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台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

  ここしばらく、日本の台湾領有当初の時点で来台した日本の漢詩人(アマチュアを含む)について網羅的に調べている。博論準備の一環としての作業なのだが、本来的な関心は、日本の台湾領有時点で来台した日本人と台湾現地漢人とがどのような形でコミュニケーションを図り、人的関係を構築したのか、という点にあった。


  当初は、台南新報社(前身の台南活版舎は1896年に九州日日新聞社の支社として設立、1899年に『台澎日報』を刊行、1900年に『台南新報』を刊行。台南活版舎は1903年に株式会社台南新報社となる)において同僚であった日本人と漢人との関係を考えようとしていたのだが、同社日本人幹部4人の来歴を調べるとアジア主義的な傾向が見られ、なおかつ4人すべてが通訳出身者であることが目を引いた。そこで、1895~1897年の期間に来台した日本人の中国語(≒官話)通訳、のべ230人前後をリストアップして悉皆調査を行った(1897年で区切ったのは、その前後から日本人の台湾語通訳が現れ始めており、「通訳」の肩書で官話と台湾語の使い手が混在しているから)。資料不足から経歴の分からない人も多いのだが、少なくとも150人以上は何らかの形で経歴が判明し、その中でも荒尾精の関係者(漢口楽善堂、上海日清貿易研究所等)が多数を占めることが分かった。


  来台した通訳については多くの先行研究がある。例えば、許雪姫「日治時期台湾的通訳」(『輔仁歴史学報』第18期、2006年12月、1-44頁)、冨田哲「日本統治初期の台湾総督府翻訳官──その創設およびかれらの経歴と言語能力」(『淡江日本論叢』第21期、2010年、151-174頁)、冨田哲「日本統治期台湾をとりまく情勢の変化と台湾総督府翻訳官」(『日本台湾学会報』第14号、2012年6月、145-168頁)、楊承淑編著『日本統治期台湾における訳者及び「翻訳」活動──植民地統治と言語文化の錯綜関係』(国立台湾大学出版中心、2015年)、岡本真希子「日清戦争期における清国語通訳官──陸軍における人材確保をめぐる政治過程」(『国際関係学研究』[津田塾大学]第45号、2018年、27-39頁)、岡本真希子「植民地統治初期台湾における法院通訳の人事──制度設計・任用状況・流動性」(『社会科学』[同志社大学人文科学研究所]第48巻第4号、2019年2月、79-106頁)、岡本真希子「植民地統治前半期台湾における法院通訳の使用言語──北京官話への依存から脱却へ」(『社会科学』[同志社大学人文科学研究所]第49巻第4号、2020年2月、225-254頁)、岡本真希子「越境する唐通事の後裔・鉅鹿家の軌跡──対外戦争と植民地統治のなかの通訳」(『青山史学』第38号、2020年3月、73-85頁)などが挙げられ、冨田哲「台湾の通訳者、通訳をめぐる近年の研究動向」(『世界の日本研究』2017年号、322-334頁)がこれまでの研究成果を整理している。


  私自身の作業手順としては、まず台湾総督府職員録系統で見当をつけ、次に台湾総督府公文類纂で履歴書を漁った。通訳経験者の名前がだいたいリストアップできたら、人名録や公刊文献を手当たり次第に渉猟し(とりわけ『東亜先覚志士紀伝』や『対支回顧録(正続)』から多くの関連情報が得られた)、併せて国会図書館デジタルライブラリーやアジア歴史資料センターのサイトでも検索をかけた。思い当たる文献を手当たり次第に見ながら、とにかく網羅的に調べてリストを完成させ(それでも遺漏はあるはずだが)、そこからおおまかな傾向を掴むことに注力している(以前にこちらこちらのエントリーに書いた)。


  彼ら日本人通訳は北京官話は話せても、台湾語は分からない。当時の台湾で北京官話の分かる台湾在住漢人は一部の知識人に限られていた。結果的に、日本人通訳が台湾現地漢人とコミュニケーションを図るには、北京官話を解する台湾現地知識人を通した二重通訳か、もしくは筆談となる。筆談が主となるならば、伝統的な漢学の素養を身に付けた他の日本人と条件はそれほど変わらない。そこで、「筆談も含めて何らかの形で言語的コミュニケーションの可能であった来台日本人」へと調査対象を広げ、具体的には漢学の素養を備えた来台日本人についても調査をすることにした。実のところ、通訳と漢学の素養を持つ日本人の一部は重なっており、ある種のグラデーションをなしている。例えば、草場謹三郎は漢学者(佐賀の漢学者一族に生まれ、祖父・草場佩川、父・草場舟山と合わせて草場三代と呼ばれる)であると同時に通訳(東京外国語学校出身、陸軍派遣留学生として北京滞在)でもあった。


  ただし、一言で「漢学の素養」と言っても程度は様々である。一定の教育を受けていれば少なくとも漢字は知っているわけだから、際限がない。そこで、アマチュアも含めて漢詩文を作れる人に限定する。具体的には、新聞紙上や唱和集等で詩文を発表している来台日本人について網羅的に調査を進めているのが現段階である。


  日本統治時代台湾における漢詩文の位置づけについて日本語の論考としては、例えば、陳培豊『日本統治と植民地漢文──台湾における漢文の境界と想像』(三元社、2012年)、許時嘉『明治日本の文明言説とその変容』(日本経済評論社、2014年)などがあり、視点の取り方について私にとって益する所が大きい。私自身の関心は個々の具体的な人物的背景であり、そうした面では森岡ゆかり『近代漢詩のアジアとの邂逅──鈴木虎雄と久保天随を軸として』(勉誠出版、2008年)がある。ただし、鈴木虎雄の来台は1903年、久保天随は台北帝国大学設立時だから1928年であり、私が関心を持っている1895年以降の数年間という時期からは少々ずれてしまう。


  実のところ、来台した日本人漢詩人に関して、日本での研究は少ない。むしろ台湾で多くの先行研究が重ねられている(一部はこちらのエントリーで紹介した)。台湾での研究上の焦点はおおまかに三つに分けられる。第一に、上掲の陳培豊や許時嘉の研究と同様に植民統治・帝国支配における漢文の位置づけをめぐる議論。第二に、漢文学・古典文学史の脈絡における個々の作家論・作品論で、これは台湾の大学の中国文学科の学位論文に多い。第三に、詩文交流に着目した研究である。量的に言うと、第二の文学史関連の論考が一番多いのだが、当然ながら、鑑賞するに足る作品を発表した漢詩人に研究対象は限定される。私自身の関心は来台日本人の漢詩人について網羅的に背景を調べたいというところにあり、文学的には拙い漢詩作者であっても考察対象に含める必要がある。こうした面では、とりわけ楊永彬「日本領臺初期日臺官紳詩文唱和」(若林正丈、吳密察編『臺灣重層近代化論文集』臺北:播種者出版社、2000 年 6 月)と黃美娥『日治時期臺北地區文學作品目錄(下)』(臺北:臺北市文獻委員會、2003年)が基礎的な研究として非常に役立った。これらを参照しながら、まず来台した日本人漢詩人(アマチュアを含む)のリストを作成し、それぞれの背景について調査を進めている。


  通訳や漢学の素養を備えた人々の両方を合わせ、「筆談も含めて何らかの形で言語的コミュニケーションの可能であった来台日本人」としていったん大きく一括りした上で、中国滞在経験の有無に応じて次の三類型に分けることができる。


  第一に、来台以前に中国滞在経験があった日本人。漢口楽善堂グループ(白井新太郎、井深彦三郎など)、上海に設立された日清貿易研究所の卒業生もしくは教職員(宗方小太郎、御幡雅文、草場謹三郎など)、その他上海の日本人グループ(奥村金太郎、荒賀直順など)といった荒尾精の関係者が目立って多い。また、紫溟学会(熊本国権党)が設立した学校(同心学舎→濟々黌→九州学院)には中国語教育課程も設けられており、かつ同会のリーダー・佐々友房は荒尾と盟友関係にあったことから、紫溟学会関係者も台湾へ多数来ていた(例えば、宗方、奥村の他、通訳ではないが台南民政支部長・総督府内務部長を歴任した古荘嘉門など)。彼らの多くは日清戦争で通訳として従軍し、そのまま台湾総督府へ流れ込んだ。


  長崎通事の家系(穎川甲子郎、鉅鹿赫太郎、呉泰壽、彭城邦貞、吉島俊明など)も来台したし、『臺灣新報』主筆となった田川大吉郎(長崎外国語学校で学んだ)も通訳経験者である。東京外国語学校出身者も一つのグループをなしており、例えば川島浪速も来台していたが、外語出身者の中でもとりわけ陸軍派遣北京留学生は有力な人材とされていた(例えば、草場、御幡、谷信敬など。二松学舎出身の冨地近思も外語出身ではないが北京派遣留学生に加えられた)。漢詩人の日下峰蓮(朝鮮半島・中国を放浪、閔妃殺害事件に関わって逃亡後に来台→こちらのエントリーを参照)、官吏として来台した金子彌平のような大陸浪人もいる。あるいは、水野遵のように台湾出兵当時から中国・台湾を行き来した官員も挙げるべきだろう。様々な来歴の人々が挙げられるが、全体的に見てやはり荒尾系、紫溟学会系、大陸浪人といったアジア主義的傾向のタイプが目立つ。いずれにせよ、中国滞在体験を持つ人々は、来台前から漢族社会について自らの体験に基づいて一定の見解を持っていた点に特徴がある。


  第二に、来台前に中国滞在体験はないが、来台後に中国へ渡った日本人。例えば、宮崎来城(戊戌変法期に招聘されたというが詳細は不明→こちらのエントリーを参照)、籾山衣洲(天津の『北洋新報』主筆、保定陸軍学堂教習)、佐倉達山(福州警察学堂教習→こちらのエントリーを参照)、市村蔵雪(大連の新聞社?)、柳原(黒江)松塢(奉天で『南満日報』創刊)、廣瀬濠田(廣瀬淡窓の一族、後に上海商務印書館で翻訳を行ったらしいが、詳細は不明→こちらのエントリーを参照)などの漢学者。それから、師範学校の出身で国語学校もしくは国語伝習所に来て、その後、厦門や福州の台湾総督府系学校に赴任した教員も挙げられる。他に、中国に生活拠点を置いたわけではないが、内藤湖南、木下大東(→こちらのエントリーを参照)、桜井児山なども中国視察旅行へ行った。


  彼らにとっては台湾が中国へ渡る前のワンステップとなっていた。彼らはもともと漢詩文を通して漢人知識人と交流できた人材だが、彼らにとっては台湾が最初の「中国」(=清国)体験地であり、来台前から古典籍を通じて抱いていた「中国」イメージと対比する形で台湾の漢族系社会を眺めたであろう。彼らの中国志向における台湾の位置づけについては二つの解釈ができる。まず、古典籍を通して中国に憧れを持ち、実際に渡航したいと希望していた個人的動機。それから、日本の帝国主義的膨張に合わせて渡航の機会が実現した。後藤新平(棲霞の号を持つ)の場合は、後者の理由を主としてこの第二の類型に入れることができる。


  第三に、来台前後とも中国滞在体験がない日本人。漢学の素養を持つ台湾総督府官員の多くがこのタイプである。上記の第一、第二の類型が何らかの形で中国問題にコミットしようとしたのに対し、第三の類型にはそうした態度が比較的に薄い。彼らは日本で身に付けた伝統的な漢学をもとに台湾現地漢人と詩文交流をしたが、第一の類型が現実の「中国」像を前提としたのに対し、第二・第三の類型は古典籍の中の「中国」像を理念として持っていた点に相違が認められるだろう。第三の類型の具体例としては、土居香國(台湾総督府初代通信部長→こちらのエントリーを参照)や阪部春燈(文官第一陣として来台、後に『臺灣新報』及び『臺灣日日新報』漢文主筆→こちらのエントリーを参照)が挙げられる。他にも、新聞記者として来台した尾崎秀眞(白水、古邨)もこの第三の類型に属する(なお、尾崎は必ずしも漢文が得意というわけではなかったらしい)。


  ところで、台湾側の研究では、「西洋化が進む日本で居場所を失った漢詩人が台湾で活躍の場を見出した」という捉え方が見受けられる。確かにそういう解釈が妥当するケースもあるにせよ、この捉え方を一般化したら間違いである。


  例えば、土居香國は漢詩人として名が通り、漢詩文指南書も出したほどだが、他方で英学も身に付けて英語文献の翻訳も刊行していた。土居は本来、自由党系の活動家として出発しており、女子教育の重要性を主張する当時としては開明派の官僚であった。漢詩文が得意であったことは、決して旧来伝統型知識人とイコールで結ばれるわけではない。むしろ、近代日本は漢語を媒介として西洋文明の翻訳・受容を進めたことを考え合わせるなら、漢詩文の得意な明治期の官僚は、同時に西洋の知識を水準以上に身に付けていた可能性が高い。土居は李春生とも交流があり、これは漢文脈/西洋文明の二つの次元で話が合ったと解されるだろう。


  阪部春燈が司法省法学校の出身であったことも注目される。明治初期において法律用語は大明律をもとに構成されていたので、司法省法学校の入学試験は漢文であった。司法省法学校は官費の学校で、立身出世を目指す若者が集まったから、言い換えると全国でもトップクラスの漢学の素養を備えた若者が入学したわけである。後に漢詩人として名を馳せる國分青崖はこの時の阪部の同期生である(ただし、賄征伐事件で國分、原敬、陸羯南、福本日南らは退学)。他方で、司法省法学校はフランス人教員が教鞭をとったので、八年間の修業年限においてはずっとフランス語で授業が行われた。阪部はちゃんと卒業したので、当然ながらフランス語も達者だったはずである。同様に1895年に台湾総督府参事官として来台した中村純九郎(後に淡水・安平税関長)も司法省法学校で阪部の同期生であり、中村もやはり漢文・フランス語(ひょっとしたら英語も)に習熟していたはずである。


  漢学と法律の関係で言うと、土居香國は河津祐之と共に法律講義の本を出している。上述した漢学者の廣瀬濠田は慶應義塾で英学を学び、その後、法律を学んで司法省勤務の経験がある。郵便通信書記として来台した牟田火洲には海上保険法の翻訳書がある。いずれにせよ、漢学の素養を持つ来台日本人官吏の背景を考えるとき、西洋語─漢文─法律の関連性は無視できない。彼らは漢語知識を媒介として西洋文明を受容した近代的テクノクラートなのであって、漢詩文が得意=旧世代型知識人というステレオタイプで捉えるわけにはいかない。こうした側面を理解するには日本近代史の知識が必要であり、中国古典文学史研究の脈絡では見えてこない。


  要するに、「筆談も含めて何らかの形で言語的コミュニケーションの可能であった来台日本人」として通訳や漢学素養者(官吏や新聞記者も含む)について網羅的に調べ上げて、おおまかな傾向を把握する。そこから、中国志向(広義のアジア主義)を中心に考察を行い、そこにおける台湾在住漢人との関係のあり方、余力があれば台湾知識人との認識の異同まで議論を進めたいというのが基本的な方向性。ただし、史料が不十分な時代でもあるので、どうしても検討対象に欠落が出てきてしまうのはやむを得ない。そこで、通訳及び漢学素養者のリストを作成して、まず概論的に日本─台湾─中国における人の流れを整理する(実のところ、人流からおおまかな傾向を把握しようというのは、史料の欠落を補うための方便でもある)。次に、具体的な言動が確認できる人物を取り上げて各論的に言説分析を進める(日本人だけでなく、できれば台湾在住漢人も取り上げて比較対照)、というのが今後の作業になる。作業を進めながら、さらに調整することになるかもしれないが。
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  土居通豫(みちまさ、1850~1921)はもともと自由党系の開明派官僚であった。1895年に来台し、台湾総督府の初代通信部長となる。他方で、彼は漢詩人としても知られており、1897年に退任して帰国したため在台期間は2年あまりに過ぎなかったにせよ、その間に新聞紙上や詩文唱和の機会に多くの作品を披露した。香國の号を持ち、他に子順、梅客、鳥巣山人、酔夢居士、拈詩軒主、梅枝吟館主、南海堂主人などとも名乗る。


【1 出生、高知時代】
  土居通豫は嘉永3年(1850)、高知県高岡郡佐川町の生まれ。父・土居通萬は高知藩士で、本姓は越智氏、祖先をたどれば伊予の河野氏である。幼少時から諸子百家を修めて漢詩を読み、武芸にも励んだ。奥宮慥斎のもとで陽明学も学んだ。藩校致道館に入り、同学の中では「結城贅、山本憲、阪崎斌、松村常蛇、村山木郎、細川瀏、北川柳造、織田純一郎、桑原深造等。最も親善なりしと云ふ」(渡邊眞英編輯『国会準備 秋田県管内名士列伝』渡邊眞英、明治23年、10頁)。このうち、阪崎斌とはすなわち自由民権運動家・ジャーナリストの坂崎紫瀾である。また、細川瀏は日本の台湾領有直後に来たキリスト教伝道者として知られている。細川の来台時期は土居と重なっており、二人は台北で出会っているはずである。


  土居は洋学の必要を感じて東京へ遊学し、英語を学んだ。ところが、母を亡くし、悲しみから体調を崩してしまった。心配した祖母の意向もあって、やむを得ず帰郷する。その後、地元で学校を興し、地域の村長にも推挙された。


【2 上京、官吏時代】
  明治8年(1875)、大阪会議に参加した板垣退助は同志に呼び掛けて愛国社を設立した。このとき、土居は古澤滋(民撰議院設立建白書の起草者)から招かれ、父や祖母を説き伏せて大阪に出る。すでに会議は終わっていたので、彼はそのまま東京へ行って古澤の家に寄寓し、英語を学びながら政治・法律の書籍に読み耽ったという。


  明治9年(1876)、元老院権中書記生に任ぜられ、元老院幹事の陸奥宗光に可愛がられたらしい。その間、フルベッキ、沼間守一、河津祐之に法律を学んだ。渡辺国武が高知県へ赴任するのに同行し、庶務・駅逓などの職務を担当する。明治10年(1877)、西南戦争が勃発すると、高知でもそれに呼応する動きが見られた。土居も植木枝盛、大江卓、吉田正春、坂本南海男、細川瀏らと共に政談演説会を開く。片岡健吉らが逮捕されたとき、土居にも嫌疑がかけられたが、冤罪であるとして免れた。同志の中には辞職を勧める者もいたらしいが、土居は仕事を続けた。その後、徳島支庁(当時は高知県の管轄下)庶務課長を経て、明治14年(1881)から北垣国道知事の下で京都府の庶務課長となる。高知在勤時代には『海南義烈傳』(高知:橋本玄黙、明治11年3月)、『開明─理窟』(柳影社、明治13年10月)、京都へ出てからは『開明席上演説集』(京都:中西嘉助、明治15年4月発行)を刊行。


【3 大阪で政治活動と教育事業】
  明治15年(1885)、中島信行、古澤滋らが大阪で「日本立憲政党新聞」を発刊すると土居も誘われた。そこで北垣知事に事情を説明してから官を辞してジャーナリズムへ身を投じ、小室信介、田口謙吉、澤邊正修、永田一二、河津祐之らと共に政治活動を行う。また、河津と協力して著述・翻訳にも力を入れる。そうした成果であろうか、河津祐之講述、土居通豫編輯『民刑證據論講義』(岡島寶玉堂、明治16年)を刊行した。また、『通俗 人間世渡りの図』(大阪:柳原積玉圃、中島信行題字)も刊行したほか、『海南義烈傳 初篇・二篇・三篇』(京都:中西嘉助、明治15年2月)も再刊されている。


  方針の対立のため土居は立憲政党新聞社から退社して東京に戻る。小野湖山、向山黄村、石川鴻斎などの漢詩人と交流し、吟詠によって憂悶をはらそうとした。その後、再び大阪に戻って、陽明学や禅学を学ぶかたわら、キリスト教にも関心を示して新約聖書を読み込んだという。また、『女子教育概論』を刊行し、これがきっかけとなって大阪のキリスト教系学校・梅花女学校(澤山保羅の創立)で教鞭を執ることになった。キリスト者の宮川経輝らと『太平新報』(明治19年2月創刊、同年3月廃刊)を発刊したほか、アール・ダブリウ・チャルチ原著、宮川経輝・土居通豫譯『欧洲正気論』(米国聖教書類会社、1885年)、ラルネット述、宮川経輝訳、土居通豫編『経済新論』(任天書屋、1886年)も刊行しており、この頃はキリスト教徒との共同による仕事が目立つ。また、土居香國評選『獲我心詩』(青木恒三郎、1885年)、『文学会教科書』(大阪:吉束次武、1885年)、『文法指南 上下』(大阪:青木嵩山堂、1886年)も刊行。『文学会教科書』は通信教育用の教科書らしい。『文法指南』は「日本碩儒鴻斎石川英先生題辞、大学分校教諭正七位田村初太郎君序、梅枝吟館主香國土居通豫君編纂」となっており、英語・漢文・日本語を対照させた文法・作文指導書である。つまり、土居はそれだけ英語と漢文の両方に通暁していたことが分かる。


【4 再び官途に就く】
  明治20年(1887)、再び仕官して秋田県へ赴任し、河辺、南秋田、仙北の各郡長を務めて地方行政の経験を積んだ。この頃に書いた論考は晩年に『郡治瑣言』(東京:土居通彦、大正10年1月)として刊行された。なお、第一回帝国議会を目前として、土居は代議士になり得る人物の一人と目されていたようで、渡邊眞英編輯『国会準備 秋田県管内名士列伝』中に土居通豫の項目があり、「頃日人或は君を評して曰く。君は自治党なり。又曰く君は国粋保存党なりと。然れでも予輩の聞く所を以てすれば。嚮に後藤伯、東北漫遊の日は君親しく往て伯を訪ひ。加之ならず大同団結派の中江篤介、大石正巳、大江卓等の諸氏は。皆君が故舊たり」と記されている(15頁)。明治23年(1890)12月には逓信省参事官の辞令が出て、東京へ戻り、さらに名古屋郵便電信局長として赴任した。逓信省勤務時代には『急務』(名古屋市:秀文社、明治25年1月)と『人間』(東京:嵩山堂、明治25年3月)を刊行した。


【5 台湾時代:1895~1897年】
  1895年、日本が台湾を領有すると、土居は陸軍郵便部長として軍事郵便を担当することになり、9月3日に東京を出発、5日に神戸到着。9月6日に神戸から高島鞆之助らと共に横浜丸に乗船し、9月11日に基隆港に到達。同日中に列車で台北に到着した(土居香國「征臺航海日乗」『臺灣遞信協會雜誌』第18号、大正8年11月、22-23頁)。彼は台湾総督府民政局において初代の通信部長となる。台湾で草した漢詩文は『仙壽山房詩文鈔』(東京:濱田活三、大正5年7月)、『日乗七種:附・南省小稿』(東京:濱田活三、大正8年7月)、『征臺集』(東京:土居通豫、大正11年3月)などに採録されているようである。台湾時代の言動については、『臺灣新報』に通信部長演説の筆録が掲載されている。また、1895年12月に公務で東京へ赴いた際に講演を行い、その筆録が『臺灣嶋』(東京:青木嵩山堂明治29年(1896)4月)として刊行された。ただし、いずれも通信・郵便関係の専門的な話題が中心である。


  明治30年(1897)、総督府内部の疑獄事件が通信部も直撃し、逮捕者を出したほか、土居自身も家宅捜索を受ける。逮捕された中には大倉組の賀田金三郎もいた。土居の台湾在住時に娘が大倉喜八郎の息子・米吉と結婚しているので(「土居通豫氏の令嬢」『臺灣新報』明治30年5月11日、版次2)、その関係で疑われたのであろうか? いずれにせよ、責任を取る形で辞任する。当時の新聞では「財務部長山口宗義通信部長土居通豫の両氏も水野氏と其の進退を共にせんとする決心にや山口氏は一昨十六日に土居氏は昨十七日に何れも辞表を呈出せりと傳ふ右に付聞く所に拠れば両氏は先般来部下より陸続犯罪嫌疑者を出だし台湾総督府をして遂に汚名を被らしめたるは監督不行届の致す處にして苟も身重責を負ひながら誠に恐入りたる次第なりとて夙に決心する所ありたるが過般来日夜尽力し居たる重要事務も略ぼ整理に就きたるを以て此際を以て断然責を引て辞表を提出せられたるならん」と報じられている(「山口土居の兩部長」『臺灣新報』1897年7月18日、版次2)。あくまでも監督責任であって、彼自身は汚職に関わっていなかったからであろうか、同年8月3日付で正五位に昇叙されている。


  土居は8月に非職後も残務整理を続け、同年9月25日になってようやく帰国の途に就くが、その直前には相次いで送別会が開催された。同月22日の午後5時から淡水館で開かれた送別会には官民あわせて180名余りが出席、花火が打ち上げられるなど盛大な会合で、民政局長代理の杉村濬、民政局秘書官の木村匡らがあいさつに立った(「土居氏送別会の模様」『臺灣新報』明治30年9月25日、版次2)。また、翌23日には李春生宅で送別会が開かれた。「大稻埕李春生氏には此度東上の途に就かるべき前通信部長土居通豫氏及和蘭代理領事シャーベルト氏民政局嘱託バルトン氏の為に二十三日午後七時半氏の宅に於て送別の宴を開きあり宴に列するもの角田海軍少将米国代理領事デビツソン氏及オーリー氏等にして中京音楽隊の奏楽あり非常の盛観にして主客共に十二分の歓を尽し散会せしは夜九時頃なりき」(「李春生氏宅に於ける送別会」『臺灣新報』明治30年9月25日、版次2)。李春生邸ではシャーベルト、バルトンも合わせた三人のための送別会であったが、出席者は主に西洋人であったようで、ここでの交流言語は英語だったと考えられる。李春生は当時の台湾キリスト教界の中心人物である。土居は前述したようにキリスト教に関心を示していた時期があり、また細川瀏は李春生と共通の知人である。こうした関係で李と土居との間にも交流があったものと考えられる。なお、通信部の部下である秋山啓之もキリスト教徒であった。


【6 日本へ帰国後】
  明治31年(1899)11月1日付で土居は通信事務官・高等官五等、東京郵便電信局長(二級俸給)(『官報』第4605号、明治31年11月4日、41、43頁)として逓信省に戻った。『征露集』という詩集を刊行しているので、日露戦争に際してもやはり従軍したようである。その後、官を辞職した後は実業界に身を投じて漁業会社や炭鉱会社の創立に尽力した。明治41年(1908)以降はあらゆる仕事から退き、随鷗吟社を主宰して雑誌『随鷗集』の刊行によって漢詩の興隆に努めたという。なお、随鷗吟社は森槐南たちが集まり、大久保湘南が主幹となって発足し、湘南の死後は土居香國が主幹を引き継いだ。


【7 土居の文章観】

・「作文の為めに読む書籍の事」:「総て章句の工合より文勢の調子は古人の文を熟読暗記するより得るものなり故に其読む所は常に漢魏唐宋等諸名家の文を選み成る可く我邦人の文を読まざるを可となす何となれば則ち我邦人の文は諸名家と雖ども尚ほ格に入らざる者ありて之れを習養するの恐れあればなり余頃日清人某と交り親しむ時に就て文法を問ふ某常に曰ふ惜哉日本の学者は師なし故に其学問総て規矩に入らずと偶ま余が家に到り書室に日本諸名家の文章あれば懇ろに曰く吾兄眞に文を学なんと欲せば力めて日本人の文を読むことを廃し朝夕漢魏唐宋等諸名家の文を読む可しと此のヿ彼れ敢て我邦人を賤め自負するの心より出でたるにはあらざるが如し」(『文法指南 上下』(大阪:青木嵩山堂、1886年、2-3頁)


  ここで言う文章とは漢文である。この『文法指南』はどうやら梅花女学校で教鞭をとっていたときに自ら編纂した教科書を公刊したものらしい。日本語、漢文、英語を対照させた構成で、J・S・ミル『功利主義論Utilitarianism』の英語原文を漢訳させる練習問題もある。日本人の漢文は乱れているから、極力、中国の古人の文章を読むよう勧めている。「清人某」とは誰を指すのか分からないが、おそらく東京遊学中に清国公使館員に教えを乞うたのであろう。


【8 土居の政治思想】
  土居通豫は1880年代半ばに大阪で中島信行、古澤滋、河津祐之らと活動しており、自由党系のアクティブな民権運動家であった。教員・言論活動を経て1887年に官吏となったが、それ以降に刊行した『急務』、『人間』(いずれも1892年)といった著作を見ても、その主張は以前の政治思想から基本的に変わっておらず、自らの抱懐する抱負を官吏生活の中で実現しようとしていたのであろう。彼の主張の特徴は、国会を通した公議與論の実現、天皇と国民との調和による国家の維持、それから女子教育の重要性といったあたりに見られる。


・「政府なるものは決して他にあらず只々人々が正当なる情慾を発達して平素の企望を満足せしむるの方法器械に過ぎざる而已故に彼の法律規則と云ふは取りも直さず公けの約束証文にして之れを布告布達と名称するなり」(『通俗 人間世渡りの図』大阪:柳原積玉圃、1882年、28頁)

・「…其政府と人民と双方承知なりと明言して取り極むるは即ち国会の必用なる所以にして」(同上、30頁)


  土居は社会組織=国家のあり方を、人間の生存のため、「正当なる情慾を発達して平素の企望を満足せしむる」ための便宜とみなしており、社会契約説的な発想が彼の政治思想の基本にあることが分かる。そして、人間は生存するからには必ずその職分があり、道理がある。では、道理とは一体何に由来するのか? そこをたゆまず考え続けて、「万物の理と人間の心と、全く一致して始めて此生存が「道」なりとのこと判然たるに至るなり」(『人間』東京:嵩山堂、1892年、18頁)。道を探求して、自身の心と万物の理とを一致させるというのは陽明学的な発想である。他方で、考え続けること自体に人生の意義があるとする箇所でデカルトを引用しているのが面白い。いずれにせよ、一人ひとりには道理に基づいた自らの職分がある。「権利とは辞を替へて云へば人々持ち前への本分と云ふも可なり其本分を守て人に依頼をもなさず又た迷惑をも掛けざるが即ち独立なり」(『通俗 人間世渡りの図』、25頁)。それを十全に発揮させることを「自由」とするならば、土居は個人の「自由」を保障するための機構として国家を捉えている。彼は国家論を展開する前提として人間観の探求を行うが、それにあたって陽明学と西洋思想とを織り交ぜながら議論を進めているのが特徴である。


  国民の間の公議與論を国政に反映させるのが政治の基本であり、そのためにこそ国会開設が求められた。


・「夫れ一人一個の智能は集合して国家全体の智能となり、其智能の主管者たる脳力の発表する所、乃ち之を眞成の與論と云ふ、此與論のある所は取りも直さず政府の精神乃ち国家の脳髄にして、與論を外にして政府の精神たるものは復たあらず」(『人間』、24頁)

・「公議與論を発表せんと欲せば、乃ち選挙の良法を布き其国家全体より若干人の代議士を選挙し、以て之を抽き取りたる所の論議を処理するに於て、紛乱錯雑の憂ひも亦た自らなき能はざるなり、故に之れが中心力となり、支持動かさざるの根軸なかるべからず、是れ上に帝王あり、下に人民ある所以にして、帝王は上極にあり、人民は下極にあり、而して人民の代議士と帝王の有司と、其中間に立ち、遠心力となり、政を議決施行し、且つ新陳交代して恒に活動運転し、政治をして固滞腐敗の弊なからしめ、以て国家の安寧を永遠に維持すべきものにして、恰も地球の南極北極の根軸により、日夜運転して墜落せざるが如し、是を以て其政治の根軸となるべき上極帝王は神聖犯すべからず下極人民は誠心渝らざる者たらざるべからず、若しそれ活発なる国家全体の脳力より発動する所の公議與論を維持する根軸となるべき上極下極にして少しくも動揺するとあらば、国家何を以て安泰なることを得んや」(『人間』、28-29頁)


  国会は一般與論を国政に反映させる場所である。政治が腐敗したなら、選挙で代議士を交代させる必要がある。ただし、議論を活発にすると同時に、国家を分裂させないためには、上極=天皇の至高性とそれへの下極=人民の忠誠心を軸とする必要があるという考え方を示している。言い換えると、天皇への忠誠という大枠を設定し、その内部において自由な議論を尽くさせようとしている。


  彼の議論の前提としては、まず独立した個人の活動を最大限に保障する点にあり、その上で個人間の調和を求めるという発想を示している。それは、国家の一体性という点で天皇への忠誠が強調されるが、他方で、個人間の関係では「交際」による「結合力」が強調される。つまり、独立した個人→交際→結合という構図である。そして、国家間関係においても独立した国家→交際というロジックが用いられる。個人の独立と国家の独立とを合わせて検討する論法は、福沢諭吉の「一身独立して一国独立す」という命題も想起させる。


・「抑も分業とは一人にして数業を営まざるの謂にして其一人の力に能はざる事業を営まんとするには数人の結合力を要せざるべからず」(『通俗 人間世渡りの図』、26頁)

・「人間の結合力を確固ならしめざれば小にしては一家を維持すべからず大にしては邦国を維持すべからず又た竟に人間社会を維持すべからざるなり然り而て彼の結合力なるものは交際の親密なるより生ずるものにして交際の親密なるは独立の気象盛なるに原因するなり故を以て人にして独立の気象盛ならざれば人と人との交際を保つ能はず国にして独立の気象盛ならざれば国と国との交際を全ふするヿ能はざるなり」(『通俗 人間世渡りの図』、27頁)


  独立した個人の活発な活動を通して公議與論が形成される。それが国会を通して国政に反映され、国家の脳髄となる。従って、国家の進歩は、国民の智能レベルに関わってくる。国家の開明進歩と国民教育とを結びつけて論じるのは、やはり明治啓蒙思想との共通性が見いだせる。


・「夫れ国家をして開明進捗の域に達せしめ以て余々人民を安全幸福を得せしむるは抑々何事に因るか必ずや智識の発達を期せざるべからず而して智識の発達は将た何事に因るか遂に之れを教育の一点に帰せざるべからざる也」(『開明席上演説集』「高知教育会開会式の祝詞を送るなり」、50頁)


  1880年代半ば、土居は大阪で教育活動に従事した。第一に、通信教育事業に関わり、『文学会教科書』(1885年)はその教材である。これは労働者を対象にした教育事業であった。第二に、キリスト教系の梅花女学校で教鞭をとった。彼は女子教育の必要性を一貫して主張しており、『女子教育概論』(駸々堂、1887年)を刊行したほか、官吏になった後に刊行した『急務』(名古屋:秀文社、1892年)の「急務」とはすなわち女子教育である。いずれにせよ、国民全般の教育普及という理念を持ち、教育の機会に恵まれない人々に働きかけようとしていたことが分かる。


・「夫婦ありて一家を組織し一家ありて一国を組織す故に汎く言を更へて云へば男女は社会の連鎖なり而して男子は男子の職務あり女子は女子の職務あり男女の力相持して始めて国家を維持することを得べし」(『急務』、14頁)。「今日の有様に於ては男女共に其釣合を失せり女子の大数は智もなく学もなく只洗濯や飯炊きや針仕事の業に従事する位に止まるを以て男子は自ら之れを軽蔑するの風あり故に其交際上に於ても眞成に人間交際の価値を有せず若し夫れ女子にして相当の智能を有するに於ては男子も亦た相当の待遇をなすや必せり」(同上、15頁)。

・「今日女子の仕事は無しと云ふも実は無しにあらず之れを為さしめざるなり否男子が之を占領して女子に与ざるなり故に男子は勉めて女子の手にてなし得る職業は之れを女子に引渡すの方針を取り女子の独立し得る様に推し立てざるべからざるなり」(同上、19頁)


  土居の議論では「女性らしさ」を損なわないようにという配慮があって、男女は同権であっても、それが必ずしも同性質というわけではないという認識が前提となっている。他方で、上記の引用から分かるように、男性、女性それぞれが自らの本分を尽くす中で、双方は対等であるという考え方が基本であり、女性は男性から見下されないように智能を向上させねばならない、だから教育が必要である、とする。また、女性にできる仕事はない、という見解に対しては、女性もできる仕事を男性が奪っているのだから、女性にも仕事をさせて、彼女たちの独立を図るようにすべきと主張している。


  土居通豫は、一言でいえば自由党系の開明派官僚であった。とりわけ女子教育の必要性を早くから提唱していた点は、当時としてはかなり進歩的であったと言えよう。彼は英語も学んで西洋の学問を積極的に吸収し、自由党系の活動家から官吏へ転身して以後も、そうして学び得た成果を実地に活用しようとしていた。他方で、彼は漢詩人としても文名が高かった。台湾における詩文交流について検討される際、台湾側の研究では、来台した日本の漢詩人について、「西洋化政策が進められる日本では没落したが、台湾で活路を見出した」と評されることがある。ところが、土居通豫の事例からすると、そのような印象論は必ずしも当てはまらないことが分かる。明治期日本において、学術用語は基本的に漢文であり、西洋の文物の吸収は漢文力を媒介として日本語へ翻訳されていた。漢文の高い素養を有した官員は、西洋の学問もきちんと身に付けていた可能性が高い。他の漢文を駆使する来台官員にも土居のような人物が、すべてとは言わないが、一定数混じっていたであろう。そうした人々の存在を考慮するなら、日本の台湾領有当初における詩文交流についても捉え方が変わってくる。



【参考文献】
・渡邊眞英編輯『国会準備 秋田県管内名士列伝』渡邊眞英、1890年、11-15頁
・『日本現今人名辞典』日本現今人名辞典発行所、1900年、とノ14-15頁/復刻版、『明治人名辞典Ⅱ』上巻、日本図書センター、1988年
・古林亀治郎編『現代人名辞典』第二版、中央通信社、1912年、ト36-37頁/復刻版、『明治人名辞典』上巻、日本図書センター、1987年


【著作目録】
・『海南義烈傳 初篇』(高地:橋本玄黙、明治11年3月)→『海南義烈傳 初篇・二篇・三篇』(京都:中西嘉助、明治15年2月)
・『開明─理窟』(柳影社、明治13年10月)
・『開明席上演説集』(京都:中西嘉助、明治15年4月)
・『通俗 人間世渡りの図』(大阪:柳原積玉圃、中島信行題字、明治15年6月)
・河津祐之講述、土居通豫編輯『民刑證據論講義』(岡島寶玉堂、明治16年)
・土居香國評選『獲我心詩』(青木恒三郎、明治18年1月)
・『文学会教科書』(大阪:吉束次武、明治18年3月)
・アール・ダブリウ・チャルチ原著、宮川経輝・土居通豫譯『欧洲正気論』(米国聖教書類会社、明治18年6月)
・ラルネット述、宮川経輝訳、土居通豫編『経済新論』(任天書屋、明治19年)
・『文法指南 上下』(大阪:青木嵩山堂、明治19年4月)
・『女子教育概論』(大阪:駸々堂、明治20年2月)※明治16年刊行の再版?
・『急務』(名古屋市:秀文社、明治25年1月)
・『人間』(東京:嵩山堂、明治25年3月)
・『臺灣嶋』(東京:青木嵩山堂、明治29年4月)
・『初学作詩活法』(東京:博文館、明治38年8月)
・『初学作詩活法続篇』(東京:博文館、明治41年3月)
・『作文活法』(東京:博文館、明治41年4月)
・『仙壽山房詩文鈔』(東京:濱田活三、大正5年7月)
・『日乗七種:附・南省小稿』(東京:濱田活三、大正8年7月)
・『征露篇』(東京:濱田活三、大正9年)
・『郡治瑣言』(東京:土居通彦、大正10年1月)
・『征臺集』(東京:土居通豫、大正11年3月)
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  佐倉孫三(達山、1861~1941)は二回の在臺経験(1895~1898、1910~1913年)を持つ。1895年、来台第一陣の一人として来台し、主に警察関係の部門にいた。妻を若くしてなくし、1898年に日本へ帰国。その間の見聞は漢文で記して『臺灣新報』に連載し、後に『臺風雑記』(1903年)として刊行された。その後、1903~1909年にかけて福州へ武備学堂及び警察学堂教習として赴任し、その間にやはり漢文で『閩風雑記』(1904年)と『時務雑記』(1905年)を福州で刊行した。契約満了で日本へ戻ったが、1910年に再び来台、台湾総督府蕃務本署嘱託として1913年まで滞在した。その後は二松学舎教授を務めている。


  佐倉孫三の生涯及び関連情報に関しては、吉原丈司「佐倉孫三氏関係資料一斑(23訂稿)──日本統治下台湾警察史の一齣(2020年4月18日現在)」(https://home.hiroshima-u.ac.jp/tatyoshi/sakura001.pdf)で詳細にまとめられている(この論考は吉原達也氏のサイトにアップされているため、参考文献で筆者を吉原達也氏としている論文もあるが、実際には吉原丈司氏の手になる)。また、黃美娥〈帝國漢文的「南進」實踐與「南方」觀察:日人佐倉孫三的台、閩書寫〉(《臺灣文學研究學報》(24期,2017年4月)では年譜が整理され、最新の研究についても紹介されている。佐倉の生涯を知りたい場合には、こうした文献を参照されたい。なお、台湾総督府公文類纂には佐倉の履歴書があり、彼の経歴を正確に確認する上で参考になるだろう(「佐倉孫三蕃地事務ヲ囑託ス」(1910-03-31),〈明治四十三年臺灣總督府公文類纂永久保存進退(判)第四卷秘書〉,《臺灣總督府檔案.總督府公文類纂》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00001722037X002)。


  佐倉孫三は文久元年(1861)3月、二本松藩士の家に生まれた。兄の佐倉強哉は後に大審院検事となる。孫三は明治11年(1878)に二松学舎に入学して三島中洲に師事し、明治16年(1883)には二松学舎の塾頭・幹事となった。陸軍士官学校受験に失敗し、明治19年(1886)12月28日付で千葉県警部補となった。その後、警視庁牛込警察署警部、東京府属(知事官房勤務)を経て、明治28年(1895)5月11日に依願免職、翌日付で陸軍省雇員・大本営附となって台湾へ渡る。


  臺灣では総督府総督官房、民政局属を経て、明治30年(1897)12月に民政局警保課高等警察掛長、明治31年(1898)1月に鳳山縣警視・打狗警察署長(高等官八等五級俸)となった。同年6月20日付で臺南縣辨務署長(七級俸)となったが、同日付で非職となっている。佐倉が総督府へ提出した履歴書を見ても、臺南縣のどこの辨務署長なのか所属が明示されていないので、ひょっとしたら日本へ帰国するにあたって昇給の便宜が図られた人事だったのかもしれない。


  日本へ帰国後、明治32年(1899)3月に静岡県警部・警察部保安課長兼衛生課長、巡査教習所長、同年5月に山梨県属(6月4日付で山梨県北都留郡長)となる。明治36年(1903)8月に『臺風雑記』(東京:國光社)を出版したが、同月中に清国福建省武備学堂の教習として福州へ赴任する。さらに同省警察学堂総教習となり、明治42年(1909)5月に契約満期によって帰国した。明治43年(1910)に再び台湾へ渡って、4月26日付で台湾総督府蕃務本署嘱託となり、大正2年(1913)に日本へ帰国した。


  『臺風雑記』は後藤新平と三島中洲が序、橋本矯堂が跋を書いている他、細田剣堂や山田濟齋、それから匿名の『臺灣新報』台湾人記者が文中で評言を書いている。本書は漢文で書かれているが、『臺風雑記 百年前の台湾風俗』(三尾裕子監修・台湾の自然と文化研究会編訳、東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所、2009年)として日本語訳も刊行されている。また、佐倉は福州滞在中に『閩風雑記』と『時務新論』(いずれも福州:美華書局)を漢文で刊行している。なお、在臺当時の回想として、「十五年前の夢」(『臺灣日日新報』1910年6月17日付)、「三十七年前の夢」(安藤元節編『臺灣大観』日本合同通信社、1932年)を書いている。


  佐倉孫三に関しては主に次の四つの観点から研究が進められている。第一に、彼は漢文に精通しており、台湾へ来てからも漢詩文を発表していた。そのため、彼の漢詩人としての存在感が注目され、廖振富、張明權選注『在臺日人漢詩文集』(臺南:國立臺灣文學館,2013年)には「佐倉孫三集」として詩文や『臺風雑記』の一部が採録されているほか、「佐倉孫三生平及作品」として簡潔に紹介がなされている。


  第二に、佐倉が来台最初期に『臺風雑記』において当時の台湾の風俗文化を記録していたことが注目され、また『閩風雑記』も刊行しており、そうした文中には日本と比較した印象も記されていることから、林美容はとりわけ比較民俗学の観点から下記の論考を発表している。「殖民者對殖民地的風俗紀錄:佐倉孫三《臺風雜記》之探討」(『臺灣文獻』第55卷第3期、2004年9月)「宗主国の人間による植民地の風俗記録──佐倉孫三『台風雑記』の検討」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年)、「跨文化民俗書寫的角色變化:佐倉孫三《閩風雜記》與《臺風雜記》的比較」(『漢學研究』第28卷第4期、2010年12月)、「佐倉孫三與臺閩」(『臺灣文獻』別冊46号、2013年9月)。


  第三に、佐倉の文中には原住民に関する記述も見られ、第二回の台湾滞在時には理蕃政策にも関わっていたことから、原住民政策の脈絡においても検討されている。例えば、西村一之「蕃務本署調査課と「理蕃」:佐倉孫三を通して」(『日本女子大学紀要』[人間社会学部]第24号、2013年)、溫席昕『日治時期在臺日本警察的原住民書寫:以重要個案為分析對象』(台北:威秀資訊科技、2016年、とりわけ「第二章 領臺初期漢文人與理蕃警察:佐倉孫三、豬口安喜的多重身分實踐」)。


  第四に、これは第一の論点とも関わってくるが、漢文学史の観点から日本統治時代の日本人漢学者について研究を進めている黃美娥は、「帝國漢文的「南進」實踐與「南方」觀察:日人佐倉孫三的台、閩書寫」(『臺灣文學研究學報』第24期、2017年4月)において、佐倉が台湾と福建の両方へ渡航した点に注目し、「同文」としての「漢文」を駆使できた彼の越境的な立場を日本の「南進」との関わりの中で検討している。私自身の関心も、この黃美娥が示した第四の観点に近い。
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