八田與一ゆかりの地として日本人観光客もしばしば訪れる烏山頭水庫は西拉雅(シラヤ)国家風景区の中に含まれている。西拉雅とは聞き慣れないかもしれないが、平野部に住んでいた原住民族(平埔族)の一つ、シラヤ(Siraya)族を指す。清代にはすでに漢化が進んで独自の民族としての特徴は大部分失われてしまったが、台湾の民主化以降、原住民文化復権の運動が進む中でシラヤ族への関心も高まり、2005年に台南県(現在は台南市)東部を中心として国定公園が設立された際にはそのシンボルとしてシラヤの名前が冠せられた。

  ただし、西拉雅国家風景区は台南市東部の山麓地帯に偏っているが、実際にかつてシラヤ族が住んでいた範囲は沿岸にかけての平野部一帯に広がっていた。シラヤ族はさらにいくつかの支族(「社」という単位で呼ばれる)に分かれて互いに抗争しており、比較的に大きなものとしては新港社、蕭壟社、麻豆社、目加溜湾社などが挙げられる。17世紀にオランダ東インド会社と共にやって来た宣教師のGeorge Candidiusはオランダ人の拠点ゼーランディア城(現在の台南市内)からほぼ一日で行ける範囲にこれらの集落が点在しており、彼らの風習、宗教、言語などは共通していたことを記している。

  17世紀、日本では中国の生糸や絹への需要があった一方、明朝の海禁政策のため直接取引ができなかったため、日中の貿易商人たちは現在の台南で落ち合って密貿易を行っていた。そうした東アジア交易網への参入を図ったオランダ東インド会社は台南に拠点を築き、税金を取り立て始める。こうしたオランダの動きに対抗するため、長崎代官・末次平蔵の配下・濱田弥兵衛は1627年、シラヤ族新港社の住民16名を江戸へ連れていって将軍に拝謁させた。オランダとしても対日貿易の利権を失うわけにはいかない。そこでヌイツ自身も江戸へと向かったが、門前払いを食ってしまう。翌1628年、濱田弥兵衛の船に乗って新港社の原住民も台湾へ戻って来たが、腹の虫がおさまらないヌイツ総督の命令で彼らは逮捕されてしまう。ヌイツの妨害に業を煮やした濱田弥兵衛は面会を申し込み、その場で匕首を突き付けて総督本人を人質に取り、優位な条件で交渉するという荒業に出た。その結果、新港社の原住民たちも釈放された。しかし、濱田たち日本人が帰国するとオランダ側は報復のためシラヤ族の村々へ兵を差し向ける。

  1629年6月には、漢人海賊の捜索という名目で麻豆社へもオランダ兵62名がやって来た。オランダ側の態度に不信感を抱いていた麻豆社の人々は、歓待の素振りを見せて彼らが曽文渓を渡る手助けをしながらも、渡河の途中で彼らを川の中に投げ込んで大半を溺死させた。麻豆社事件と言われる。オランダ側は台南平野の平定に手こずっており、ただちに麻豆社へ反撃する余裕はなかった。ただし、麻豆社への報復は決して忘れておらず、1635年の末から翌36年にかけてオランダ軍はシラヤ族の他の部族である新港社、蕭壟社、目加溜湾社を引き連れて麻豆社を攻撃、征服された麻豆社は力を失って没落していく。

  麻豆という地名は現在でも台南市麻豆區として残っている。ただし、現在の麻豆の中心街とシラヤ族が住んでいた当時の麻豆とでは位置が若干ずれている。

  台南駅から区間車に乗って30分ほどで到着する隆田駅。ここで下車して、もし烏山頭水庫へ行きたいならば東へ向かわねばならないが、麻豆は逆方向の西である。台南市バスの真理大学行き(橘10線)に乗る。途中、「陳水扁無罪」という垂れ幕を見かけた。彼の生家はこの近辺らしい。隆田駅から10分ほどで台湾首府大学に着いた。キャンパスのすぐ隣に蔴荳古港文化園區が広がっている。

2 麻豆公園入口

  かつてはこのあたりまで内海が喰いこんでいた。倒風内海という。14~15世紀にはすでに漢人がこの地へやって来てシラヤ族と交易を行っていた。シラヤ族は鹿皮や鹿肉を交易品としていた。17世紀前半の時点でシラヤ族の麻豆社は3000人以上を抱える大集落であったという。だが、もともと交易相手として来ていた漢人の他、オランダが農耕等の目的で連れてきた漢人の定住も始まり、シラヤ族、漢人、オランダ人の関係は微妙なものになっていく。

  シラヤ族は多くの神々を信じ、Inibsという女性祭祀がそうした神々を祀る儀式を行っていたが、とりわけ重要なのが南方に住む美しい神Tamagisanhach、北方に住む醜い神Sariafinghという二柱の主神であったという。オランダの台湾総督は原住民族に対してキリスト教へ改宗させようと圧力をかけ続けており、1636年12月、牧師でもあるJoan Jeriaensz中尉が派遣され、民間信仰の偶像を廃棄させたという記録がある。ただし、彼らは表面的には受け入れつつも、伝統的な信仰は連綿と守り続けたらしい。シラヤ族の信仰では水の入った壺を祀るところに特徴があるが、そうした祭祀形態は漢化した中でも秘かに続いており、日本統治時代に調査した國分直一の『壺を祀る村』という著作にもその様子が見える。

  当時の港の痕跡が発掘され、水堀頭遺跡という。碼頭(埠頭)はサトウキビ、糯米、牡蠣灰砂を混ぜて突き固めた三合土で築かれているという。清代には漢化が進み、生活用品の大半は対岸から輸入したもので、当時の遺物が多数見つかっている。清代半ばまで重要な交易港の一つとして機能しており、近くに麻豆の街並みが発展した。しかし、曽文渓の氾濫などで倒風内海には土砂が積もり、ここも港として機能しなくなったため放棄され、麻豆の中心街も現在の場所へと移っていった。放棄された後は生活ゴミや建築廃材などがここに廃棄されており、沼地となっていた頃に落ち込んだ馬の遺骸なども見つかっている。

11 水堀頭遺跡3


10 水堀頭遺跡2


  水堀頭遺跡を中心に公園として整備されたのが蔴荳古港文化園區であり、公園内の倒風内海故事館では発掘された遺物や歴史解説展示を見ることができる。なお、水堀頭遺跡のある鳳池には、1950年代に王爺のお告げを受けたという地元の人々が掘り返して清泉が出てきたというエピソードもある。

21 倒風内海故事館

  蔴荳古港文化園區から南瀛総爺藝文中心へと向かう。歩いて10分ほどであろうか。意外と近い。途中で「清代南北官道」という表示を見かけた。かつて麻豆の中心街がまだこの辺りにあったころ、台湾府(台南)と諸羅(嘉義)とを結ぶ街道がまさにここを通っていた。つまり、麻豆はそれだけ重要な交易拠点だったと言える。(続く)

35 道路上で