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台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

過去の記事については、総目次をご覧ください。
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  昨年(2020年11月1日)、高雄の逍遥園がリニューアル・オープンした際の記念式典に参加する機会がありました。その模様についてはこちらのエントリーに書き、昨年の『台湾協会報』794号(2020年12月)に「高雄・逍遥園の開園式典に参加して」と題して短めの記事も寄稿しました。


  今年に入って、『東方』479号(2021年3・4月合併号)に「高雄・逍遥園のリニューアル・オープン」が掲載されました。
https://www.toho-shoten.co.jp/toho/tohonew.html

  
  この記事も実は昨年のうちにすでに書き上げていたのですが、『東方』が最近、隔月刊になった関係で今年の3・4月合併号までずれこみました。


  この記事では、第一に逍遥園の来歴を簡単に紹介、第二に記念式典の様子をレポート、第三に逍遥園再開園の意義について、第四に日本統治時代の建築が戦後台湾社会において有していた意味合いの変容過程について触れました。第四の部分は上水流久彦先生のご論考「台湾の植民地経験の多相化に関する脱植民地主義的研究──台湾の植民地期建築物を事例に」(三尾裕子・遠藤央・植野弘子編『帝国日本の記憶──台湾・旧南洋群島における外来政権の重層化と脱植民地化』慶應義塾大学出版会、2016年)で示された視点を援用しながら書きました。


  逍遥園の記念式典への参加や『東方』への寄稿では、大谷光瑞研究の専門家である柴田幹夫先生のお世話になりました。あつく御礼申し上げます。


  私自身はまだ本誌を受け取っていませんが、もし日本で手に取る機会がございましたら、ご笑覧ください。
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  論文執筆のため、以前に収集した『九州日日新聞』の記事を読み込んでいたら、今後書く論文のネタにも使えそうな記事がいくつかあったので、メモとして書き出しておく。


・臺南生「臺南雑信(第一報)」(『九州日日新聞』1897年1月19日、3面)
「▲商況 香港其外外国産貨物の輸入するは重に支那店にして内地商店には絶無と云ふも不可なし外国産貨物輸入に就きては香港より直接取引をなすものにして運輸に不便を感ずることなく又本嶋産ありて需要供給とも平衡を得たり独り内地輸入品に至りては運輸の途僅かに太陽丸月三回の航海ありて是により貨物輸入を為すものなれば商品に欠乏を生ずるに至らざるも運賃高価なるを以て外国輸入貨物に比し自から高価に販売せざるを得ず従って内地人の商業は兎角不振を免かれず然らば内地商品を香港廻しに托せんか内地貨物は荷造粗漏のため回漕問屋容易く引受けざるの嫌ひあり左すれば寧ろ外国品を購入せんか現今台南にある内地商人は重に薄資にして便宜のヶ所に取引先を持たざるが為め土人の如く機敏の運動をなす能はう従って土人の仕入より幾分の高価に買入れざるを得ざる状況あるを以て未だ俄かに商勢を振作する能はざるの状況なり」


  台南へ来た日本人商人は日本内地から貨物を輸入しても、便数が少ないので欠品がち。しかも運賃が高く、その分、販売価格に上乗せしないといけない。他方、台湾現地商人は香港ルートを確保して外国製品をより安く販売できる。そのため、台南の日本人商人は現地商人にかなわないという。


・黙笑生「臺灣近時漫録(二)」(1897年11月14日、臺南にて、『九州日日新聞』1897年12月16日、附録)「臺南に在留する内地人の数軍隊軍属官吏を除きて千二百餘名に上れるに土人に対する商工業を営むもの一人も無之とは驚くべきにあらずや」


  台南在留の民間日本人は1200人以上にのぼり、その大半は商売人だと考えられるが、その商売相手は日本人同士に限定されており、現地台湾人相手の商売はほとんどなかったという。


・隻眼生「臺南見聞」(1899年12月29日、臺南発、『九州日日新聞』1899年1月11日、2面)
「▲台南の不景気 臺南の繁華は畢竟軍隊にて持て居り候然るに其軍隊は一ヶ月前半より討伐に出懸け候為め臺南の不景気はその極点に達し内地人店の年末仕入の如き前年に比していまだ三分の一にも売出さざるよしに候随分金融の逼迫また甚しく銀行は取附を恐れて貸出を手控へおるものから今や月一割以上の高利に非れば五百圓の融通も附かざる趣に候」「年暮を当に仕入れたる内地所の越褌は勿論少からざる疲弊に候へ共一番ヨワリ居るは貸座敷及び料理屋に候是は今日この頃何処に行き候てもピンともシャンとも音のする處は無之よしに候然れども軍隊も昨日帰営候よし此處暫らくは大繁昌大入と相成り貸座敷も料理屋も愁眉を開くことと存候」


  台南の日本人が経営する飲食店は、そのお得意先を軍隊に依存しているため、軍隊が出動して不在となると、すぐ逼迫してしまうという。臺南生「臺南雑信(第一報)」、黙笑生「臺灣近時漫録(二)」の記事と合わせて考えると、日本の領台当初における在台日本人商人は仕入元もお得意先もいずれも日本人に寄りかかっており、現地台湾人相手の商売はほとんど行われていなかった。言い換えると、来台日本人商人は、台湾現地商人を相手にしても競争力がほとんどなかったと言えよう。


・隻眼生「臺南見聞」(1899年1月6日、臺南發、『九州日日新聞』1899年1月22日、4面)
「▲討伐の残虐 討伐軍の諸君が帰営して意気揚々談話の前後に愉快の二字を附し討伐の光栄を語れる零話左に書き附け候
 一 四百餘戸の甲庄を一炬に附し逃げる庄民を的として射撃の愉快なりしよ
 一 乙庄の男子の十四才以下四十才以上と取外け其他を甕殺せし愉快さよ
是等の事件は独り甲乙の庄村に於けるのみならず討伐軍の廻る處は過半然りに候或村の如きは予て弁務署より討伐軍来らば外出を為さず遁走を為さず唯家内に在れとの注意を受け居候故村民一同平然として在宅候處討伐軍は容赦なく婦女老幼を除く総ての村民を殺戮し尽し候(亜剌比亜人の過ぐる所野に草なしの語ありと聞く)
 一 家は焼かれ其父は殺されたる幼童、其夫は殺されたる婦、其子は殺されたる親、今や居るに家なく喰ふに食なくまた訴ふるに處なく唯天を仰いで啼き地に俯して哭するもの勝けて数ふ可らず候
拙者は既に慷慨極まりて評語を加ふるに堪へず唯読者が此の数行の文字に若干の残忍を含めるかを看取せられんと希望いたし候」
「▲◎◎◎◎ 「反するも殺され反せざるもまた殺さる寧ろ、反して殺さるゝに如かず」とは六堆廣東部落人の蹶起したる所以に候」
「▲◎◎◎◎ 「総ての台湾人を殺戮し了し以て日本人を移すものなり」是も六堆廣東部落人の云ふ處に候土匪討伐愈よ盛にして土匪愈よ繁殖する所以に候」


  日本軍によるいわゆる「土匪」討伐において行われた残虐行為について率直に書かれた珍しい記事。


・矢嶋篤政「台南通信」(『九州日日新聞』、1896年1月15日、2面)
「▲新版図の行政を阻害する者は軍夫なり 目下当地に来りおる軍夫は第二師団附の東京人夫多して軍隊或ひは民政上について人民の感情をそこない国威を汚損するは重に無頼漢なる東京附近の人夫なり彼等が尤も人民にきらわるは強姦、強窃盗等にて現に軍夫が強窃盗を働くもの少なからざる次第なれば当路者は大に閉口しおれり斯くの如き不正の軍夫を内地より大金をかけて送らんより人夫は当地に容易に便し賃銭も又廉なれば早く追放したきものは日本軍夫なり彼等は当地に在りても身体其労に堪へきらず多くは賭博にふけり金あるものは自己の目代に自から負ふ可き荷物も土人に多少の金を払ふて負はしめ唯た荷の番する位ひ堪へすして実に有害徒たるを免かれず」


  軍夫としての従軍者の中に素行の悪い日本人が多数含まれており、彼らによる婦女暴行や強盗事件が多発しているため、現地住民の反感をかっていたという。


・「台湾語速習学校」:帰郷した陸軍中尉・古賀忠次郎が久留米にて元通訳官・俟野保和を講師として台湾語速習学校を設立(『九州日日新聞』1895年9月5日、2面)→『九州日日新聞』一八九五年九月二十四日、四面に生徒募集の広告。
・『台湾会話篇』の広告:近衛師団司令部付通訳官・坂本釟五郎の編纂(『九州日日新聞』1895年9月22日、1面)


  日本による領台直後の1895年9月の時点で、台湾語速習学校が開校されたり、台湾語会話のテキストが販売されたりしていたが、そのレベルはどの程度のものであったか。

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