ここしばらく、日本の台湾領有当初の時点で来台した日本の漢詩人(アマチュアを含む)について網羅的に調べている。博論準備の一環としての作業なのだが、本来的な関心は、日本の台湾領有時点で来台した日本人と台湾現地漢人とがどのような形でコミュニケーションを図り、人的関係を構築したのか、という点にあった。
当初は、台南新報社(前身の台南活版舎は1896年に九州日日新聞社の支社として設立、1899年に『台澎日報』を刊行、1900年に『台南新報』を刊行。台南活版舎は1903年に株式会社台南新報社となる)において同僚であった日本人と漢人との関係を考えようとしていたのだが、同社日本人幹部4人の来歴を調べるとアジア主義的な傾向が見られ、なおかつ4人すべてが通訳出身者であることが目を引いた。そこで、1895~1897年の期間に来台した日本人の中国語(≒官話)通訳、のべ230人前後をリストアップして悉皆調査を行った(1897年で区切ったのは、その前後から日本人の台湾語通訳が現れ始めており、「通訳」の肩書で官話と台湾語の使い手が混在しているから)。資料不足から経歴の分からない人も多いのだが、少なくとも150人以上は何らかの形で経歴が判明し、その中でも荒尾精の関係者(漢口楽善堂、上海日清貿易研究所等)が多数を占めることが分かった。
来台した通訳については多くの先行研究がある。例えば、許雪姫「日治時期台湾的通訳」(『輔仁歴史学報』第18期、2006年12月、1-44頁)、冨田哲「日本統治初期の台湾総督府翻訳官──その創設およびかれらの経歴と言語能力」(『淡江日本論叢』第21期、2010年、151-174頁)、冨田哲「日本統治期台湾をとりまく情勢の変化と台湾総督府翻訳官」(『日本台湾学会報』第14号、2012年6月、145-168頁)、楊承淑編著『日本統治期台湾における訳者及び「翻訳」活動──植民地統治と言語文化の錯綜関係』(国立台湾大学出版中心、2015年)、岡本真希子「日清戦争期における清国語通訳官──陸軍における人材確保をめぐる政治過程」(『国際関係学研究』[津田塾大学]第45号、2018年、27-39頁)、岡本真希子「植民地統治初期台湾における法院通訳の人事──制度設計・任用状況・流動性」(『社会科学』[同志社大学人文科学研究所]第48巻第4号、2019年2月、79-106頁)、岡本真希子「植民地統治前半期台湾における法院通訳の使用言語──北京官話への依存から脱却へ」(『社会科学』[同志社大学人文科学研究所]第49巻第4号、2020年2月、225-254頁)、岡本真希子「越境する唐通事の後裔・鉅鹿家の軌跡──対外戦争と植民地統治のなかの通訳」(『青山史学』第38号、2020年3月、73-85頁)などが挙げられ、冨田哲「台湾の通訳者、通訳をめぐる近年の研究動向」(『世界の日本研究』2017年号、322-334頁)がこれまでの研究成果を整理している。
私自身の作業手順としては、まず台湾総督府職員録系統で見当をつけ、次に台湾総督府公文類纂で履歴書を漁った。通訳経験者の名前がだいたいリストアップできたら、人名録や公刊文献を手当たり次第に渉猟し(とりわけ『東亜先覚志士紀伝』や『対支回顧録(正続)』から多くの関連情報が得られた)、併せて国会図書館デジタルライブラリーやアジア歴史資料センターのサイトでも検索をかけた。思い当たる文献を手当たり次第に見ながら、とにかく網羅的に調べてリストを完成させ(それでも遺漏はあるはずだが)、そこからおおまかな傾向を掴むことに注力している(以前にこちらとこちらのエントリーに書いた)。
彼ら日本人通訳は北京官話は話せても、台湾語は分からない。当時の台湾で北京官話の分かる台湾在住漢人は一部の知識人に限られていた。結果的に、日本人通訳が台湾現地漢人とコミュニケーションを図るには、北京官話を解する台湾現地知識人を通した二重通訳か、もしくは筆談となる。筆談が主となるならば、伝統的な漢学の素養を身に付けた他の日本人と条件はそれほど変わらない。そこで、「筆談も含めて何らかの形で言語的コミュニケーションの可能であった来台日本人」へと調査対象を広げ、具体的には漢学の素養を備えた来台日本人についても調査をすることにした。実のところ、通訳と漢学の素養を持つ日本人の一部は重なっており、ある種のグラデーションをなしている。例えば、草場謹三郎は漢学者(佐賀の漢学者一族に生まれ、祖父・草場佩川、父・草場舟山と合わせて草場三代と呼ばれる)であると同時に通訳(東京外国語学校出身、陸軍派遣留学生として北京滞在)でもあった。
ただし、一言で「漢学の素養」と言っても程度は様々である。一定の教育を受けていれば少なくとも漢字は知っているわけだから、際限がない。そこで、アマチュアも含めて漢詩文を作れる人に限定する。具体的には、新聞紙上や唱和集等で詩文を発表している来台日本人について網羅的に調査を進めているのが現段階である。
ただし、一言で「漢学の素養」と言っても程度は様々である。一定の教育を受けていれば少なくとも漢字は知っているわけだから、際限がない。そこで、アマチュアも含めて漢詩文を作れる人に限定する。具体的には、新聞紙上や唱和集等で詩文を発表している来台日本人について網羅的に調査を進めているのが現段階である。
日本統治時代台湾における漢詩文の位置づけについて日本語の論考としては、例えば、陳培豊『日本統治と植民地漢文──台湾における漢文の境界と想像』(三元社、2012年)、許時嘉『明治日本の文明言説とその変容』(日本経済評論社、2014年)などがあり、視点の取り方について私にとって益する所が大きい。私自身の関心は個々の具体的な人物的背景であり、そうした面では森岡ゆかり『近代漢詩のアジアとの邂逅──鈴木虎雄と久保天随を軸として』(勉誠出版、2008年)がある。ただし、鈴木虎雄の来台は1903年、久保天随は台北帝国大学設立時だから1928年であり、私が関心を持っている1895年以降の数年間という時期からは少々ずれてしまう。
実のところ、来台した日本人漢詩人に関して、日本での研究は少ない。むしろ台湾で多くの先行研究が重ねられている(一部はこちらのエントリーで紹介した)。台湾での研究上の焦点はおおまかに三つに分けられる。第一に、上掲の陳培豊や許時嘉の研究と同様に植民統治・帝国支配における漢文の位置づけをめぐる議論。第二に、漢文学・古典文学史の脈絡における個々の作家論・作品論で、これは台湾の大学の中国文学科の学位論文に多い。第三に、詩文交流に着目した研究である。量的に言うと、第二の文学史関連の論考が一番多いのだが、当然ながら、鑑賞するに足る作品を発表した漢詩人に研究対象は限定される。私自身の関心は来台日本人の漢詩人について網羅的に背景を調べたいというところにあり、文学的には拙い漢詩作者であっても考察対象に含める必要がある。こうした面では、とりわけ楊永彬「日本領臺初期日臺官紳詩文唱和」(若林正丈、吳密察編『臺灣重層近代化論文集』臺北:播種者出版社、2000 年 6 月)と黃美娥『日治時期臺北地區文學作品目錄(下)』(臺北:臺北市文獻委員會、2003年)が基礎的な研究として非常に役立った。これらを参照しながら、まず来台した日本人漢詩人(アマチュアを含む)のリストを作成し、それぞれの背景について調査を進めている。
通訳や漢学の素養を備えた人々の両方を合わせ、「筆談も含めて何らかの形で言語的コミュニケーションの可能であった来台日本人」としていったん大きく一括りした上で、中国滞在経験の有無に応じて次の三類型に分けることができる。
第一に、来台以前に中国滞在経験があった日本人。漢口楽善堂グループ(白井新太郎、井深彦三郎など)、上海に設立された日清貿易研究所の卒業生もしくは教職員(宗方小太郎、御幡雅文、草場謹三郎など)、その他上海の日本人グループ(奥村金太郎、荒賀直順など)といった荒尾精の関係者が目立って多い。また、紫溟学会(熊本国権党)が設立した学校(同心学舎→濟々黌→九州学院)には中国語教育課程も設けられており、かつ同会のリーダー・佐々友房は荒尾と盟友関係にあったことから、紫溟学会関係者も台湾へ多数来ていた(例えば、宗方、奥村の他、通訳ではないが台南民政支部長・総督府内務部長を歴任した古荘嘉門など)。彼らの多くは日清戦争で通訳として従軍し、そのまま台湾総督府へ流れ込んだ。
長崎通事の家系(穎川甲子郎、鉅鹿赫太郎、呉泰壽、彭城邦貞、吉島俊明など)も来台したし、『臺灣新報』主筆となった田川大吉郎(長崎外国語学校で学んだ)も通訳経験者である。東京外国語学校出身者も一つのグループをなしており、例えば川島浪速も来台していたが、外語出身者の中でもとりわけ陸軍派遣北京留学生は有力な人材とされていた(例えば、草場、御幡、谷信敬など。二松学舎出身の冨地近思も外語出身ではないが北京派遣留学生に加えられた)。漢詩人の日下峰蓮(朝鮮半島・中国を放浪、閔妃殺害事件に関わって逃亡後に来台→こちらのエントリーを参照)、官吏として来台した金子彌平のような大陸浪人もいる。あるいは、水野遵のように台湾出兵当時から中国・台湾を行き来した官員も挙げるべきだろう。様々な来歴の人々が挙げられるが、全体的に見てやはり荒尾系、紫溟学会系、大陸浪人といったアジア主義的傾向のタイプが目立つ。いずれにせよ、中国滞在体験を持つ人々は、来台前から漢族社会について自らの体験に基づいて一定の見解を持っていた点に特徴がある。
第二に、来台前に中国滞在体験はないが、来台後に中国へ渡った日本人。例えば、宮崎来城(戊戌変法期に招聘されたというが詳細は不明→こちらのエントリーを参照)、籾山衣洲(天津の『北洋新報』主筆、保定陸軍学堂教習)、佐倉達山(福州警察学堂教習→こちらのエントリーを参照)、市村蔵雪(大連の新聞社?)、柳原(黒江)松塢(奉天で『南満日報』創刊)、廣瀬濠田(廣瀬淡窓の一族、後に上海商務印書館で翻訳を行ったらしいが、詳細は不明→こちらのエントリーを参照)などの漢学者。それから、師範学校の出身で国語学校もしくは国語伝習所に来て、その後、厦門や福州の台湾総督府系学校に赴任した教員も挙げられる。他に、中国に生活拠点を置いたわけではないが、内藤湖南、木下大東(→こちらのエントリーを参照)、桜井児山なども中国視察旅行へ行った。
彼らにとっては台湾が中国へ渡る前のワンステップとなっていた。彼らはもともと漢詩文を通して漢人知識人と交流できた人材だが、彼らにとっては台湾が最初の「中国」(=清国)体験地であり、来台前から古典籍を通じて抱いていた「中国」イメージと対比する形で台湾の漢族系社会を眺めたであろう。彼らの中国志向における台湾の位置づけについては二つの解釈ができる。まず、古典籍を通して中国に憧れを持ち、実際に渡航したいと希望していた個人的動機。それから、日本の帝国主義的膨張に合わせて渡航の機会が実現した。後藤新平(棲霞の号を持つ)の場合は、後者の理由を主としてこの第二の類型に入れることができる。
第三に、来台前後とも中国滞在体験がない日本人。漢学の素養を持つ台湾総督府官員の多くがこのタイプである。上記の第一、第二の類型が何らかの形で中国問題にコミットしようとしたのに対し、第三の類型にはそうした態度が比較的に薄い。彼らは日本で身に付けた伝統的な漢学をもとに台湾現地漢人と詩文交流をしたが、第一の類型が現実の「中国」像を前提としたのに対し、第二・第三の類型は古典籍の中の「中国」像を理念として持っていた点に相違が認められるだろう。第三の類型の具体例としては、土居香國(台湾総督府初代通信部長→こちらのエントリーを参照)や阪部春燈(文官第一陣として来台、後に『臺灣新報』及び『臺灣日日新報』漢文主筆→こちらのエントリーを参照)が挙げられる。他にも、新聞記者として来台した尾崎秀眞(白水、古邨)もこの第三の類型に属する(なお、尾崎は必ずしも漢文が得意というわけではなかったらしい)。
ところで、台湾側の研究では、「西洋化が進む日本で居場所を失った漢詩人が台湾で活躍の場を見出した」という捉え方が見受けられる。確かにそういう解釈が妥当するケースもあるにせよ、この捉え方を一般化したら間違いである。
例えば、土居香國は漢詩人として名が通り、漢詩文指南書も出したほどだが、他方で英学も身に付けて英語文献の翻訳も刊行していた。土居は本来、自由党系の活動家として出発しており、女子教育の重要性を主張する当時としては開明派の官僚であった。漢詩文が得意であったことは、決して旧来伝統型知識人とイコールで結ばれるわけではない。むしろ、近代日本は漢語を媒介として西洋文明の翻訳・受容を進めたことを考え合わせるなら、漢詩文の得意な明治期の官僚は、同時に西洋の知識を水準以上に身に付けていた可能性が高い。土居は李春生とも交流があり、これは漢文脈/西洋文明の二つの次元で話が合ったと解されるだろう。
阪部春燈が司法省法学校の出身であったことも注目される。明治初期において法律用語は大明律をもとに構成されていたので、司法省法学校の入学試験は漢文であった。司法省法学校は官費の学校で、立身出世を目指す若者が集まったから、言い換えると全国でもトップクラスの漢学の素養を備えた若者が入学したわけである。後に漢詩人として名を馳せる國分青崖はこの時の阪部の同期生である(ただし、賄征伐事件で國分、原敬、陸羯南、福本日南らは退学)。他方で、司法省法学校はフランス人教員が教鞭をとったので、八年間の修業年限においてはずっとフランス語で授業が行われた。阪部はちゃんと卒業したので、当然ながらフランス語も達者だったはずである。同様に1895年に台湾総督府参事官として来台した中村純九郎(後に淡水・安平税関長)も司法省法学校で阪部の同期生であり、中村もやはり漢文・フランス語(ひょっとしたら英語も)に習熟していたはずである。
漢学と法律の関係で言うと、土居香國は河津祐之と共に法律講義の本を出している。上述した漢学者の廣瀬濠田は慶應義塾で英学を学び、その後、法律を学んで司法省勤務の経験がある。郵便通信書記として来台した牟田火洲には海上保険法の翻訳書がある。いずれにせよ、漢学の素養を持つ来台日本人官吏の背景を考えるとき、西洋語─漢文─法律の関連性は無視できない。彼らは漢語知識を媒介として西洋文明を受容した近代的テクノクラートなのであって、漢詩文が得意=旧世代型知識人というステレオタイプで捉えるわけにはいかない。こうした側面を理解するには日本近代史の知識が必要であり、中国古典文学史研究の脈絡では見えてこない。
要するに、「筆談も含めて何らかの形で言語的コミュニケーションの可能であった来台日本人」として通訳や漢学素養者(官吏や新聞記者も含む)について網羅的に調べ上げて、おおまかな傾向を把握する。そこから、中国志向(広義のアジア主義)を中心に考察を行い、そこにおける台湾在住漢人との関係のあり方、余力があれば台湾知識人との認識の異同まで議論を進めたいというのが基本的な方向性。ただし、史料が不十分な時代でもあるので、どうしても検討対象に欠落が出てきてしまうのはやむを得ない。そこで、通訳及び漢学素養者のリストを作成して、まず概論的に日本─台湾─中国における人の流れを整理する(実のところ、人流からおおまかな傾向を把握しようというのは、史料の欠落を補うための方便でもある)。次に、具体的な言動が確認できる人物を取り上げて各論的に言説分析を進める(日本人だけでなく、できれば台湾在住漢人も取り上げて比較対照)、というのが今後の作業になる。作業を進めながら、さらに調整することになるかもしれないが。