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台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

  2018年10月20日(土)、台南市の台湾文学館(地下一階図書室)にて、高英傑『拉拉庫斯回憶:我的父親高一生與那段歲月』(臺北市:玉山社,2018年)の新書分享會が開催されたので参加してきた。本書の刊行は7月なので、もう新刊と言うには微妙な時期ではあるが、台湾南部では最初の開催ということになるらしい。


  高英傑さんは1940年生まれだから、今年は78歳であろう。物腰や語り口から、穏やかで謙虚なお人柄がよく伝わってくる。主に写真を紹介しながら本書の内容について説明をしてくださったのだが、悲劇的な話は淡々と語られ、むしろ努めてユーモラスな話題をピックアップされていたのが印象的だった。


  考えてみると、本書の読後感もちょっと不思議な感じだった。短い読み切り短編を並べたような軽やかな筆致で、深刻な悲壮感は漂っていない。しかしながら、むしろそうであるがゆえに、突如として父を喪失した悲しみと無力感とが、いっそう胸に迫ってくる。


  高英傑さんの父・高一生(1908-1954)は、現在の嘉義県阿里山郷にいるツォウ族のリーダーであった。日本統治時代に台南師範学校を卒業、故郷に戻って警察官となる。当時の山地行政における警察官は行政や教育など様々な分野を兼掌していたから、郷土出身のリーダーとして重要な役割を果たしたが、同時に植民統治機構の末端に身を連ねるという立場から、難しい判断を迫られることも多々あったであろう。そうした立場的難しさは戦後も変わらず、国民党政権下では呉鳳郷(現在の阿里山郷)長となった。理想家肌の高一生は、原住民自治の構想を思い描き、郷土の人々と共に新たな農場を開こうとした。


  ところが、そうした彼の理想は、国民党政権の権威主義体制からは反逆と映ったのであろう。1952年汚職容疑をでっちあげられ、逮捕されてしまった。ちょうど高英傑さんが台中簡易師範学校へ入学するときで、学校でも色々と言われたらしい。高一生は1954年に処刑されたが、家族は高英傑さんが動揺するのを心配して何も伝えなかったという。帰省したとき、新しい墳墓が出来ているのを見て、初めて父の死に気付くことになった。


  本書では父・高一生の思い出ばかりでなく、ツォウ族のかつての習俗や、1940年代の政治体制転換における混乱なども、高英傑さんご自身の体験や見聞として記されており、その点でも興味深い。1947年の二二八事件のとき、台南県長の袁国欽(九州大学出身で日本語ができる)は外省人官吏を連れて阿里山のツォウ族のもとまで逃げてきて、高一生は彼らをかくまってあげたという。1950年には中国東北地方出身の先生たち(王景山、その妻の劉某、陳貴琦)が赴任してきた。彼らは旧満洲国統治下にいたので日本語ができたが、国民党の密告者だとして信用されなかった。彼らのような旧満洲国出身者がどのくらい台湾に来て、何をしていたのか、気になる。また、高英傑さんが長老教会に若干の不信感を持っているのも興味を引いた。長老教会もツォウ族の地へ布教に来たが、やはり国民党のスパイが潜り込んでいたかららしい。戦後、山地原住民にはキリスト教が急速に広まったが、高英傑さんはカトリックの方にシンパシーを寄せている。弟の高英輝さんはカトリックの神父だという。


  プユマ族の音楽家として知られる陸森寶(1908-1988)が台南師範学校で高一生の後輩にあたることは本書で初めて知った。1946年には陸森寶がプユマの舞踊団を連れてわざわざツォウ族の部落まで来て音楽交流をしていたという。高一生も公務のかたわら作曲をしていた。高英傑さんも講演中の話題を説明する必要上、歌声を披露されたが、音楽の才能に秀でた家系なのだなあと感じ入った。

  嘉義県の沿岸部に位置する布袋(旧称は布袋嘴)は、海峡をはさみ直線距離で大陸や澎湖から近いので、古くから港町として栄えていた。17世紀には存在していた「魍港」もすぐ近くである。現在はかつてほどの賑わいは見られないが、澎湖への船便は出ているし、漁港としても知られている。また、周囲には塩田が広がっており、もともと製塩業の盛んな地域でもあったが、現在では行われていない。


  「高跟鞋婚禮教堂」は2016年に建設された観光モニュメントである。「高跟鞋」とは中国語でハイヒールのこと。青く半透明の巨大ハイヒールは不思議な存在感があり、夜にはライトアップされる。「教堂」とはいうが、名前だけで正式な教会ではなく、牧師も駐在していない。


布袋高跟鞋教堂1


布袋高跟鞋教堂2


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  一見したところ、ロマンティックな演出が凝らされているが、実はこのハイヒールには悲しい歴史が象徴的意味として込められている。


  嘉義県布袋鎮から南の台南市将軍区、七股区にかけての地域で、かつて「烏腳病」という奇病が流行した。足や手の先が黒ずんで壊死してしまうという症状が頻発したのである。原因はヒ素中毒であった。この地域は水資源に乏しく、飲料水を確保するにはかなり深くまで井戸を掘らなければならなかったのだが、水のある層に天然のヒ素が含まれていたと言われる。上水道が整備されて、ようやく「烏腳病」の流行は終わった。


  布袋のハイヒールは、西洋的な婚礼装束として女性の結婚への憧れを表わしている。同時に、「烏腳病」と結び付けた意義も持たされている。布袋の隣・将軍という町に生まれた王という24歳の女性が、「烏腳病」の症状が悪化したため、婚礼を目前にして両足を切断しなければならなくなった。まだ貧しく、古い価値観に縛られていた時代、身体が不具合になることは、すなわち結婚を断念しなければならないことを意味していた。そのような女性でも、新たな生活へと踏み出していけるようにという願いが、この青色の巨大ハイヒールに込められているという。


【追記】上記に紹介した「烏腳病」をめぐる説明は、後付けされた理由に過ぎない、という批判もあるというご指摘を受けましたので、合わせてここに記しておきます。

  嘉義県の沿岸部に位置する東石郷副瀬村。かつては漁村であったはずだが、台湾西岸でよく見られるように、やはり土砂に埋もれて海岸は遠くなっている。周囲には養殖池が散在しており、家々の前に牡蠣殻が積まれているので、現在は牡蠣の養殖を生業としているのであろう。交通手段も不便なこの鄙びた村に、最近は日本人がよく足を運んでいると聞く。村の中心にある富安宮に森川清治郎という日本人が祀られていることが日本側にも知られるようになったからである。


  富安宮の創建は清代乾隆年間までさかのぼることができる。当初から祀られていたのは五府千歳、いわゆる王爺である。王爺をどのように捉えるべきかについては諸説あるが、疫病の神とも言われる。


  森川清治郎(1861-1902)は1897年に来台して巡査となった。台湾南部の大埔林(大林)、打貓(民雄)、新港などを経て1900年に鰲鼓へ転任してくる。鰲鼓は間もなく、現在の副瀬と改称された。森川巡査は日本から家族も呼び寄せてここに腰を落ち着けようとしたようだ。


  日本統治時代の台湾において、とりわけ非都市部の警察官は治安維持など本来の職務ばかりでなく、行政・教育・衛生・殖産指導などあらゆる問題にわたって仕事をこなしていたと言われる。森川巡査は非常な熱意を持って村人と接したようで、彼の業績として次のようなことが挙げられている。
・自腹で農機具を買い入れて農耕技術の導入に尽力
・自腹で教師を雇って学校を開いた
・海辺で怪我した村人を助けたが、その時は彼自身も重傷を負っていた
・村人からもらったお歳暮を貧しい人に分け与えた


  1901年に台湾総督府の方針で税制が改正され、1902年から漁業税(竹筏や漁網に課税)が課されることになった。副瀬村は貧しい漁村で、過大な税負担には耐えられない。森川巡査は村人から懇願され、かつ彼自身も村の状況を見てその過酷さを理解していたので、上司にあたる東石港支庁長のもとへ行き、掛け合った。ところが、逆に村人の反抗気運を扇動したと叱責されてしまう。村人と上司との板挟みになった森川巡査は1902年4月7日に銃を使って自決した。享年42。


  それから21年が経過した1922年2月、この地域一帯で脳脊髄膜炎が流行り始めたとき、保正を務める李九の夢に制服姿の森川巡査が現われた。夢枕に立った森川巡査の助言に従ったところ、この村では死者を出さずにすんだという。そこで村人たちは資金を出し合って森川巡査の像を作り、富安宮に祀ることにした。1923年5月18日付『台湾日日新報』の記事「死後神と祀らるゝ森川巡査 至誠の餘薫」には、同年5月22日に富安宮にて合祀祭の予定と記されている。この記事は、李九の息子や古老たちの証言を引きながら上記の経緯を簡単にまとめており、珍しい出来事として取り上げられている。


  なお、森川巡査が祀られるに至った経緯については、富安宮で配布されている王振榮『義愛公傳─超越時空生息的森川清治郎』(第五版、富安宮管理委員会、2017年)を参照した。このパンフレットは日本語版もある。富安宮の前には森川巡査の事績を絵物語で表現した壁画も設置されている。


富安宮1


富安宮2


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  台湾で日本人が神として祀られるのは、必ず童乩のお告げか、夢枕に立つかのどちらかをきっかけとしており、富安宮の義愛公も例外ではない。疫病が契機となっている点では、王爺を祀る富安宮の本来の位置づけとも関わるのが興味深い。他方で、台湾で日本人を祀るのは、そのほとんどが戦後の現象なので、富安宮が1920年代の時点で義愛公を祀っているのは極めて珍しい事例である。


  1923年の時点で『台湾日日新報』がすでに報じていたように、日本統治時代から森川巡査の事績は知られていた。1930年代以降になると、私が確認している範囲では次の文献が現われている。
・佐々木周次郎(台南)「神に祀られた警察官(1)(2)」『台湾警察時報』47-48号(1932年3-4月)
・台南州警務部「神に祀られた故森川巡査(1)~(4)」『台湾警察時報』206-209号(1933年1-4月)
・志村秋翠『明治の呉鳳』(臺南みどり社、1937年4月)→『親民』第2巻第4号(臺南共榮會、1937年7月)にも採録
・國分直一「義愛公と地方民」『壺を祀る村』(東都書籍、1941年)


  このうち、『明治の呉鳳』というタイトルは、今川淵・台南州知事が東石へ視察に来たときに森川巡査のことを知って名付けたのに由来するという。作者の志村秋翠は児童文学者らしいが、子供向けに読みやすい物語に仕立て上げられている。ただし、この『明治の呉鳳』には大きな改変がある。森川巡査は、村人のために税負担軽減を訴え、それが叶わずに自殺した。ところが、『明治の呉鳳』では、森川巡査がコレラ患者を親身に看病しているうちに自らにも感染して亡くなったとされている。本書の刊行された1937年は台湾でも総動員が本格化している時期であり、台湾人から慕われる「慈愛に満ちた」日本人指導者像を演出するために森川巡査の利用を図ったが、彼が行政系統の命令に反する行為を取った点は不都合と考えられたのであろう。


  戦後になると、研究論文も含めて、下記の文献がある(私はこのうち李明仁論文以外は未見)。
・小松延秀『義愛公と私』(台湾友好親善協会、1989年)
・尾原仁美『台灣民間信仰裡對日本人神明的祭祀及其意義』(國立政治大學民族研究所碩士論文、2007年)
・李明仁「副瀨的日本王爺義愛公─森川清治郎」『臺灣學通訊』第88期、2015年7月
・土屋洋「日治末期義愛公表彰的虛實:志村秋翠《明治吳鳳》與國分直一〈義愛公與童乩、地方民〉考論」『嘉義研究』第15期、2017年3月


  なお、富安宮の義愛公は各地に分霊されている点でも、他の祀られた日本人と異なる。下記の10件が確認されている。
・朴子天旨堂(嘉義縣朴子市)
・龍港村三太子壇(嘉義縣東石鄉)
・中埔富南宮(嘉義縣中埔鄉、現存せず)
・小副瀨富安宮(嘉義市小湖里)
・小副瀨富義宮(嘉義市小湖里)
・小副瀨富南宮(嘉義市小湖里)
・嘉義西安宮(嘉義市民安里)
・和美平安宮(彰化縣和美鎮)
・高雄德安宮(高雄市龍子里)
・新莊北巡聖安宮(臺北縣新莊市)

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