産業大学教授などを務める。楊威理『ある台湾知識人の悲劇──中国と日本のはざまで 葉盛吉伝』(岩波書店・同時代ライブラリー、1993年→こちら)、『豚と対話ができたころ──文革から天安門事件へ』(岩波書店・同時代ライブラリー、1994年→こちら)、中目威博『北京大学元総長 蔡元培 憂国の教育家の生涯』(里文出版、1998年→こちら)といった著作がある。

・尤寛仁:中国語以外に16の言語を操ることのできる語学の天才。文革後は哈爾濱工業大学に勤務。日本語が達者であったため、残留孤児問題で日本側に協力。その縁で日本へ招かれた1983年に台湾の親族と再会。1990年には台湾へ定住。本書の著者は中学時代の同級生が尤寛仁の息子であった関係から「公派生」の調査を始めたという。

・陳敏臣:陳舜臣の兄で、その後は日本へ定住。陳舜臣は1980年に何人かの「公派生」にインタビューをして、そのことはエッセイ集『含笑花の木』(三玄社、1989年/朝日文芸文庫、1996年)で触れられているそうだが、私は未読。