私が広い意味で東洋史へ関心を持つようになったきっかけは、もとをたどるとシルクロードへの漠然たるあこがれだった。そうした私にとって大谷光瑞(1876~1948年)といえば大谷探検隊とイコールで結ばれ、橘瑞超、堀賢雄、吉川小一郎といった名前もただちに想起される。大谷探検隊(長澤和俊編)『シルクロード探検』(白水社、1966年)という本も好きだった。

  西本願寺法主の後継者として生まれ、大正天皇の皇后・貞明皇后の姉と結婚して皇族とも縁戚につながった、いわば貴族の御曹司であった大谷光瑞。教団の膨大な資産を文化事業につぎ込んだり、政治にも関心を持つなど、様々な活動を展開した。ある意味、破天荒な彼の生涯は、例えば、杉森久秀『大谷光瑞』(中公文庫、1977年)、津本陽『大谷光瑞の生涯』(角川文庫、1999年)といった評伝で描かれている。

  最近も大谷光瑞研究は着実に進んでいるようで、柴田幹夫編『大谷光瑞とアジア──知られざるアジア主義者の軌跡』(勉誠出版、2010年)、白須淨眞『大谷光瑞と国際政治社会──チベット・探検隊・辛亥革命』(勉誠出版、2011年)、柴田幹夫編『大谷光瑞「国家の前途」を考える(アジア遊学)』(勉誠出版、2012年)、柴田幹夫『大谷光瑞の研究──アジア広域における諸活動』(勉誠出版、2014年)、白須淨眞『大谷光瑞とスヴェン・ヘディン──内陸アジア探検と国際政治社会』(勉誠出版、2014年)などが立て続けに刊行されている(残念ながら、これらの近年の成果について私は未読)。なお、荒俣宏『帝都物語』に大谷光瑞が加持祈祷でルーズベルトを呪殺するシーンがあるが、もちろんこれはフィクションに過ぎない。


  大谷光瑞は各地に別荘を持っていたが、実は台湾南部の港湾都市・高雄にも1940年に別荘を建てていた。名付けて「逍遥園」という。この頃、彼は南方進出に積極的な関心を寄せており、ジャワにも別荘を持っていたという。近衛文麿政権で内閣参議となったほか、台湾総督府熱帯産業調査委員会委員という肩書を持ち、この「逍遥園」の農園では熱帯性作物の試験的な栽培が行われていたらしい。柴田幹夫『大谷光瑞の研究』の目次を見ると第五章が「大谷光瑞と台湾──「逍遥園」を中心にして──」となっており、これを読めば詳しい背景が分かるのだろうが、私はいま台湾にいるのですぐには入手できないのが残念。


  なお、小生夢坊『再認識の臺灣』(日満新興文化協会、1937年)を読んでいたら、大谷光瑞が金に糸目をつけずに豪邸を建てる計画を立てていることを指して、その贅沢ぶりを罵っている箇所があった。一部の人からは反感を持たれていたのかもしれない。


  高雄市内を横に走るMRT橘線の信義國小駅で降りて、大通りからちょっと北側にはいった路地に入る。六合一路55巷のあたり。建物が密集している地区では不自然なほど広い空地が目に入った(写真1)。向こうに建物らしきものもあるようだが、木々に遮られてよく見えない。


(写真1)
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  正面の方へ回り込んでみる。工事用の屏に囲まれた中に、明らかに古い建築が残っている。中には入れないので、近景は塀の隙間からカメラを中に入れてようやく撮影できた。これが大谷光瑞の別荘「逍遥園」の今の姿である(写真2~10)。ここは戦後、中華民国軍に接収され、国軍802医院の関係者がこの豪邸を分割しながら住み付き、「行仁新村」と名付けられた。いわゆる「眷村」である。よく見ると、複数の番地表示があったりする。2013年に周囲の建物が取り除かれた際、往年の豪邸がようやく姿を現した。

(写真2~10)
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  立て看板を見ると、現在も軍の管轄下にあるようだが、同時に高雄市文化局から歴史建築指定を受けている(写真11)。いずれ改修されて一般公開されるのかもしれない。

(写真11)
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  建物の北側には住居が密集しており、狭い路地から撮影したので焦点が定まらず、ちょっとぶれてしまった(写真12、13)。建物の背後も荒れている(写真14)

(写真12~14)
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  入り口と思しきあたりには解説パネルが掲げられていたので、ご参考までにここに載せておく(写真15~23)。

(写真15~23)
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(写真は2014年11月21日に撮影)