ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

本館ブログ(書評等):ものろぎや・そりてえる(http://barbare.cocolog-nifty.com/
ツイッター:https://twitter.com/troubadour_k
(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

  いま在籍している成功大学の歴史系館は、かつて日本陸軍の台湾軍第二連隊兵舎だった建物だが、現在、改修工事中であり、研究生用の研究室も今週から封鎖される。自分の荷物はいちはやく運び出していたのだが、こういう長年使われ続けて来た部屋には、得てして所有者不明の何かが残されているものだ。そうした中に國分直一『壺を祀る村 南方台湾民俗考』(東都書籍株式会社、昭和19年9月15日発行)があったので、遠慮なくいただいた。

P_20171119_235734


  初版本である。とは言っても、初版だけで、再版はされていないはずだが。奥付を見ると、2000部発行されたことが明記されている。なお、奥付の発行元は三省堂になっている。表紙に記された東都書籍というのは、確か三省堂の台湾における子会社だったように記憶している。

P_20171120_000145


  この本は、後に『壺を祀る村 台湾民俗誌』(法政大学出版局、1981年)として復刊された。復刊とはいっても、戦後に発表した論考も収録されて、構成はだいぶ変わっている。國分が何かに書いていたが、当時は応召されて校正する機会が一度もなく、誤字誤植がそのままの状態で刊行されてしまったそうだ。旧版をパラパラめくってみると、確かに明らかな誤植も目立つ。

P_20171119_235845


P_20171119_235857


P_20171119_235910


P_20171119_235921


  もし、台湾関係で一番好きな本を挙げろ、と言われたら、私はおそらくこの『壺を祀る村』を挙げると思う。私自身は、いちおう台湾史を専門としてはいるものの、今のところ民俗学や考古学をやっているわけではない。ただ、この本は学術論文というよりもフィールド・ノートといった趣きで、國分が現地を歩きながら考えていたプロセスそのものが浮かび上がってくる。台南に来てから読み直してみると、その臨場感がより身近に感じられた。

  本書は平埔族研究の先駆的な著作でもある。國分が調査したとき、シラヤ族にはアリツ祖崇拝の習慣がまだ残っており、それはつまり、水を入れた壺を拝む儀礼である。本書の表題作の由来である。台南市佳里区にある北頭洋文化館では、平埔族研究に貢献した一人として國分が紹介されていた。

  台北の北郊に位置する士林。日本の領台直後の1895年、ここに設立された芝山巌学堂は、日本統治時代台湾において教育の出発点とされていた。台湾総督府初代学務部長となった伊澤修二は、この士林の地には学問の気風があると聞き、学務部をわざわざここまで移転させて芝山巌学堂を設立し、地元から生徒を募って授業を開始した。ところが、1896年1月1日、抗日ゲリラに襲撃されて6人の日本人教員が殺害される事件が起こった(他に小林という用務員さんも犠牲になった)。彼ら6人の教員は台湾教育に殉じたとみなされ、以降、「六氏先生」として台湾で教育活動に携わる人々から崇敬を受けることになる。なお、伊澤はこのとき、台南で病死した北白川宮能仁親王の棺に随行して日本へ戻っていたため不在だった。

  芝山巌学堂で台湾人生徒を教育するにあたり、特に重視されたのは日本語である。当時、台湾語を解する日本人も、日本語を解する台湾人もほとんどいなかったため、日本は植民地支配に乗り出したものの、現地住民とのコミュニケーションに困難を抱えており、通訳の養成が急務なのであった。

  日本語でも台湾語でもコミュニケーションが図れない状況下、どのような方法で日本語教育が始まったのか? それは、英語を媒介した二重通訳である。『台湾教育沿革誌』には次のように記されている。

「学堂に於ける教授の方法は、最初は柯秋潔・朱俊英に対して伊澤部長自ら英語を以て教へ、吧徳連をして之を土語に訳さしめるといふ風で、主として実物を示し、その名称等を授けた。併しその後次第に組織的となり、先づ片仮名を授け、次にこれを組合せて単語を授け、会話に及ぼすといふ風に改められた。」(台湾教育会『台湾教育沿革誌』台北市:台湾教育会、1939年/台北市:南天書局、1995年、157頁;許佩賢,《殖民地臺灣的近代學校》,台北市:遠流出版,2005年,頁29)

  つまり、伊澤がまず英語を用いて話し、吧徳連という人物がその伊澤が話した内容を台湾語に通訳して生徒に伝えるという方法で授業が行われていた。柯秋潔と朱俊英の二人は1895年7月5日に学務部臨時雇として採用され、日本語講習候補生となっていた台湾人である(『台湾教育沿革誌』155頁)。

  では、吧徳連とは何者か? 台湾総督府文書に残されている辞令を見ると、「清国人 吧徳連」は1895年6月26日に嘱託として採用されている。辞令には伊澤による申請書も付されている。毛筆なので筆者の読み間違いがなければ、吧徳連は香港の聖書学校を卒業して英語に精通しており、台湾事情にも詳しい、という趣旨のことが書かれている(「清國⼈吧連德外壹名〔林瑞庭〕⺠政局事務囑託任命」(1895年06⽉26⽇),〈明治⼆⼗八年乙種永久保存進退第⼀卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣 文獻館,典藏號:00000042074)。

  しかしながら、翌1896年3月5日、吧徳連は「不都合あり」として解職されてしまった。どうやら、監獄に入れられたようだ(「事務囑託吧連德解囑ノ件」(1896年03⽉05⽇),〈明治⼆⼗八年⼄種永久保存進退第⼆卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號: 00000043009)。彼がどのような罪に問われて捕らえられたのかまでは分からないし、その後の行方も分からない。

  吧連德がどのような人物であったのかは分からないし、そもそも彼がキリスト教徒であったかのどうかも確認できないが、差し当たってはたいした問題ではない。ただ、彼が香港の聖書学校で英語を学んだという経歴は重要である。日本が台湾という未知の土地を領有して、現地民とのコミュニケーション・ギャップに直面したとき、その言語的困難を乗り越える手段として、北京官話もしくは英語による二重通訳が行われていた。そして、東アジア世界において英語を使える人材を輩出するにあたり、キリスト教宣教師の活動を通して英語が広まっていたという歴史的背景を無視することはできない。

【追記】吧連德については、横路啓子「歷史事件論述中的譯者形象 -以芝山巌事件與口譯員吧連德為例」『日治時期的譯者與譯事活動工作坊論文』(台北市:中央研究院臺灣史研究所、2012年 9月 27日)という論文があるが、これはワークショップでの論文集のようで、入手困難なため未見である。

  淡水に拠点を置いて台湾北部でのキリスト教伝道に従事していたカナダ人宣教師マッケイ(1844-1901)の日記を見ていると、台湾総督府勤務の日本人キリスト教徒としばしば連絡を取り合っていた様子が見て取れる。彼らはおそらく、英語能力がかわれて來台したのであろう。

  そうした台湾総督府勤務の日本人キリスト教徒の一人として水崎基一(1871-1937)が挙げられる。マッケイの日記では、水崎と何度か一緒に礼拝に参加した記述も見られるし(北部台灣基督教長老教會大會 北部台灣基督教長老教會史蹟委員會策劃、翻譯,《馬偕日記Ⅲ 1892-1901》,台北市:玉山社,2012年,頁266、396)、1896年8月24日にマッケイが総督府の水野遵(1850-1900)民政局長や杉村濬(1848-1906)外事課長たちと歓談した際には、外事課員という身分で水崎も同席していた(同、頁285)。

  台湾総督府文書には水崎の履歴書が保存されている。それを見ると、水崎は長野県の出身、1893(明治26)年に同志社普通学校を卒業後、教誨師となって釧路監獄に勤務、1896(明治29)年4月に台湾総督府民政局通訳として来台したことなどが確認できる(「⽔崎基⼀⺠政局屬ニ任シ五級俸總務部勤務」(1897年02⽉05⽇),〈明治三⼗年⼄種永久保存進退第三卷〉,《臺灣總督府檔案》,國史館臺灣文獻館,典藏號:00000194016)。

  水崎は台湾を離れた後はイギリスへ留学し、実業界を経て、同志社大学経済学部教授や浅野綜合中学校校長などを務めた。アルフレッド・カルデコット『英国植民史』(大日本文明協会、1910年)の訳書を刊行しており、台湾経験から植民政策へ関心を寄せたのかもしれない。死後は同志社墓地に葬られている(→こちら)。

  水崎についてはウィキペディアの記述が充実しており(→こちら)、詳しい年譜まで整理されている。関連資料も豊富な様子なので、日本へ戻ったときに調査することも可能だと思った。

このページのトップヘ