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台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

  基隆市長官邸からさらに南の方へ歩いて行くと、古びた日本式家屋がいくつか見えてきた。このあたりの邸宅は、国民政府に接収された後、基隆要塞司令官邸や将校宿舎として使われていたようだ。

  要塞官邸はもともと、日本統治時代の1931年、基隆流水バス会社の社長・流水偉助によって社宅として建てられ、1936年以降は基隆乗合自動車会社の所有となった。国民政府による台湾接収後、もともとあった台湾要塞司令官邸は砲撃を受けて使えなくなっていたので、流水バス会社の社宅を官邸として充当したらしい。

基隆要塞8

基隆要塞6

基隆要塞7

基隆要塞5

基隆要塞1

基隆要塞2

基隆要塞3

基隆要塞4

  和平島から基隆駅方面まで戻ろうと、港湾沿いの道をとぼとぼ歩いていたら、瓦ぶきの日本式家屋を見かけた。「基隆市定古蹟市長官邸」とあり、一般公開されているようなので中に入ってみた。地元の方がボランティアガイドとして色々と説明してくれた。古びた建築をいったん解体し、使える建材は再利用しながら、当時の構造が再現されている。

基隆市長官邸1


基隆市長官邸2


基隆市長官邸3
  この建物は1932年に、台湾土地建物株式会社基隆支店長社宅として建てられており、当時の支店長・松浦新平氏がここに住んでいた。庭先からすぐ下りていけるところに海水浴場があった。日本統治時代、この近辺は海に面した高級住宅街といった趣だったのだろう。大通りを挟んだ向かい側には料亭が並んでいたという。

  日本の敗戦後、この社宅は国民政府に接収され、3人の歴代基隆市長、鄧伯粋(官選)、謝貫一(民選、中国国民党)、林番王(民選、中国民主社会党)がここで暮らした。この中で林番王は異色の市長である。中国民主社会党は中国青年党と共に、国民党主導の戒厳体制下において例外的な合法政党であった。国民党政権が基隆とは縁もゆかりもない市長候補者を押し付けようとしたため、それへの不満を集めて林番王は基隆市長に当選した(1960-1965)。民主化以前の時代にあって、国民党籍以外で首長に当選した数少ない事例の一つである。日本統治時代の雰囲気をしのばせるというだけでなく、戦後基隆政界の中心的政治空間であったという点も保存理由に数えられているようだ。

  和平島海浜公園にて「番字洞」を見に行こうと思って岩礁地帯の方へ向かう途中、「琉球漁民慰霊碑」というのを偶然みかけた。

琉球漁民慰霊碑1


  由来として以下のように書かれている。


琉球ウミンチュの像建立の由来
 1905年頃から琉球人は基隆に移住し、その後560人もの集落を形成した。台湾人は琉球人に居住地を提供し、対して琉球人は漁法・造船・漁具修理など漁業全般の技術を惜しみなく伝えた。台湾人と琉球人が共助し、兄弟姉妹の如く暮らした輝かしくも誇らしい史実である。
 戦乱と復興の中で、琉球集落は消滅したが、長い歳月をかけ基隆市民は、社寮島近辺(和平島)に散在していたスペイン人、オランダ人、先住民、そして多くの琉球人の遺骨を収集し、思い出と共に萬善公に祀ったのである。
 此の度、琉球各界の有志者は、祖先の御霊を祀ってくれた基隆市民へ感謝の意を表すとともに、両国万世の有効と平和を希求し、ここに像を建立する。
2011年12月1日
琉球ウミンチュの像建立期成会
会長 名城政次郎
発起人 許光輝 石原地江


琉球漁民慰霊碑2

  地理的な近さもあって、台湾と琉球とには強い結びつきがあるが、ここ社寮島(和平島)はそうした中でも特別な意味を持つ。1947年、二二八事件が勃発した際、大陸から派遣された精鋭部隊はまず基隆に上陸、とりわけここ社寮島では凄惨な清郷工作が進められ、多くの死傷者が出た(社寮島事件)。犠牲者の中には琉球出身者30名あまりも含まれている。遺族の一人、青山惠昭さんが二二八基金会に賠償請求を行ったところ、当初、台湾政府内務部の意向もあって拒否されていたが、2016年2月、裁判所の判決により、賠償命令が出されている。

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