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台湾をめぐるあれこれ

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(運営者:黒羽夏彦 /黑羽夏彥/KUROHA Natsuhiko 2014年1月開設)

過去の記事については、総目次をご覧ください。
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  台湾における最古の博物館は、臺南州立教育博物館とされている。「臺南州立教育博物館の沿革」という一文に基づいてその由来をたどると、明治32年(1899年)、台南市永楽町(旧名・北勢街、現在の神農街)に開かれた臺南縣物産陳列所に求められる。同所は明治34年(1901年)9月に閉鎖されたが、明治35年(1902年)2月26日に北白川宮御遺跡地神苑(後の臺南神社、現在の臺南市美術館一館のあたり)の建物を改築して臺南博物館が開館し、物産陳列所の展示物はそこへ移された。大正11年(1922年)に臺南神社が建立されるにあたって、台南市幸町一丁目六番地の両廣會館(現在の臺灣文学館から南門路を挟んだ向かい側)に移転した。大正12年(1923年)4月、同博物館の展示品を半分に分けて、それぞれ教育博物館、商品陳列館とされたが、昭和2年(1926年)に商品陳列館は別の場所(現在の臺灣高等法院臺南分院のあたり)に建物が新築されて移転し、臺南州立教育博物館は旧両廣會館に残った(「臺南州立教育博物館の沿革」『科學の臺灣』創刊號、1933年11月、8頁)。


  同館の展示内容について上掲文では、「陳列品は自然科学に属するもの大部分を占め、特に臺灣鳥類に於ては恐く総督府博物館にも増して本館の特色を示して居る、外に風俗及玩具機械模型等を合して総数七千點に達してゐる」と記されている(同、8頁)。また、「始政二十年記念臺灣勧業共進會」(1916年)の機会に来台した鳥類学者の黒田長禮は台南博物館を見学した際の印象として「規模は小さいが、台北博物館にもないような珍しい鳥が集められ」と記している(黒田長禮『旅と鳥──鳥とともに六十年』法政大学出版局、1958年、56頁)。つまり、臺南州立教育博物館は鳥類関係の展示に特色があったようである。鳥類標本の充実に尽力したのは、同博物館の主任として運営の責任を担っていた風野鐵吉(1882-1945)である。


  風野は明治15年(1882年)12月8日、栃木県に生まれた(ただし、明治45年に島根県浜田町に転籍)。松江農林学校(おそらく島根県農林学校を指す)に学び、明治36年(1903年)に卒業した。島根県那賀郡技手を経て、明治42年(1909年)に渡臺して臺南廳・臺南州技手となる。大正13年(1924年)に退官したが、その後も臺南州立教育博物館主任(臺南州内務部教育課・勧業課嘱託)として博物館業務に従事した。とりわけ鳥類研究に専念し、日本鳥学会の学会誌『鳥』にもたびたび寄稿している(台湾総督府職員録系統;風野鐵吉「其の頃の臺南の面影」『臺南新報』1934年6月17日朝刊、10面;『自然科学と博物館』第9巻第4号、1938年4月、53頁;島洋之助編『人材・島根:県人名鑑』島根文化社、1938年、113頁)。


  1945年、臺南州立教育博物館はアメリカ軍の爆撃を受け、その収蔵品のほとんどは灰燼に帰した。黒田長禮は上掲書で「きくところによれば、太平洋戦争中、台南博物館は直撃弾を受け、風野氏は自ら長年の間、苦労して育て上げた館と運命をともにし、その生涯を閉じられたということである」(57頁)と記している。


  林文宏『台灣鳥類發現史』では風野について次のように記されている。「於1916年加入日本鳥學會,為台南博物館動物部之負責人,兢兢業業於充實該館之鳥類標本,除親自採集外亦多方收購,使得1939年時該館的鳥類標本逾250種,成績可觀。多次為文報導該館所得之稀有鳥類標本記錄,增加許多台灣新記錄,是日人時期後葉對台灣鳥類發現史貢獻最卓著者。曾負責創辦阿里山高山博物館,於達邦發現林鵰,為台灣留鳥的發現史劃下完美句點」(林文宏,《台灣鳥類發現史》,台北:玉山社,頁50)。私自身は鳥類のことは全く分からないのだが、台湾での鳥類発見史における風野の貢献が高く評価されており、とりわけ林鵰の発見が重要とされている。林鵰は日本語で「カザノワシ(風野鷲)」という。


  台南にある私立の博物館「奇美博物館」を創立した実業家の許文龍(1928-2023)は幼い頃、この臺南州立教育博物館に通いつめていたという(「奇美博物館 創館故事」)。奇美博物館は美術・楽器・武器の展示で知られているが、自然史展示も充実している。風野がまいた種が許文龍の心の中で育ち、新たな博物館として開花したというのも一つの機縁であろう。
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  台湾の道路を歩いていると、「南無阿彌陀佛」と書かれたお札が壁や電信柱に貼られているのを見かけることがある。たいていは死亡事故のあった場所である。不慮の死者は、仲間を呼び寄せようとするかもしれない。死者に成仏してもらい、土地の平安を願うのが、このお札の目的である。


  場所によっては、阿弥陀仏が道路の交差点に鎮座している。台南市内でもしばしば見かける。日本であれば道端にお地蔵さんがたたずんでいるのはよく見かける風景であるが、台湾の場合は錫杖を手にしていないので、やはり阿弥陀仏であろう。格子付きのボックスに入れられているのはなぜであろうか? 交通事故多発地帯だから、車やバイクの衝突から守るためだろうか?


  私がなぜ道端の阿弥陀仏に関心を持ったかと言うと、理由は次の2点である。①厲鬼祭祀の事例として。②日本の「お地蔵さん」との比較。以前、こちらの記事「自殺の名所・台南運河とお地蔵さん」(2024年1月6日)に書いたが、日本時代には自殺者予防としてお地蔵さんが建てられた事例がある。これは台湾で言うと、ここで紹介する阿弥陀仏と同様の役割と考えられるが、日本的な「お地蔵さん」が建てられたことを、台湾の宗教文化的脈絡においてどのように捉えたらいいのか?という論点に関心を持った。台湾社会における道端の阿弥陀仏に関して専門的に論じられた論文は見当たらないので、引き続き関連文献は探していきたい。


■公園路・公園南路の交差点
  台南公園の南側、公園小学校の脇に位置している。仏像そのものは色がはげ落ちており、それなりの古さを感じる。以前は野ざらしだったのだろうか?


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■成功路・公園路の交差点
  成功路は台南駅前から西側へまっすぐ伸びている幹線道路である。なお、ここからさらに西側へ行った忠義路との交差点で、昨年、妊婦の運転する車が母娘を轢いてしまうという痛ましい交通事故が起こった。こちらの記事「台南の交通事故の多さは日常的な社会生活習慣に起因する」(2023年5月13日)を参照されたい。


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■小東路・東興路の交差点
  ここは「小東阿彌陀佛」という看板がかかっている。中に掲げられた沿革には、1982年11月17日、御仏の庇護により安産、地方の安寧、コミュニティーの平安、無事故であることを祈るという趣旨のことが書かれている。なお、この阿弥陀仏のすぐ後ろには、以前、「阿進仔」という海産料理店があり、私が台南へ来たばかりの頃、会食でよく訪れたことがあったが、昨年、閉店した。繫盛していたのだが、建物の貸主が信仰に目覚め、殺生をする店には貸せないと突然言い出して、追い出されたという。


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(写真は2024年1月22日に撮影。撮影前にはきちんとお祈りした)
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