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台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

  1945年の日本敗戦と共に台湾の植民地支配に終止符が打たれたため、日本人は引揚げを始め、留用されていた人々も1948年までには日本へ帰還することになる(台湾大学に留用されていた農学者の磯永吉や松本巍などの例外もある)。他方で、台湾人と結婚したため、戦後も日本へ戻らずに台湾へ骨を埋めた女性たちもいた。台南の劉瑞山一族について調べていたら、長男・劉青雲の貞夫人(1898-1995)もそうした一人であることを知った。

  彼女の旧姓は本目貞という。旗本の家系に生まれ、父もキリスト教に入信していた。青山女学院を卒業後、英語教員となる。劉青雲は慶應義塾に留学していたが、一緒に東京へ来ていた妹・秀琴もやはり青山女学院に留学しており、彼女を通して二人は知り合ったらしい。1922年、二人は結婚し、霊南坂教会にて小崎弘道牧師の立ち合いのもと挙式した。その後は青雲の実家のある台南に定住する。劉貞は戦後もキリスト教の活動に熱心に取り組み、劉家と林千代という人の自宅にて「台南日語聖書集会」の活動が1981年まで行われていたという。劉青雲が1982年に亡くなった後、劉貞はしばらくアメリカに住んでいた時期もあったが、1989年に台南へ戻り、1995年に亡くなられた(賴永祥〈劉貞女士略歷〉,劉克全編《永遠的劉瑞山》劉克全、2004年、138頁)。

  やはり台南にゆかりのある作家・庄司総一(1906-1961)が発表した小説『陳夫人』(第一部は1940年、第二部は1942年)は好評を博し、1941年に久保田万太郎の演出で「文学座」にて舞台化されたほか、1943年には「大東亜文学賞」を受賞している(大東和重『台南文学』関西学院大学出版会、2015年、175-189頁)。「本島人」家庭に嫁入りした日本人女性を描いたこの作品の主人公・陳夫人(安子)のモデルが、実は劉貞であった。庄司総一の父親は台南で「博愛医院」を開業していたが、劉貞と同じ日本基督教会台南教会に所属しており、また劉貞の娘・劉慶理と庄司総一の妹・和喜子は台南第一高等女学校の同級生であった(賴永祥〈岳父一家大小〉,許雪姬、張隆志、陳翠蓮訪談《坐擁書城:賴永祥先生訪問記錄》遠流出版,2007年,103-105頁。本文はネットでも読める→http://www.laijohn.com/Laus/Lau,Chun/family/about/LES/1.htm)。庄司総一はこうした人間関係を通して、劉瑞山一家の一員となった貞のことを知り、小説作品を構想したわけである。なお、図書館学者で台湾キリスト教史の研究でも知られる賴永祥(1922-)は劉慶理の夫であり、従って劉貞は彼の岳母にあたる。

  日本統治時代初期に台南へ来た日本人キリスト教徒秋山善一・珩三兄弟について調べているのだが、秋山善一の関係者として台南の富豪・劉瑞山(1867-1947)の名前が出てくるので関心を持っている。例えば、秋山善一が設立した苗栗製糖の出資者の一人として劉瑞山の名前がある(『台湾日日新報』1909年8月25日)。また、劉瑞山の息子である劉青雲は、秋山善一は自分を日本留学へ連れて行ってくれた恩人であると回想しているし、(賴永祥「劉青雲憶古談」《壹葉通訊》42期、1985年3月)、劉青雲と結婚した日本人の劉(本目)貞は劉瑞山について回想する中で、瑞山は「殊に長男青雲には大正の初期、約七十年前、自らの最も信頼していた日本人秋山善一に頼み、京都市の同志社に連れて行てもらい、台湾人でも最初の部に属する日本留学生となった。当時の台湾に於ける日本人は台湾人の眼からは鬼のやうに恐れられ敬遠されていた時代に、その日本人に自分の長男を託すとは、何か秋山氏の中におかしがたい信頼性があったのか、そして更に秋山氏の中に基督より戴いた篤い信仰と人を愛する真心のある事を認めた事によるのかと思われます」と記している(劉貞〈阿公(劉瑞山公)の思い出〉、劉克全編《永遠的劉瑞山》劉克全、2004年、336-337頁)。

  劉瑞山の台南劉家は、台湾キリスト教徒の中でも名門一族として知られている。もとをたどれば、19世紀に福建省泉州から軍官として台南へ来た劉光求(1826-1887)と彼が一緒に連れてきた母の李晋(1800-1874)、異父弟の高耀(1831-1896)が始祖となる。高耀は1869年に台南にてマクスウェル(馬雅各)から初めて受洗した7人のうちの一人。もともとはアヘン吸飲をしていたが、キリスト教に出会ってからやめる。マクスウェルの助手として西洋医学を学び、後に開いた「仁和堂」は台湾で華人が最初に開業した西洋式医院とされている。医療活動による収益で教会にも貢献したらしい。

  兄の劉光求も教会の会友となっていたが、妻の李朗(1840-1899)は一貫してキリスト教に反対していた。二人の間に生まれた三男が劉瑞山(麒鳳、岐鳳)である。彼は最初、子供がいなかった高耀の養子となった。ところが、高耀のもとに高天賜(1872-1902)が生まれる。そのため、1891年に瑞山は劉家へ戻され、その際に高耀から300元を持たされた。劉瑞山はこれを元手に弟の劉錫五と共に事業を始める。なお、マクスウェルは劉瑞山に医師としての訓練を施そうとしたが、劉瑞山は初めての手術のとき、患者の血を見て卒倒してしまったため、医学を断念して実業の道に進んだという。劉瑞山と劉錫五はは「和發」という雑貨店を営んだが、後に「和源」と改称、1895年に台湾が日本領となった後は輸出入業を手掛けたほか、不動産業や製糖事業にも乗り出し、1920年代初めには台南市で有数の大地主、高額納税者になっていた。

  劉瑞山自身はまともな教育を受けていなかったが、教育問題には熱心に取り組んだ。長老教中学(長榮中学)の運営基金の十分の一を出し、理事も務めた。子供たちも積極的に留学させ、長男・劉青雲は同志社中学を経て慶應義塾大学理財科を卒業、次男・劉主安は東京工業大学を卒業した後、台湾へ戻り、長榮女中の校長も務めた。三男・劉子祥は長男と同様に慶応義塾大学理財科を卒業、台湾へ戻ってからは台湾地方自治聯盟常務理事も務めたほか、太平境教会長老、台湾教会公報社社長にもなっている。他方で、四男・劉青江、五男・劉青和、六男・劉青波は大陸の嶺南大学へ留学に送っているのが面白い。なお、劉瑞山は戦争中に台南市長を務めた羽鳥又男ともキリスト教徒同士として親交があった(許雪姬、張隆志、陳翠蓮訪談,《坐擁書城:賴永祥先生訪問記錄》遠流出版,2007,頁106-116;劉克全〈劉光求家族來台經過及劉瑞山生平簡介〉《永遠的劉瑞山》頁21-23)。

  劉瑞山は当初、台南市壽町一丁目の盲学校附近に住んでいたが、後に壽町二丁目にある広い閩南式邸宅を買って移り住んだ。清朝道光年間(1840年頃)に建てられたという、このいわゆる劉家古厝は現存している(萬昌街九十巷七號)。「和源商行」もここで営まれていた。金関丈夫もこの古厝を見に来たことがあるらしい。戦後、劉家の人々は住まなくなったが、オランダ人の道教学者Kristofer Schipper、アメリカ人のHarver Moleといった外国人に貸して住まわせていたという(劉革新〈成為富豪之家的祖父—劉瑞山〉《永遠的劉瑞山》頁283;《坐擁書城:賴永祥先生訪問記錄》頁111-112)。

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  なお、Kristofer Schipperの娘で、後にフランスに移住して漫画家になったJohanna Schipperは、後に幼い頃を過ごした劉家古厝を再訪しており、その折の台湾紀行が《出生在她方》(Née quelque part)として刊行されている。

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  しばらく修復作業が続けられていた台南市長官邸がようやく一般公開された。構内の説明案内板によると、建築時期は1898~1906年の間とされており、いずれにせよ、すでに百年以上の星霜を経ている。戦後に接収された後は様々な用途を経た上で、最終的には中学校教職員宿舎として利用されることになったという。すぐ近くには国立台南第一高級中学(かつての台南第二中学)がある。市長官邸は2001年7月から台南市政府古蹟に指定され、保護対象となった。

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  洋館建築部分から向かって右側に、石柱跡のみが規則正しく並んだ一画がある。ここはかつて和室棟だったところ。この部分は1998年の火事により焼失してしまったという。ちなみに、市長官邸の近くにある台南知事官邸も洋館建築を主としつつ、やはり和室棟が付属していた。知事官邸の和室棟は現存しているが、人が住んでいるため中に入ることはできないし、そもそも和室棟だったということが一般に知られていないので、一見したところでは分からないだろう。公務に関する接待を行う上で威厳を示すため洋館建築としつつ、実際の生活を考えると和室の方が便利だから、こうした和洋折衷形式になったのだろうか。

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