ふぉるもさん・ぷろむなあど

台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

  昭和17年(1942)4月、祖母は香港占領地総督部の書記として香港へ渡った。同年の『文藝臺灣』10月号の社報に「亀田恵美子姉(香港小説を執筆)」とある。ひょっとしたら、小説を書くために香港という外の世界を題材にしようという思惑があったのかもしれない。当時の写真を見せてもらったが、ピクニックへ行ったり、結構のどかだった印象すら受ける。白人女性と一緒に映った写真があり、誰かと尋ねたら、香港占領地総督部に勤務していたポルトガル人だという。英語が必要な業務にあたり、香港在住のイギリス人は「敵国人」であるため雇うことができなかったが、ポルトガルのサラザール政権は枢軸国寄りの中立という立場だったので、マカオから募集したのだろう。

  ところが、戦火が激しくなり、日本の制海権も徐々に奪われつつある状況下、女性は優先的に帰されることとなり、昭和18年(1943)2月頃に台北へ戻った。その後、総督官房情報課に勤務する。『臺湾時報』を発行していた部署である。この頃に発表した「九龍生活」(『臺湾時報』昭和19年6月号)は香港でのことを、「思ひ出の街」(『臺湾公論』昭和19年5月号)は香港から台湾へ戻る途中に寄った汕頭の印象を記している。祖母は昭和57年に旅行で香港を再訪しているが、タイガー・バーム・ガーデンを見ながら、昭和17年の香港滞在時にもこの同じ邸宅を見学させてもらったことがあったと回想している(「香港旅情」『旅の朝』22-23頁)。

  祖母は昭和19年に、台北第二中学校教諭だった祖父・黒羽義治と結婚したが、祖父は間もなく出征した(ただし、出征とは言っても、勤労動員の学生を引率して台湾東岸へ行き、ずっと塹壕を掘っていたと祖父から聞いた覚えがある)。祖父が不在の中、台北は何度か空襲を受けているが、昭和20年8月、戦争が終わる一週間前に自宅が空襲を受けたという。その折のことを次のように記している。

 敗戦のわずか一週間前、当時、台北に住んでいた私の家は空爆で半壊した。
 真夏であった。昼食中に空襲警報が鳴った。あわてて箸もちゃわんもそのままにして、防空壕の中へ飛びこんだ。お向かいの家には防空壕がなかったので、そのお宅の娘さん二人が、亡き母上の白い遺骨箱を抱えて、
「いっしょに入れてくださーい」
 と叫びながら駆けつけてきた。二人を狭い壕の奥に座らせて、入り口の戸を押さえていた。
 グラマン機の近づくのが気配で分かった。落下した爆弾のズシンというひびきが伝わってきた。入り口の戸が吹きとんで、土砂が音をたててふってきた。体を穴の底に伏せる以外に方法はなかった。
 敵機は通りすぎたようだ。私たちは、土をかき分けて外へ這い出してみた。そして、絶句した。東隣の家の数軒は跡形もなく崩れさり、崩れた上にそして電柱や電線に、ちぎれた人間の体が飛び散っていたのである。
 隣の防空壕に爆弾が命中して、その中にいた十一人の隣人たちが、一瞬にして死んでしまっていた。
 敵機の乗員が爆弾投下のボタンを押した、わずかな指の操作で、私の壕を直線上において、その前と後ろの家へ命中させたのだ。幸いなことに、もう一方の家は疎開して誰もいなかった。
 私は泥だらけのまま、近くの小川の橋のてすりに腰をかけて、土ぼこりに包まれて半分消えてなくなった我が家を眺め、頭の中が空っぽになってゆくのをおぼえた。
 亜熱帯の空は高く澄み、ヤシの樹は何ごともなかったように風にそよいでいる。体じゅうから力が抜けてゆくにつれ、涙がとめどなく流れおちた。明日の空襲では私がやられるだろうと、確信みたいな思いが衝きあげてきた。自分がどれだけ無力かを思い知らされた。
 男の人たちが戸板を探してきて、遺体をのせて並べていた。女にはとても正視できる情景ではなかった。
 真夏になると、それは忌まわしい点景としてよみがえってくる。(黒羽恵美子「夏の涙」『旅の朝』78-80頁)

  日本の敗戦により台湾は中華民国に接収されることになった。昭和20年10月、国民党軍が台北へ入城する様子を祖母もじかに目撃していた。鍋を背負ったみすぼらしい姿はよく語り草になっているが、私も祖母から聞いたことがある。敗戦後の混乱期、祖母の一家は親しくしていた知人一家と一緒に小さな食堂を開いた。その知人の家が東門市場の道路に面していたので、そこの軒先を改造して店を構え、おふくろの味を売り物にしたという。往来がにぎやかなので繁盛し、引揚げまで続いたらしい(「阿蘇のふもとで」『旅の朝』52-53頁)。昭和21年3月、祖母は基隆港から日本へ引揚げた。祖父・義治は留用されたため引揚げが遅れ、同年7月になってようやく帰国した。

  葉石濤は祖母の作品「ふるさと寒く」を評して、「植民者日本人の一部はすでに台湾の土地と人々にアイデンティティーを感じ始めていた」と記しているが、実を言うと私の見立てはだいぶ違う。

  近年、台湾では映画「湾生回家」の影響もあって、「湾生」という表現もポピュラーになった。この映画については色々と問題も起こったが、少なくとも「湾生」についていちいち説明しないでも済むようになった点ではありがたい。この映画の中で「湾生」たちが「生まれ故郷」を訪ねて涙ぐむ姿は多くの人たちの感動を呼んだ。他方で、やはり「湾生」であった私の祖母を思い浮かべてみると、印象はだいぶ違う。普段の生活の中で台湾について語ることはなく、こちらから質問してようやく話をしてくれるという感じだった。台湾時代から付き合っている知己もそれほど多くはなかったようだ。もちろん、台湾へのなつかしさはあったはずで、だからこそ同窓会で基隆を訪れたりもしたし、祖父も「湾生」ではなかったが、台湾時代の教え子に招待されて台湾へ行く機会があった。そうではあるにせよ、やはり台湾への思い入れのあり方に相当な違いがあったことは否めない。

  「湾生回家」でテーマとなった吉野村の開拓民は、日本の土地を売り払い、帰る所はないという覚悟で花蓮へ移り住んだ。周囲に日本人はほとんどおらず、普段から現地民と交わる生活を過ごしていた。日本へ引き揚げた後、寄る辺は何もなく、一からの出直しは相当にきつかったはずだ。戦後における日本での過酷な生活は、穏やかだった台湾での日々をなつかしむ気持ちをより一層強めたことであろう。他方で、祖母が暮らしていたのは主に台北である。当時の台北は、いわば日本の延長線上にあり、周囲にいたのは日本人、もしくは日本語の流暢な台湾人が多数派であった。主に日本人区域で暮らし、台湾人区域に行く機会はあまりなかったと祖母から聞いている。だから、台湾語は全く分からない。台湾の気候風土へのなつかしさはあったはずだが、在来の文化を含めたトータルな意味で台湾へアイデンティティーを感じていたかと言えば、それは違うであろう。祖母は引揚げ後、祖父の実家がある東京へ移り住んだ。戦後間もなくは当然ながら苦労したはずだが、吉野村から引揚げた人びとに比べたら安定した生活を送ることができた。現状との比較対照の中で、過去の台湾時代をなつかしむ動機はやや乏しかったと思われる。

  「湾生」と一言でいっても、その内実は様々だ。どこに住んでいたか、社会的階層はどうであったか、そして引揚げ後の生活状況はどうであったか──様々な要因によって台湾時代をなつかしむ心理的契機も異なってくる。そうした要因の相違に留意しながら「湾生」について分析するのも、今後必要な課題かもしれない。

  祖母は大正10年(1921)、淡水街字烽火の官舎で生まれた。近くには紅毛城があったと祖母が語るのを聞いたことがある。父・亀田主一は台湾総督府の下級官吏で、淡水郡役所に奉職して間もない頃であった。主一の生涯について祖母は「ふるさと寒く」の中で次のように記している。

「徴兵検査の終つた翌年の欧州大戦の頃、父は大きな夢を抱き、アメリカに渡つて一旗挙げようとしたが、世状のどさくさにまぎれて果さず、せめて、フイリッピンにでもと、五拾圓なにがしの小遣を懐に単身渡臺し、高雄で便船を待ち乍ら種々の手続をして、天候や其他の加減で出帆の後れる船に、空しく日を過す中に、乏しい懐銭も失せ、否応無しに当地で働かねばならなくなつた。丸八を染め抜いた相撲取りの化粧廻のやうな前垂をつけた某食料品店の高級番頭やら、新竹の山中の軽鉄事務所の事務員やら、製糖会社の下ッ端社員、某新聞社の田舎駐在員等、転々する中に雄図も中ば挫折した侭、官界の裳裾にやつとすがりついて、爾来十五年余り、学歴の無い父は、学歴が無言の権威となる社会、殊に植民地社会にはまり込んで、こつこつと誠実一点張りに人生を刻んで来た。」(亀田恵美子「ふるさと寒く」『文藝臺灣』第2巻第4号、27頁)

  『台湾総督府職員録』等で調べると、亀田主一は大正9年(1920)に台北廰淡水支廰(後に淡水郡役所)に採用された後、主に台北近辺で転勤を繰り返している。昭和4年(1929)に羅東郡役場庶務課、昭和5年(1930)には文山郡役所庶務課、昭和7年(1932)に基隆郡役所庶務課、昭和13年(1938)に七星郡役場庶務課、昭和14年(1939)に台北州内務部勧業課を経て、昭和16年(1941)になってようやく文山郡役所勧業課課長へ昇進した。ところが、同年11月7日、新店渓で乗っていた屋形船が転覆して溺死してしまった(『臺灣日日新報』昭和16年11月9日)。太平洋戦争が始まる一ヶ月前のことであった。主一は台湾へ来てから日本の故郷へ帰る機会はほとんどなく、亡くなる前年の昭和15年秋に一ヶ月の休暇をもらって帰郷したのは実に23年ぶりのことだったという(「山の匂い」『旅の朝』130頁)。同行した祖母は初めて内地へ行き、その折の心境を「ふるさと寒く」につづっていたことは前述の通りである。

  主一が羅東郡役場に勤めていた頃、祖母は小さな分教場に学んでいた。友達と一緒に川へ泳ぎに行ったところ、水牛の群れと出くわして驚いたといった思い出を後に記している(「ユリの花と水牛と」『旅の朝』33-35頁)。基隆にいた頃は基隆高等女学校に通っていた。昭和57年には同窓会で基隆の母校を訪問したようだ(「基隆(キールン)は雨だった」『旅の朝』25-30頁)。卒業とほぼ同時期、主一が台北へ転勤となったため、祖母は台北第一高等女学校補習科へ編入する。ここを卒業すると「尋常小学校本科正教員」の免許を取り(臺灣總督府《府報》第3594號,昭和14年5月31日)、南港公学校の教員心得となった(《臺灣總督府及所屬官署職員錄》昭和14年、502頁)。

  時あたかも皇民化運動が推進されている時代であった。台湾人子弟を対象とする公学校では日本語を徹底的に教え込まなければならない。後に、そうした職務の中で感じた後悔や心の痛みを祖母は次のように記している。

 算数の時間だった。ひとりの子が黒板に答えを書いていた。すると、陳氏敏という子が自分の席から見ていて、とつぜん台湾語で何やら叫んだ。私にはそれが分からなかったが、教室の中の子どもたちに笑いが広がっていった。学校では使用を禁止されていた。
「台湾語を使ってはいけないってこと、知ってるでしょ? いま何て言ったの?」
 私は、自分ひとり疎外された感じで、苛立った。苛だちに押されて、彼女の席へ近づき、肩をつかんだ。
「わたし、『あの答え、ちがう』と言っただけ。知らないうちに、台湾語が出たの」
 彼女はせきこんで言いわけするなり、机の上の筆箱やノートを激しく床へ投げつけて、大声で泣きだした。
 七歳の陳氏敏は頭の良い子だった。いわれのない詰問が、よほど口惜しかったのだろう。(家で自由に使っている台湾語を、なぜ、学校では使っていけないの?)と、泣きじゃくる彼女のあどけない顔が訴えていた。
 私は胸を抉られる思いだった。私も幼い彼女たちと同じ土地に生まれ育ったので、彼女の悲痛さがよく分かった。ただ、私が日本人だっただけである。
 まもなく大戦は終結した。街中に明るい小鳥のさえずりのような、彼らのことばが満ちた。(黒羽恵美子「母国語」『旅の朝』134-135頁)

  教員の仕事は肌に合わないと思ったようで、祖母は半年ほどで辞めた。祖母はその後も転職を繰り返しており、「街」(『文藝臺湾』第2巻第6号、昭和16年9月20日、44-45頁)という小文では新公園でぼんやりしながら次はどんな仕事をしようかと考えている様子が描写されている。当時、戦争で男性は出征し、人手不足であったため、女性でも職探しに困らなかったと祖母からじかに聞いた。

  私が台湾研究に入り込んだ理由は色々とあるのだが、少なくともそうした中の一つとして、台湾生まれの日本人、いわゆる「湾生」であった祖母の存在がある。祖母は台湾史の中にささやかながらも明確な足跡を残しているので、プライベートなことではあるが、祖母について書き記しておくのもやはり意義があろうと思う。

  祖母・黒羽恵美子の旧姓は亀田という。台北にいた若い頃、西川満が主宰する『文藝台湾』の同人であった。もともとが文学少女だったので、台北第一高等女学校補習科に在学していたときの恩師でやはり作家として活動していた濱田隼夫の紹介により西川へ紹介され、その縁で作品を発表している。私が初めて祖母に台湾時代の話を聞いたとき、たまたま西川満の名前を出したところ、「あら、西川さんだったら知ってるわよ」と何気ない様子で答え、続けて龍瑛宗、黄得時といった名前も祖母の口からスラスラ出てきたので驚いた覚えがある。

  台湾から引揚げるにあたり、携行できる荷物に制限があったため、祖母は自身の作品の切り抜きだけを持って来たが、やはり欠落が多かった。ところが、現在、台湾の中央研究院や国立台湾図書館で日本統治時代の史料のデジタル化が進められており、それらを通して祖母の作品をだいぶ網羅的に読めるようになったのはありがたい。当時の名前、龜田惠美子で検索して、現時点で確認できているのは下記の通りである。

「返信」(『華麗島』1号、昭和14年12月1日)
「ふるさと寒く」(『文藝臺湾』第2巻第4号、昭和16年7月20日)
「ある出来事 田舎のバス風景」(『臺湾日日新報』昭和16年8月9日)
「街」(『文藝臺湾』第2巻第6号、昭和16年9月20日)
「風俗の反省」(『臺湾日日新報』昭和16年9月27日)
「思ひ出の街」(『臺湾公論』昭和19年5月号)
「九龍生活」(『臺湾時報』昭和19年6月号)

  作品数は多くないが、「ふるさと寒く」については当時の同人たちから好意的に評されていた(例えば、『文藝臺灣』昭和17年7月号の文芸鼎談)。本作は台湾に生まれた祖母が、父の里帰りに付いていく形で初めて「内地」へ渡った時の心境を描き出している(なお、この里帰りについては、祖母が戦後に刊行した『旅の朝』[黒羽恵美子、東京:日本随筆家協会、1986年]所収の「山の匂い」という一文にも記されている)。最近では台湾文学研究の中で取り上げられることもあり、例えば、橋本恭子『『華麗島文学志』とその時代──比較文学者島田謹二の台湾体験』(東京:三元社、2012年)や邱雅芳『帝國浮夢──日治時期日人作家的南方想像』(臺北:聯經出版、2017年)でも言及されている。「ふるさと寒く」に最も早く注目したのは台湾文学史研究の先駆者・葉石濤で、『台灣文學集1 日文作品選集』(高雄:春暉出版社,1996年)に本作を自ら訳出した上で、次のように指摘している。

「最後小說的主角勢子和她的父親,離開了寒冷的內地故鄉返回台灣。她們父女眷戀『悠閒、美麗、安樂』的台灣,束裝返回她們真正的故鄉——台灣。小說中充分呈現統治者日本人認同台灣的強烈意念。她們在內地感受不到溫暖,身心凍冷,唯有陽光燦爛的台灣才能使她們活得舒暢。它描寫了殖民者日本人的一部分已經認同台灣這塊土地和人民。」(葉石濤編譯,《台灣文學集1 日文作品選集》,頁145)
「最後に、小説の主役である勢子と彼女の父親は、寒い内地の故郷を離れ、台湾へ帰る。彼女たち親子は「ゆったりとして、美しく、楽しい」台湾をなつかしく思いながら、真の故郷である台湾へ帰る準備をする。統治者である日本人が台湾へアイデンティティーを持つ強烈な思いが小説の中で十分に表れている。彼女たちは内地でぬくもりを感ずることができず、心身は冷え切ってしまった。陽光燦燦たる台湾だけが彼女たちをのびのびした気分にしてくれる。この小説は、植民者である日本人の一部分がすでに台湾という土地とそこの人々にアイデンティティーを抱いている様子を描き出している。」

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